下野新聞「日曜論壇」に月1で連載している記事です(転載許諾済)。今回はナッジについての解説と、先日の本屋B&Bさんでの出版記念イベントで私が話したようなことを簡単にまとめてみました。小さなコラムなので特に踏み込んだものではありませんが、ご関心を持ってくださった方は、那須耕介・橋本努 編『ナッジ!?』(勁草書房、2020年5月)をぜひどうぞ。画像の下にテキストと解説もつけています。
1. コラム: 身の回りのナッジ、意識を
スーパーやコンビニのレジの前に一定の間隔で線が引いてある。新型コロナウイルス感染拡大を防止するよう社会的距離を取るためだ。
人々の行動を変えるこうした工夫を「ナッジ」という。英語で「肘でつつく」という意味だ。ビュッフェ式の食堂で野菜を手前に置くと栄養バランスのよい食事にする人が増えたとか、階段をピアノの鍵盤模様にするとエスカレーターでなく階段を使う人が増えたとか、さまざまな例がある。人々の無意識のバイアスを研究する「行動経済学」の知見を基に世界各国で可能性が探られている。
ナッジは命令ではない。罰則付きの法律とは違って従わない自由がある。それによって人々の反発を抑えている。常時見張る必要がないから安上がりでもある。今回のパンデミック(世界的大流行)で、民間でも活用が広まった。
ナッジ「される側」は自分で決めるのを助けてもらえるので楽だ。しかし無意識のうちに誘導される気持ち悪さもある。命令でない以上、責任も曖昧になる。だから少なくとも公共機関が行う場合、どういう目的なのかを明示しなければならない。ナッジされる側もそれが適切か、不要なおせっかいでないかを議論する必要がある。近年はパブリック・コメントなどで「議論を促すナッジ」も活用されている。
ナッジの流行は先進国に共通の背景がある。社会保障や環境保護など、国家が取り組む課題は増える一方だ。しかし財政難や価値観の対立も深刻であるため、安価な手段で、人々の選択の自由を守りながら政策を実現することが目指されてきた。しかしこの自由は、「自分で決めたから」その結果を引き受けるべきだという「自己責任」論と裏表であることにも注意が必要だ。
日本に特有の文化的事情もある。最近、洗面所に「隣の人はせっけんで手を洗っていますか?」という貼り紙があるのを見た。直接注意するのではなく、無言の同調圧力を利用するナッジだ。ただでさえ対話や議論を避ける日本の文化で、こうした手法は不気味に感じる。それとも、トラブルを避けるためのコミュニケーションの知恵として評価すべきか。
ナッジは「する側」にとって魅力的な手段だ。発明の楽しみもある。しかしいつもうまくいくとは限らない。従わない自由がある以上、ある程度の失敗が前提とされている。何がうまくいかなかったのか考え、よりよいものに作り替える。失敗から学ぶ覚悟がなければ上手に使えない。
重要なのは、ナッジは単独では働きにくいということだ。人々の行動習慣を変えるには法律などのルールも含め、複数の手段を組み合わせなければならない。そしてナッジ自体も多様である。公共機関が使うものもあれば私企業によるナッジもある。また目的も健康増進だったり、経済活性化だったりする。すでに多くのナッジが私たちを取り囲み、競争しているのだ。その健全な利用のため、身の回りのナッジに目を向けたい。
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2. 『ナッジ!?』
本書はナッジについての法哲学・政治哲学・経済哲学からの論考を集めたものです。上のコラムにご関心を持ってくださった方はぜひどうぞ。ナッジの「便利っぽい」とか「なんか気持ち悪い」といったよくある反応がどこから来るものなのかという分析から、その限界を踏まえてうまく使っていくためにはどうすればよいかといったことまで、多様な角度から論じられています。
編者の那須先生の印象的な表現によれば、私たちはすでに否応なく「相互ナッジの海」に生きています。多様なナッジが衝突したり、補完したりし合っているなかで、それをどうすればよりよいナッジに作り変えていけるのか、そのヒントがたくさん載っている本です。「ナッジ・アンバサダー」の谷本先生の表現をもじれば、「ナッジか、よいナッジかの二択で考えてください」ということになるでしょうか。
もちろん、ナッジは万能ではありませんし、うまくいかないこともたくさんあります。むしろ失敗から学ぶ手法であるのがポイントです。その点で、ナッジは実験による検証に広く開かれています。少し条件を変えるだけで、効果がすぐに変わってきます。たとえば、① ビュッフェに置く野菜は「どれぐらい」手前がよいのか、② マスクをつけようというメッセージが反発を受けないようにするにはどういう言い方がよいのか、こういったことは実際いろいろやって試してみるのが一番です。なので、ナッジは人文・社会科学の発想を実証的な科学につなげることのできる分野横断的なテーマといえます――実際、そうした研究は現在、膨大に積み重ねられています。
ナッジ以外の多様な規制手段、たとえば「法」や「アーキテクチャ」との組み合わせも不可欠です。ナッジについて考えるのは、そうした概念を問い直すことにもつながります。たとえば、最近よくある「メッセージ伝達型ナッジ」は、罰則のない法と何が違うのか?など考えてみるとよいかもしれません。これはまさに「法とは何か」という法概念論の直球の問いといえます。そんなふうに「ナッジとの違い」から人文・社会科学の既存の概念を問い直すことができるという点でも、ナッジはきわめて興味深い素材といえます。本書でも、ナッジを中心的な手法とする「リバタリアン・パターナリズム」が「リバタリアニズム」や「パターナリズム」とどう違うのかといった考察がなされています。
まとめると、① ナッジは政策実現のためのきわめて実践的な手法であるとともに、② 実験・実証に開かれているという意味で文理横断的であり、また、③ 既存の概念を問い直す視点として伝統的な人文・社会の諸学にとっても有益なものといえます。これだけ多様な使い方が――ときに衝突したり、補完したりしながら――できるという意味では、ナッジをめぐる思考そのものが「相互ナッジの海」であり、本書はその一端を垣間見せてくれるものといえます。
3. 文献紹介
ナッジというアイデアを明確に定式化した最初の本がこちらです。まずはここから。
ナッジの「実験」が積み重ねられ、その有効性の検証も進んできました。本書はそれを踏まえてサンスティーンが議論を update したものです。サンスティーンの「自由」概念の変容といったところも興味深いです。
哲学的な発想を「実験」によって検証するにはどうすればよいか。そうした「実験哲学」の入門書です。本書を読めば、ナッジの文理横断的な性格やそのインパクトがさらによくわかるのではないかと思います。
こちらはちょっと無理矢理の紹介になりますが(私が訳したものです)、統治機構のデザインを、各制度のキャパシティやそこでの人々のインセンティブの整合性の「最適化」という観点から論じるものです。たとえば、科学的に不確かな問題について行政が専門家委員会を作る場合、どんな人選をすればよいのか。同じような人ばかり集めても見解が偏ってしまうとか、判断の重みが過重にならないような意思決定の仕組みを作るにはどうすればよいかとか、そういったことを論じるにあたっては、ナッジの議論で参照される、人々の認知能力の限界や無意識のバイアスといったことを考慮に入れる必要があります。いわば、ナッジ的な発想を統治機構論で展開しているのが本書であるといえます(著者のヴァーミュールとサンスティーンは同僚であり、共著もいくつかあります)。