法哲学講義「自由の概念分析」(2)
(第1回はこちら)
自由の時間的な幅
ではちょっと戻りながら、重要そうなところを確認していきましょう。1番、「強盗に銃を突きつけられているので、動けない」。たぶんこれ、みなさんとしては典型的な自由・不自由の問題と考えたんじゃないかなと思います。つまり、この状況だとAさんは「不自由」であるし、それは言葉の使い方としてまったくおかしくない。……でも、どんなふうな意味でそういえるのか、もう少し細かく考えてみましょう。たとえばこのAさん、強盗に銃を突きつけられていても、動けることは動けますよね。「だから自由でしょ」って言われたら、これはどうでしょう? 何かがこんがらがっていそうですが、誰か説明できる人います?
学生A「たしかにその瞬間は自由なんですけど、その後の自由が守られていないなあと思いました。ごく短期的な自由しか守られなくて、結果としては、その後あるはずだった自由を失うことになっているので。よろしくないんじゃないかなと思います。」
ああ、それは面白いかもしれませんね。自由っていうのは、銃を突きつけられている一時点のことではないというわけね。「その後の自由」っていうのがあって、動いたら撃たれる、そうすると死んじゃうわけだね。自由がなくなっちゃう。とすると、自由という概念は、ある程度時間的な幅っていうのを考えざるをえないんじゃないかということか。なるほど、これ、かなり面白い論点だと思います。時間的な幅を入れたら、1番から5番あたりも、けっこう◯×があやしくなってくるのもありそうな気がしますね。
続きを読む井上達夫「批判者たちへの「逞しきリベラリスト」の応答」に思うこと
1. はじめに
井上達夫先生より、『法と哲学』第2号をご恵投いただいた。今号には多くの興味深い論考が掲載されているが、圧巻は井上先生による、瀧川・大屋・谷口編『逞しきリベラリストとその批判者たちーー井上達夫の法哲学』(ナカニシヤ出版、2015年、以下『批判者』と略記)への約70ページに及ぶ「応答的書評」だろう。『批判者』は門下生たちが井上先生のこれまでの研究について、それぞれの問題関心から批判的考察を行った論文集である。井上先生の今回の「応答的書評」は同書の17本(+α)の論考すべてについて詳細な反論を行うものであり、一般的な「還暦記念論集」の儀礼的やり取りとはまったく異なった、緊張感に満ちた知的応酬となっている。
私も『批判者』に「時間ーー入れ違いの交換可能性のもとで」(209-221頁)という論考を掲載した。内容的には特に強い批判を行うというよりも、井上法哲学の「時間的再構成」を試みたものである。これは井上先生が必ずしも明示していない前提を明らかにする点で一定の意味のある試みであると信じるが、外在的な議論であるため、特に触れられなくとも仕方ないと思っていた。が、本稿にも3ページにわたる応答をいただいたことは望外の喜びであり、心よりの感謝を申し上げたいと思う。
ただ、その応答の大部分は私の議論と噛み合ったものとはいえず、なぜこのようなズレが生じたのか、困惑しているというのが正直な思いである。もちろん、私の論考自体、文章が散漫で議論を十分に深められていなかった部分もあったことは率直に認めざるをえない。実際、議論が始まる前に終わってしまった印象がする、という批判を他の方からいただいた。この点は反省する必要があるが、まずは井上先生の応答と私の議論とのあいだにどのようなズレがあると私が考えているかを整理しておくことにも一定の意義があると思うため、以下でそれを行う。今回は断片的な整理にとどまるが、今後の私の論考(特に出版予定の著書『世代間正義論』)ではさらなる拡充を行う予定である。
以下、敬称を略す。参照にあたっては、私の元の『批判者』論考は「時間」と略記し、井上の応答は「応答」と略記する。
続きを読む法哲学講義「自由の概念分析」(1)
1. 法概念論に向けて
では、始めます。今回で8回目で、ちょうど折り返し地点という感じですね。これまで扱ってきたのは「正義論」と呼ばれる分野で、たくさんの立場、たとえばリベラリズムとかリバタニアリズムとか功利主義とか、いろいろ紹介してきました。嫌いにならないでください。今回からはそれとはちょっと趣向が変わった話になります。これからやるのは「法概念論」と呼ばれる分野、要するに「法とは何か」を問うものです。
「法とは何か」というのは法哲学にとって根本的な問題ですが、これだけだと問いがぼんやりしすぎていて、どう答えればよいかよくわからないですよね。なのでこの授業では、まずは法に関係するさまざまな言葉の実際の使われ方に着目していってみたいと思います。これは哲学的な言い方をすると「概念分析」と呼ばれるやり方です。で、今回は「自由」とは一体なんだろうか、という問題を扱います。
自由っていうのは、法的にたいへん重要な概念であることは確かですけれども、案外、意味がはっきりしていない。もしかしたら私たちは同じ言葉でまったく別のことを言ってるのかもしれません。だとするとあんまりいいことではないですよね。みんなが合意できる定義はないかもしれないけど、少なくとも主要な対立点というか、ズレを整理して意識することはできると思います。今回の授業ではそれを目標にします。
続きを読むキャンパス・ハラスメント防止啓発委員会より――大学1年生に向けて
こんにちは、法律学担当の吉良です。これから10分ぐらい、キャンパス・ハラスメント防止委員会からのお話をします。お配りの資料のなかにパンフレットが入っていますので、それを見ながらちょっと聞いてください。
キャンパス・ハラスメントとは何か?
キャンパス・ハラスメントというのは、聞いたことない言葉かもしれませんが、大学のなかで、あるいは大学内じゃなくても、大学の人間関係をもとにして起きるいやがらせ、いじめのことです。
たとえばみなさん、セクシュアル・ハラスメント、セクハラという言葉は聞いたことありますよね。その「ハラスメント」と同じ言葉です。セクシュアル・ハラスメントは「性」に関わることですが、キャンパス・ハラスメントはもっと広く、大学に関わるいやがらせ、もっというと「なんだかいやなこと」全般です。これは先生と学生の関係でもそうですし、みなさんこれからサークルに入ったりバイトしたりすると思いますが、そこでの上下関係、もっというと「断りにくい」関係で起こりがちなことです。もちろんそれだけでなく、同級生のあいだでもなんだか「断りにくい」関係はあると思いますので、要するに誰とでも起こることだと思ってください。
続きを読む尾高朝雄の著作一覧
同年に複数の著作がある場合、単著書については[尾高 1947A][尾高 1947B]と大文字アルファベットで区別し、論文等については[尾高 1947a][尾高 1947b]と小文字で区別している。同じ年の中の順序は便宜的なもので、出版順ではない。旧字は適宜、新字に改めている。右の写真は追悼論文集より。
【単著書】
[Otaka 1932]Tomoo Otaka, Grundlegung der Lehre vom sozialen Verband, Wien
Verlag von Julius Springer: am
[尾高 1934]尾高朝雄『原始信仰の社会統制作用』[謄写版]
[尾高 1936]尾高朝雄『国家構造論』(岩波書店:am, NDL)
[尾高 1937]尾高朝雄『改訂 法哲学(現代哲学全集第十七巻)』(日本評論社:NDL)
[尾高 1941]尾高朝雄『國體の本義と内鮮一體』(國民總力朝鮮聯盟防衛指導部)[講演録]
[尾高 1942]尾高朝雄『実定法秩序論』(岩波書店:am, NDL)
[尾高 1943]尾高朝雄『法理学講義』[?]
[尾高 1947A]尾高朝雄『法の窮極に在るもの』(有斐閣:NDL)
[尾高 1947B]尾高朝雄『国民主権と天皇制』(国立書院:NDL)
続きを読む尾高朝雄と民主主義のためのノート (1)
1948年から49年にかけて出版された文部省教科書『民主主義』は、平易な文体ながら、現代の民主主義理論にとっても示唆に満ちた記述があふれる書である。1995年には径書房から復刻版が出されている。復刻版で400ページ近いこの本は「教科書」ということで一般に思われるようなものとは程遠く重厚であり(初版時は上下二分冊であった)、形式さえ整えれば立派な学術書ともなりえたであろう。だから通読するにはそれなりにたいへんだが(もちろんその価値はあるのだが)、読みやすくエッセンスをまとめた新書も先日、出版されている。
日本国憲法が施行されてまだ間もないころ、これだけの民主主義理論が「日本発」のものとしてまとめられたのは銘記に値することである。また「民主主義」のあり方がきびしく問題になっている昨今、立ち返るべき原点としての重要性も高まっているといえるだろう。
続きを読む荒木優太「反偶然の共生空間」へのランニング・コメンタリー
2016年1月10日の若手法哲学研究会にお呼びしてお話いただく荒木優太さんの「反偶然の共生空間――愛と正義のジョン・ロールズ」(群像新人評論賞優秀作、群像2015年11月号)の感想です。本作はロールズ『正義論』の意欲的な読み方を示すものであるとともに、ご専門の近代日本文学への応用可能性も感じさせ、いわば〈法と文学〉の実践例としてとても興味深く拝読しました。ここでは第一コメントとして、できるだけ本文に内在的に、思ったことをつらつらと書いてみます。ページ数は『群像』のもの。
72:序文
- 「生には〈一度〉しかないが、思考には〈何度も〉がある。ここはロードスではない」。反照的均衡ってそういうものかな*1。どうだろう。
73-75:光と闇の光学的コード
- 高橋たか子「共生空間」(1971)を導入とシメに。
- 知らない作品だったけど、これがどこまで全体に効いてくるか。
- 「あの人と私は目鼻立ちこそ違ってはいるが、魂は同じもの。あの人がいるかぎり、私は取り換えのきく存在でしかない」という「交換可能で想像的な共生空間」。
- 古井由吉「杳子」が芥川賞を受賞したのもほぼ同じ1970年。ユング的な共同主観性をいうならばこっちのほうがよさそうにも思えるが、言及なし。何もかも薄明のなかに溶融する古井よりは、高橋の「光と闇の光学的コード」の排除の中途半端さ――愛せる偶然と愛せない偶然のコード?――のほうがロールズ正義論と共振するという読みか?
*1:本論文が反照的均衡に触れているわけではない。本論文はロールズ正義論の方法論的特徴として取り上げるのは無知のヴェールだが、一方で正義と愛の反照的均衡(?)の可能性といったテーマもこの枠組では興味深いものと思われる。ロールズ論としての体系性は筆者が目指すところのものでは必ずしもないだろうが、今後の加筆においては期待したい点である。
森村進「還元主義的人格観とリバタリアニズム――吉良貴之会員への応答」への応答
森村進先生(一橋大学)から、前年に先生の著書『リバタリアンはこう考える』(信山社出版、2013年)について私が書いた書評「リバタリアニズムにおける時間と人格」(『法哲学年報2013』2014年10月、以下「書評」とする)への応答をいただいた(森村進「還元主義的人格観とリバタリアニズム」『法哲学年報2014』2015年10月)。
私の書評は自分の問題関心に強く引きつけた批判的内容であったため、森村先生の中心的主張を外したものになっていたのではないかと怖れていた。しかし、今回の応答ではそれも含め、議論を全体として好意的に受け止めてくださっているように思う。いろいろと生意気な批判をしたにも関わらず真摯な応答をいただいたことに、心よりの感謝を申し上げたい。
本稿は再反論というほどのものではないが、私の当初の問題関心をさらに明確化して述べたほうが論点がはっきりするのではないかと感じたため、若干の補足をしてみたいと思う。以下、敬称を略す。
私の書評は、まず方法論的特徴として (1) 森村のリバタリアニズム思想の正当化における多元主義的道具立てを確認し、次に (2) 森村における時間と人格観の関わりについて、(2-1) 自己奴隷化契約と還元主義的人格観、(2-2) 他者としての将来、(2-3) 死と人格、というふうにテーマを分けて論じた。森村の応答もその順番に応じたものになっているため、本稿でも再度、その順に述べていく。
続きを読む左足腓骨骨折記
2015.6.24(1日目:受傷)
- 30代大学教員、男性。腓骨骨折日記です。各種ブログで同様の症状の方の体験記を読んで励まされたので、自分も少し書いておく。もちろん、症状や治癒速度は個人差がすごく大きいので、お医者さんの意見を最優先にしてください。また、お医者さんによって言うことが正反対だったりもするので、不安に思ったら遠慮なくセカンドオピニオンを受けてください。
- 大学内、水曜2限開始前(10時前後)。ふだんはエレベーターを使うが、なんとなく気分で外階段を降りていたところ、雨に濡れた部分で滑って転倒。左足を思いっきり外にひねる。痛みでしばらく動けず。10分ぐらい倒れたまま。なんとか立ち上がって、人のいるところに出たものの、全然歩けなくてへたり込む。これはおかしいということで事務の方に車椅子を持ってきてもらって医務室に移動。しばらく氷水できんきんに冷やして、体育の元先生に固くテーピングしてもらう。この時点ではひどい捻挫だろうと思っていたが、念のため病院へ。仕方ないので授業は緊急で休講。
映画「ハンナ・アーレント」
2012年11月に東京国際映画祭で鑑賞したときのメモ。
700人ぐらいの会場が満杯で、こんなマイナーなニュージャーマ
以下、いくつか気がついた点など。ネタバレあるかもしれませんが