tkira26's diary

吉良貴之@法哲学のブログ。

井田良『死刑制度と刑罰理論』(岩波書店、2022年)

 本書をゼミで読んでいる。いわゆる死刑存廃論の頻出の論点はさほど扱われず(最後の補論で多少の言及がある程度)、メインの内容は、① 刑罰は何のためにあるのかという根本的な問題の考察と、② 近年の日本での重罰化・厳罰化、そして「被害感情」の重視といったことがなぜ起こっているかということの分析である。

 著者の立場は、② についてはおおむねオーソドックスな犯罪社会学をなぞるものといえる。しかし随所に刑法の具体的な話(日独の理論動向や、制度のあり方)が補われるので、それが類書にないオリジナリティを本書に与えている。他方、① は著者独自の立場、つまり新ヘーゲル主義的な「応報刑ルネサンス」をふまえた「規範保護型応報刑論」といったものである。これは慎重な検討を要する主張である。

 私の率直な感想としては、②についてはさらなる議論はもちろん可能なものの、大きな異論はない。①については、一貫した理論ではあるものの、かなり特異な規範存在論をとっているため、にわかに賛成はできない。とはいっても私は刑法を専門的に勉強したことはないので、以下、いくつかの外在的な疑問を述べるにとどまる。本書は少なくとも値段から判断するに、ある程度は一般読書人向けの内容でもあるから、外在的なコメントを述べることにも一定の意義があるだろう。しかしもちろん、私が刑法学について誤解をしているのであれば、専門外だと言い訳するつもりはまったくない。

1. 規範保護型応報刑論:「被害者」とは誰なのか?

 本書は通説的な(?)「実害対応型応報刑論」を批判し、新ヘーゲル主義的な「規範保護型応報刑論」を刑罰論の基礎に据える。この議論のドイツにおける展開を私はほとんど追えていないが、飯島暢『自由の普遍的保障と哲学的刑法理論』(成文堂、2016年)が見事に整理しているので、私の理解ももっぱらそれに基づく。

 近年のドイツ刑法学での「応報刑ルネサンス」にはカント派とヘーゲル派の流れがあり、一般的にいわれる「応報刑論」はカント派の厳格主義に近いものといえるだろう。それに対し、著者が好意的に援用するヘーゲル派の議論はかなり直観に反するものである。以下、乱暴を承知でまとめる。「応報」というからにはその前に何らかの加害があり、その被害者がいる。その回復として応報がある。そこで「被害者」とは誰か。カント派的にはもちろん加害を受けた当人、本書の主題である「死刑」が問題になるような場面についてより正確にいえば、当人の「人格」ということになる。応報とは人格への加害に対するものであり、とりわけ殺人は殺人者本人の人格によってのみ、つまり死刑によってしか釣り合わせることができない。人格は人格としか釣り合わない。他の刑罰による代替は殺人によって失われた人格を何か別のものと釣り合わせることであり、それは人格の手段化という、カント的倫理への重大な違反である。カントの評判の悪い死刑肯定論はこういう筋道になっている。

 それに対しヘーゲル派の場合、「被害者」は誰なのか。これもわかりにくいが、現実の犯罪被害者ではないし、カント的に措定されるような人格でもない。端的にいえば「法規範」である。法規範の否定が犯罪であり、それを国家権力がさらに否定し返す否定の否定が刑罰、つまり応報刑である。犯罪者は具体的な誰かに対して罪を犯したから罰せられるのではない。法規範を否定したから罰せられるのである。それによって現実の被害者が救済されることもあるが、それはあくまで偶然的な、反射的利益にすぎない。いわゆる「被害者なき犯罪」であっても、また天涯孤独の者の殺人であっても、そうした事情はヘーゲル的刑罰論にあっては無関係である。「被害者」はあくまで国家の法規範なのだ。この点ではカント風の「世界が滅ぶとも正義をしてなさしめよ」という厳格主義と――カントでは「人格」、ヘーゲルでは「規範」というように「被害者」は異なるが――外形的には接近してくる。

 さて、こうしたヘーゲル主義的な「規範保護型応報刑論」は、かなり特異な規範存在論であるといわざるをえないが、確かに理論的な一貫性はある。ただ、本書がかなりの紙幅をとって論じている「被害感情」について、その充足が偶然的な「反射的利益」にすぎないとされてしまうと、ここ20年程度の「被害感情」の充足に向けた制度改革被害者参加制度など)は一体どのように位置づけられるのかという疑問を抱かざるをえない。著者はかつての「被害者不在」の刑罰理論を支持するのだろうか?

 もちろんそんなことはないだろう。たとえば106-107頁で印象深く述べられている「二重評価の禁止」の箇所では、刑罰には「平均化された被害感情」があらかじめカウントされているのだという。なので、個別の被害感情を具体的な量刑判断において考慮に入れるとしたら、それは同じものを二重に評価することになって許されない。個別の被害感情が考慮に入ってくるのは、平均から大きく逸脱するような特殊な事情がある場合だけである。ここで「平均」という言葉を用いると、たとえばまったく被害感情(とりわけ処罰感情)を持たない被害者がいた場合に刑罰を軽くすべきだといった話になってしまいそうだが、おそらくそれは意図されていないはずだ。だから「抽象化された被害感情」というほうがより的確な表現であるように私には思われる。ヘーゲル的刑罰論において考慮される被害感情は、当該法規範体系において重要なものと位置づけられた抽象的な考慮要素であって、現実の被害者の被害感情の程度から直接の影響を受けるわけではない。規範に組み込まれる形で抽象化された被害感情に大きな影響を与えうるような例外的な場合のみ、具体的な被害感情が考慮要素として入ってくる。本書であげられている例だと、光市母子殺害事件での苛烈な処罰感情とそれに対する社会的支持の広がりがそれにあたる。

2. ヘーゲル的「規範」は現実をどのように取り込むのか?

 こうした読み方が正しいとすれば、法規範と現実との接点が見えてくる。本書で詳細に述べられている、近年の重罰化・厳罰化志向の高まりは、少なくとも犯罪類型によっては、予防という観点からの科学的根拠を有するものでは必ずしもないのだが、そこで異質な他者や「リスク」要因を問答無用に排除するための「切り札」として「被害感情」がせり上がってきた。社会が複雑化し、犯罪の原因をたとえば経済状況のような理解しやすいものに還元できなくなった時代に、人々がリスク要因の排除のために頼るようになったのが、一方で犯人の「自己責任」、他方で「被害感情」だったのである(死刑存廃論でも「被害感情」が「存置派」の最大の根拠となったのはここ20~30年のことだろう)。社会意識のこうした変化はヘーゲル的な意味で実在する「規範」にも組み込まれていく。(筆者の言葉でいう)「平均化された被害感情」が刑罰の根拠としてカウントされるというのは、そうした「規範化」のダイナミズムとして理解するのが整合的であるだろう。

 そうすると、現実の被害感情の充足が「規範保護型応報刑」においては偶然的な「反射的利益」であるという著者の記述は、いささか整合性を欠くもののように思われる。被害感情は社会意識の変化を通じて「規範」へと包摂されていく。なので、その規範を保護する応報刑は、現実の被害感情を間接的にではあるが実際に保護していると考えるべきではないかと思われる。

 こうした読み方は、あくまで本書を整合的に読むならばそうなるのではないか、ということであり、新ヘーゲル主義の応報刑論とどこまで整合的かという問題は別途考えるべき問題だろうと思われる(それを検討する能力は私にはない)。本書にあえて注文をつけるとすれば、そうした社会意識の変化がヘーゲル的な意味での規範へとどのようにして包摂されていくのか、ということの記述がもっとなされれば、本書全体がより有機的に、また穏当な結論を導くものとなるのではないか、と思う。

3. 死刑は他の刑罰とどれだけ異なるのか?

 なお、本書の題名となっている「死刑」については、本書でもある程度の紙幅をとって現状の制度のあり方が述べられているし、勉強になる箇所も多かった。ただ、本書の理論的な核となっている「規範保護型応報刑論」にとって、死刑が何か特別な意味付けを与えられるようには思えなかった。死刑も含む、刑罰一般の根拠論として展開されているように思われたからである。ここから「死刑存廃論」について具体的な示唆を得ることは困難だろう。もちろん、本書の目的はそこにはない。我々の社会が保護しようとしている「規範」とはどのようなものか、そこに「被害感情」などはどのように入ってくるか、ということを考えるための視点をもたらしたという点で、本書の功績は十分にある。ただ、『死刑制度と刑罰理論』という題名を冠する以上、他の刑罰に比べての死刑の「規範的」特殊性について論じる箇所がもっと多くてもよかったのではないかということは、決して不当な要望ではないだろう。問いを明確にすると、ヘーゲル的な「規範」において死刑の占めるべき位置はあるのか、それは社会の意識変化によってどのように変わったり変わらなかったりするのか、ということである。

 正確を期すと、167頁前後に多少の記述があり、ここはむしろヘーゲル的というよりはカント的であるようだ。もちろん両者の理論には一定の関係があるし、ヘーゲル的刑罰理論だけで一貫させなければならないというわけではもちろんない。本書に混淆的な性格があるとすればそれは著者のオリジナリティにもなりうる。今後の理論展開をおおいに期待する。