tkira26's diary

吉良貴之@法哲学のブログ。

「法における知と無知の配置」『現代思想』2023年6月号

本稿は『現代思想』2023年6月号 に執筆した論文の転載である(許可済)。基本的に掲載時のままだが、若干、誤字を修正し、文献情報を追加した。また、ブログの仕様上、表記に変更が生じた箇所がある(傍点による強調は太字で代用した)。

 

1. 法の不知

 「法の不知は許さず」という法格言がある。自身の行為についてそれが違法であることを知らなかったとしても、それは免責の理由とはならないとするものである(慣例的に「不知」という言葉が用いられるが、「無知」と同じことであり、本稿でも区別しない)。これはローマ法由来の古い格言だが(”ignorantia juris non excusat” など、いくつかの言い方がある)、日本でも当然のものとされ、現在の刑法38条第3項は「法律を知らなかったとしても、そのことによって、罪を犯す意思がなかったとすることはできない。ただし、情状により、その刑を減軽することができる」と規定している(ちなみに現行刑法は1997年に口語化されたものであり、それ以前は「法律ヲ知ラサルを以テ罪ヲ犯ス意ナシと為スコトヲ得ス但情状ニ因リ其ノ刑ヲ減軽スルコトヲ得」といういかめしい書き方であった)。この「違法性の意識」の有無が犯罪の成立にあたってどのように位置付けられるかについて刑法学の膨大な蓄積があるが(髙山 1999など)、本稿は哲学的論点に焦点をあてる。
 自身の行為が違法であるかどうか、当然のことながらすべて知っている者はいない。また、違法であると知らなかったということが言い訳として通るのであれば、「知らなかった」ふりをするのが得になってしまうかもしれない。そうするとこの法格言はひとまず、事実に反する形ですべての人々が自身の行為の違法性について「知っている」ことを擬制する、もしくは「知っているべきだった」という可能性を規範的に要求するものとして理解できる。いわば、法によって(現実には必ずしもありえない)「知」が作り出されている。

法と科学の相互的な知/無知の生成

 本特集の「無知学」の重要な洞察は、科学的な知識に関する「無知」や「不確実性」が意図的に作り出されることにあったが、逆に「知」が意図的に作り出される場合もあることをこの法格言は示している。
 「法」はそうした「知」を意図的に作り出すだけでなく「無知」を作り出すことでその権威を維持することもある。科学技術社会論STSの代表的な論者であるシーラ・ジャサノフは、「法」と「科学」という現代の二つの最も支配的な専門領域において「知」と「無知」が都合よく生成されるダイナミズムを豊富な具体例とともに描き出した。ジャサノフの主眼は「法と科学」が相互作用的に双方の知と無知を作り出すことの指摘であるが(興味深い例としては、法廷における証拠の必要性から DNA 鑑定技術という科学的専門知が発展し、その発展が DNA 鑑定の証拠力という法的専門知を強化したといったことがあげられる:Jasanoff 1995, chap. 3)、本稿ではそうした相互作用を念頭に置きつつ、法における知と無知にかかわる論点をいくつか見ていこう。

 

2. 知と無知の規範的配置

 「法の不知は許さず」といっても、自分の行為が違法であると 本当に 知らなかった場合にも責任を問われるのは酷であるかもしれない。人々のほとんどが知らない秘密法によって刑罰が課されるような状況があるならば、国家の刑罰権に対する信頼(=正統性)が失われることだろう(逆に、いくらかの秘密性は恐怖心と混ざり合う形でその正統性を高める場合も想像しうる)。だとすると「法の不知は許さず」という法格言は、本当にすべて許さなかったならば国家権力自身の刑罰権の正統性を失わせるという自己否定的言明 という面がある。したがってそれは程度問題とならざるをえず、実際、先に引用した刑法38条第3項も「ただし」以下、情状酌量の余地を認めている。たとえば法律の規定があまりにも複雑であった場合がそれにあたる(「違法性の意識を欠くことに相当の理由がある」などと表現される)。
 法の不知は原則として許さず、しかし例外的に考慮されうる、というこの枠組みは常識的なものだと思う方も多いかもしれない。本当にそうだろうか。そう思った方は、国家権力にとって有利な知と無知の規範的配置をなぜわざわざ認める必要があるのか、と問い直してみてもよいだろう。国家権力と被告人の圧倒的な力の格差を考えるならば、被告人にとっての防御手段を少しでも増やそうという発想に至るのが人権保障の観点から望ましいだろうし、実際、先進諸国の刑事法手続きはおおむねそうした方向で構築されている。「法の不知」だけが被告人にとって例外的に不利な事情とされるべきであるというならば、その理由が示されなければならない。それを認めたならば誰もがそう主張してしまう、という批判は、他の抗弁にも同様にあてはまるだろうか。

「知らなかった」という言い訳

 また、人々は現実に、自身の犯罪行為を指摘されたとき、それが違法だとは「知らなかった」という言い訳をする(とりわけ交通犯罪ではそうした例が多く出せるだろう)。そうした言い訳は、支持できないにしても「気持ちはわかる」という反応も出るのではないか。しかし、もし「法の不知は許さず」という法格言が十分に直観適合的であるならば、そうした言い訳が多くなされることはないし、言い訳として理解もできないだろう。そうすると「法の不知は許さず」という知と無知の規範的配置は、少なくとも自明のものとはいえない。法哲学者のダグラス・フサックはそのように問いかけながら、問題にすべきことは「法」の知識ではなく、道徳的に悪いかどうかを知って行為したかどうかであるとする主観主義的な議論を展開している(Husak 2016; Husak 2020)
 こうした問題提起は犯罪者にとって「甘い」ものであり、とても容認できないという反応もなされるかもしれない。その場合は、そうした抗弁が頻繁になされるようになったときの帰結を考えてみるのがよいだろう。法律の規定が周知されていなかった、またはあまりにわかりにくいために当該行為が違法だと判断できなかった、という抗弁が裁判において積極的に認められるようになったとき、それは当該法システム内の他のブランチ、つまり立法府に対する波及効果(systemic effect)をもたらす(cf. Vermeule 2006; Vermeule 2011)。そうした主張が安易に認められることのないように法律はできるだけ明確に書き、また周知徹底すべきだといった、法哲学者ロン・フラーのいう「法の内在道徳」(Fuller 1965)の、立法による促進につながりうるのである。法の周知と明晰化が必要だという要請はおそらく常識的なまでに支持される事柄だが、だとすれば「法の不知」の抗弁を認めるのに躊躇するためにはさらなる理由が必要となるだろう。

意味付けとしての責任追及

 もっとも、フサックのように法の不知の抗弁の可能性を広げるにあたって、真に問われるべきことは自身の行為の道徳的悪さを知っていたかどうかであるとして知識と責任を結びつける路線もまた問題含みである。哲学者のマイケル・ジンマーマンは最近著においてその路線をより根本的に追求している(Zimmerman 2022)。それによれば、非難可能性としての責任の条件は、当該主体が自分の行為の性質や結果について知りうるかどうかという認識的条件と、行為と結果のつながりをコントロールできるかどうかという主体的条件によって問われるとされる。そこから、非難に値することの起源には当該主体が悪いと知って行った行為がなければならないという「起源テーゼ(Origination Thesis)」が主張される。

 ジンマーマンの議論は入り組んでいるが、本稿の関心にとって重要なのは無知を明確に免責要素としてあげていることである。ある行為(の結果)が悪いと知っているにもかかわらず行うからこそ非難に値するのであって、知るべきだったにもかかわらずそれを怠ったという過失による無知の責任は否定されている。というのも、ある行為が道徳的に悪いことかどうか、どのような結果が生じうる行為なのか、そして違法な行為であるのか、……といったことについて、調べるなどして無知を解消するか、それとも無知のままであり続けるかということは本人にはコントロールできないからである。したがって無知による行為は主体的条件を満たさず、有責ではありえない。
 ジンマーマンの議論には、無知といってもまったく手がかりのない状態と、自分の知っていることからほんの少し調べれば到達できることの無知は異なるのではないかといった反論が思いつく。しかし、知と責任をつなげることの都合の悪さの一端を示していることは確かだろう。この主張は自身の知らないことに対する責任をあまりにも大規模に免責してしまう反直観的な帰結をもたらす。たとえば近年の「構造的不正義」論は、資本蓄積の世代間連鎖のように個人レベルでは関知できないことがもたらす害悪を問題化するものだが(Goodin 2023)、そうした問題から個人の責任を切り離すことを目指しているように思われる。同様に法的責任もまた、個人レベルの非難可能性という意味での道徳的責任から切り離される。「法の不知は許さず」という法格言は、違法であることを知らずに行為した行為者に対し「知っているべきだった」という規範的な要求をするものであるが、仮に無知についてのジンマーマンの議論が正しいとすれば、それは 事実として 不可能な要求をしていることになる。しかし、だからといって刑事法的な責任追及が 規範的に 不可能になるわけではない。それはむしろ「責任を問うときに重要なのは、[他行為可能性ではなく]現実に行われた行為の意味である」(瀧川 2008, 47[]内は引用者による補足)という責任追及のあり方を明るみに出している。

 

3. 知と無知の誘導

行政国家における誘導

 国家権力はさまざまな形で人々の行動を誘導している。刑罰を背景とした直接的な強制には相応の実力の裏付けが必要であり、実際のところあまり効率的ではない。近年、行動科学の知見(行動インサイト)をもとにした行動変容手段「ナッジ」が公共政策でも多く用いられているが、そうした非強制的・間接的な誘導自体は、とりわけ1980年代以降、財政的制約のもと「小さな政府」化が推進されるとともに行政の活動範囲は肥大化する一方である「行政国家」状況において常套的に用いられる手段といえる。
 こうした間接的な行政活動は「誘導行政」として早くから問題化されている(中原 1994)。その多くはインセンティヴ操作による行動変容の促進という形をとる。具体的な手法としては、① 補助金や課徴金など金銭を手段としたもの、② エコマークハザードマップなど情報提供を手段としたもの、③ 誘導容積率や優良運転者免許など規制緩和によるもの、④ 官民協働を前提とした行政指導によるもの、⑤ 備蓄米の放出、グリーン購入法など経済介入によるもの、などがあげられる(宇賀 2020, 11章)。こうしたインフォーマルな/ソフトロー的な行政活動は、日本では民間と行政が比較的協調的な関係にある場合が多いこともあって古くから一般的なものであったといえる(ナッジが「昔からよくあるもの」と捉えられやすい原因の一つでもある――ナッジの何が「新しい」のかについては、吉良 (2022) を参照)。

インセンティヴ操作の倫理

 さて本稿の関心からすると、②のような情報提供、あるいは④のような暗黙の関係を利用したインセンティヴ操作は、知と無知をめぐる規範的問題を引き起こしやすいといえる。正しい情報を提供して人々の熟慮を促進するものであればまだしも、無意識の行動バイアスを利用した誘導であったり、ときには誤った情報を与えることによる誘導もある。行動バイアスは要するに人の非合理性であり、その利用は市民を対等な自律的主体とみなさないことによって格下げすることになるという批判がなされる(Waldron 2014)。官民の協調的関係といいつつ、実際にはそこからの離反による不利益を暗黙の前提とすることによって委縮させる場合もあるし、また、行政の誘導に従っておけば問題ないという依存的な思考停止が起きる場合も少なくない。
 こうしたことは「操作の倫理」の文脈で問題にされることだが(石田 2021; Noggle 2022)、近年のナッジ論の主導的論客である公法学者キャス・サンスティーンは行政の側の誘導意図を明確にし、批判可能性を保障することでそれに応答しようとする(Sunstein 2022)。ナッジにせよ広告にせよ、あるいは飲食店のレビューサイトや出会い系マッチングアプリなど、そのアルゴリズムや影響力の与え方を隠すことによって、つまり人々の無知を利用して行動変容させようとする試みは民間企業によってずっと多くなされている。行政はそうした操作に対し、正しい知を提供することによって不当な影響力を弱めるべき役割を負っているといえるかもしれない(Schmidt 2019)。とはいっても、たとえば検索エンジンアルゴリズムを開示させたところで、今度はそれに最適化した行動変容(評価要素となっているサービスのみに注力し、そうでないサービスを切り捨てるといったことなど)が起こることが予想され、そうするとそうした知と無知の配置への権力的介入が望ましい帰結をもたらすとは限らない。無知を利用することの道徳的な悪さが、正しい知の提供によって打ち消されるほど単純な状況はむしろ限定的だろう。むしろ問われるのは 適切な無知の水準 であり、それを可能にする条件である。

 

4. おとり捜査の何が悪いのか

 法的な知は現実にはさほど整合的ではない。ときに矛盾した要求が同時に発せられることもある。法的メッセージが人々をダブルバインド状況に追い込む典型的なものとして、いわゆる「おとり捜査」があげられる。おとり捜査とは、日本の最高裁が示した定義によるならば、「捜査機関又はその依頼を受けた捜査協力者が、その身分や意図を相手方に秘して犯罪を実行するように働き掛け、相手方がこれに応じて犯罪の実行に出たところで現行犯逮捕等により検挙する」捜査手法のこととされる(最決平成16年7月12日)。薬物犯罪の摘発にあたって、捜査官が売買を持ちかけるような場合がわかりやすい。こうした捜査手法にどのような問題があるかについては、刑事法の解釈学のみならず、哲学的にも活発な議論がなされている。
 おとり捜査の何が悪いのかというと、まず法的に、犯罪への働き掛け(=誘導)自体が教唆だったり、それ自体が共犯になったりするということがあげられる。次に道徳的には、①  そもそも他人を悪事へと誘導することそのものが悪い、② それが国家権力と市民という非対称的な関係のもとでなされることが悪い、③ 身分や意図を秘匿することで騙し、熟慮プロセスに歪みを生じさせることが悪い、といった問題が考えられる。しかし、薬物犯罪の摘発といった高度の必要性があるときには例外的に許容されうる。刑事訴訟法の代表的な教科書では「高度の「必要」があり、犯罪実行に伴う法益侵害発生の具体的危険を極小化できる場合に限られる」(酒巻 2015, p. 173)と述べられており、通説的な見解であると思われる。ほか、下級審レベルでは「機会提供型」と「犯意誘発型」を区別し、もともと犯意があった者に対し機会を提供する場合は許容されうるが、犯意そのものを「おとり」行為によって生じさせる場合には「罠の抗弁」が可能だとするものもある(東京高判昭和57年10月15日)

法的メッセージのダブルバインド

 本稿の関心からすれば、おとり捜査は何が違法な行為であるかについての知を国家権力が操作し、相手をダブルバインド状況に陥らせることに問題がある。すでに古典的となった批判として法哲学者ジェラルド・ドゥオーキンによるものがあり、それによれば、おとり捜査を許容することは市民に対し、法の遵守と違反を同時に要求することになって法の意図に矛盾が生じるという(Dworkin 1985)。確かに、当人の人生に甚大な影響を与える刑事司法の実践において、ある行為を推奨しつつ非難するという状況は決して望ましいこととはいえない。「正義の実現を指向する司法の廉直性」(最決平成8年10月18日、尾崎反対意見)が求められるという見方もある。とはいっても、捜査官の手は決して汚れていてはならないという厳格なカント主義もあまり説得的にはなりにくい(被疑者を追うパトカーは決してスピード違反してはいけないだろうか?)。
 そもそも法的なメッセージがつねに整合的なものであるわけではない。一つの行為が異なる法(たとえば民事と刑事)によって異なる評価を受けるのは法学的にはむしろ基本的な事柄に属する。では、同じ法によって異なる評価を受けることは許されるのだろうか。長期的な目的(犯罪の根絶)と短期的な目的(犯罪の検挙)は切り分けられるという反論もあるが(Hill et al. 2022)、それはあくまで捜査権力側の言い分であって、検挙される側にとってのダブルバインド状況は残ったままである(Haeg 2022)。刑事責任の問題としては、犯意形成が欺罔による場合にそれが責任を軽減する要素にはなりうることは認められやすそうである。しかしさらに強い主張として、矛盾する法的要求には遵守可能性がない、として違法性や構成要件該当性の問題にすることも可能かもしれない。おとり捜査の結果として行った行為は、単に責任が軽減されるのではなく、法的メッセージが矛盾している以上、いかなる規範を侵害したのかが特定できず、犯罪行為を形成しえない、とまでいえるとすれば、ドゥオーキンの批判はいまだ強力なものとして残っている。これは2節末尾で論じたように、事実としての両立可能性ではなく規範的な両立可能性の問題である。

 

5. これって違法ですか?

 ここまで、知と無知がいくつかの形で法的な概念、とりわけ責任とつながったり切断されたりするあり方を見てきた。知と無知の規範的配置という観点から、多少なりとも「法」の見慣れない姿を描き出せたことを願っている。もっとも、本稿で触れられたのはごく少ない例であり、他にもたとえば、「知る権利」に対して「知らないままでいる権利」といったものが擁護されうるかといった興味深い問題がありうるが、別稿を期すこととする。
 最後に少し触れておくと、本稿では一貫して、法的な知と無知の対象として、ある行為が「違法かどうか」という言い方をしてきた。法的なことに多少なりとも関わった経験のある者は、「これって違法ですか?」と問われることに辟易した経験があるだろう。「合法ですか?」ではないのだ。価値観の多元化した不確実な社会では、合法だからといって安心して行動できるとは限らない。しかし、違法と認定されたならば問答無用に非難の対象となってしまう。だから「予防原則」的に「違法」なことを避ける態度が賢明なものとなっている。「不確実性」が社会にどのようにしてもたらされるかも「無知学」の重要なテーマだが、「違法ですか?」という問いの蔓延は、その現れの一つであるかもしれない。

 

文献

  • 石田柊(2021)「操作(manipulation)の倫理学:論点の概観」『ELSI NOTE』No.14, https://elsi.osaka-u.ac.jp/research/1426
  • 宇賀克也(2020)『行政法概説1(第7版)』有斐閣
  • 吉良貴之(2022)「ナッジは行政国家に何をもたらすか?」『法律時報』1174号、13-17頁。
    酒巻匡(2015)『刑事訴訟法有斐閣
  • 髙山佳奈子(1999)『故意と違法性の意識有斐閣
  • 瀧川裕英(2008)「他行為可能性は責任の必要条件ではない」『大阪市立大学法学雑誌』55巻1号、31-57頁。
  • 中原茂樹(1994)「金銭賦課を手段とする誘導の法的構造および統制」『本郷法政紀要』3号、181-213頁。
  • Dworkin, G. (1985). The serpent beguiled me and I did eat: entrapment and the creation of crime. Law and Philosophy, 4(1), 17-39.
  • Fuller, L. L. (1965). The Morality of Law. Yale University Press.
  • Goodin, R. E. (2023). Perpetuating Advantage: Mechanisms of Structural Injustice. Oxford University Press.
  • Haeg, J. (2022). Entrapment and manipulation. Res Publica, 28, 557-583.
  • Hill, D. et al. (2022). What is the incoherence objection to legal entrapment? Journal of Ethics & Social Philosophy, 27(1), 47-73.
  • Husak, D. (2016). Ignorance of Law: a Philosophical Inquiry. Oxford University Press.
  • Husak, D. (2020). Ignorance of law: how to conceptualize and maybe resolve the issue. In: Alexander, L., & Ferzan, K. (Eds.). The Palgrave Handbook of Applied Ethics and the Criminal Law. Palgrave Macmillan.
  • Jasanoff, S. (1995). Science at the Bar. Havard University Press(渡辺千原・吉良貴之監訳『法廷に立つ科学』勁草書房、2015年).
  • Noggle, R. (2022). The Ethics of Manipulation. Stanford Encycropedia of Philosophy. https://plato.stanford.edu/entries/ethics-manipulation/
  • Schmidt, A. T. (2019). Getting real on rationality—behavioral science, nudging, and public policy. Ethics, 129(4).
  • Sunstein, C. R. (2022). Manipulation as theft. Journal of European Public Policy, 29(2), 1959-1969.
  • Waldron, J. (2014). What do the Philosophers Have against Dignity? NYU School of Law, Public Law Research Paper, No. 14-59.
  • Vermeule, A. (2006). Judging under Uncertainty. Harvard University Press.
  • Vermeule, A. (2011). The System of the Constitution. Oxford University Press.
  • Zimmerman, M. (2022). Ignorance and Moral Responsibility. Oxford University Press.

 

 本稿は JSPS 科研費 21K00041(基盤研究C「欺瞞による無知の行為の有責可能性についての哲学と法学の融合的研究」、2021-23年度、代表:太田雅子)の研究成果の一部である。この問題関心は後続の課題、JSPS 科研費 24K03366(基盤研究C「無知の有責性の端緒となる不正義に関する倫理学と法哲学による包括的研究」、2024-27年度、代表:太田雅子)に受け継がれ、続けて探求している。

 

 

「裁判と時間」『現代思想』2023年8月号

本稿は 『現代思想』2023年8月号 に執筆した論文の転載である(許可済)。基本的に掲載時のままだが、若干、誤字を修正し、文献情報を追加した。また、ブログの仕様上、表記に変更が生じた箇所がある(傍点による強調は太字で代用した)。

1. 法と時間

 「法」は社会に時間の秩序をもたらす企てである(法による時間性)。単純な例でいえば、何日までに履行するようにという契約は、その「何日まで」をどう数えるかという公定の時歴があってはじめて可能になる。そして、法はそうした時間性を確立するために特有の内在的な時間構造をもっている(法における時間性)。たとえば、立法は将来の公共的価値を現在において先取りする企てであり、裁判は過去の事実を現在において規範的に認定し、評価する企てである(吉良 2009)。本稿でいう「時間」は法の外にある直線的な時間のことではない。法によって作り出され、それが反照的に法に影響を与えるような時間のあり方を指している。時間は法において生きられる(Chowdhury 2020, chaps. 1-2)

 本稿ではこうした「法」の見方によりながら、特に裁判についてアメリカと日本のいくつかの例を見て、法と時間がどのような関係にあるかを考えていく。

 人間の生が有限であるという事実は人々の社会的生活にとって少なからぬリスク要因である。そこで法は、生身の人間が急死したとしてもなお生き続ける「法人」という擬制を創出することにより、生物的な事情による混乱が生じないようにした。法はあらゆる分野で、生身の人間の人生の時間的範囲を超えた安定性を社会にもたらすための自己超越の試みを行っている。簡単に言い直せば、法は生物としての人間にはいかんともしがたい偶然性を、時間を人為的に伸び縮みさせることで飼い慣らそうとする。

 そうした偶然性をどのように飼い慣らすか、つまり法的な時間をどれぐらい伸び縮みさせるのかは、それ自体が法的な争点となる。法的な時間は短くなったほうが都合がよいこともあるし、長くなったほうがよいこともある。時効をめぐる争いを考えてみればそれは明らかだろう。「権利の上に眠る者は保護に値せず」という有名な法格言は、権利主張にあたっての時間的な規範について一つの立場を表すものとして理解される。ここで断言するならば、裁判とは時間をどれぐらい伸び縮みさせるかの争いである

 この時間は過去だけでなく、将来に向かっても伸びる。法は生物としての人間の限界を超越する技術を持っているといま述べたが、将来志向の政策形成訴訟はいまや珍しいものではない。環境問題にあたっては数百年から数万年にわたる法的主体の擬制さえも有効になることもある。実際、自然の権利主体性を認める判決も一部の国では出ている(Einhorn 2022)

 

2. 刑事責任と時間

 日本国憲法において最高裁判所は「一切の法律、命令、規則又は処分が憲法に適合するかしないかを決定する権限を有する終審裁判所」である(第81条)。ある法律が憲法違反であるならば、具体的な事件に即してそれを無効にする違憲立法審査権を有すると解されている(付随的違憲審査制)。しかし日本国憲法の施行後しばらく、それが行使されることはなかった。民主的に選挙された代表によって構成される国会が作った法律を、民主的正統性に乏しい司法が覆す権限など実はないのではないか。長年にわたる憲法実践の積み重ねは、違憲立法審査権の内容をそのように名目上の、あるいはせいぜい理念的なものとして理解すべきだという主張の根拠になりえたかもしれない。時間は法を変える。実際、そうした長年の慣習がほかならぬ憲法秩序の一部として理解される例もある。国会運営についての国会法やその他の慣習はその典型である。

 違憲立法審査権についてそうした懸念がもしかしたら、と思われていたかもしれない1973年、つまり日本国憲法施行から26年後になってやっと、尊属殺人の刑罰を死刑と無期懲役に限っていた尊属殺重罰規定が憲法第14条の平等規定に反するという、初の法令違憲判決が出された(最大判昭和48年4月4日)。刑法第200条の尊属殺重罰規定はその後、適用されないまま22年後の1995年まで残り続けた――こうした「死文」が果たして「法」なのかそうでないのか、ということも論点になりうる。

 この事件では、被告人の女性が実父から長年にわたって性的虐待を受け続けた後の衝動的な犯行であることにつき、情状酌量による減刑の可能性が争点になった。尊属、つまり自身の時間的祖先である父母や祖父母を敬うべきだという家族規範もさることながら、ここでは責任の根拠について2つの逆方向の時間性が考慮されている。つまり、長年にわたる性的虐待という背景があること、その一方で犯行自体は計画的ではなく衝動的であるという、時間的に長い事情と短い事情の双方を責任軽減のための考慮要素としている。近代的な刑法においては、ある主体が相応の熟慮のうえで罪を犯すに至ったこと、つまり規範侵害が十分な意思決定プロセスを経てなされたがゆえの悪さが責任要素として重視される。そのプロセスは長い時間(長年の虐待)と短い時間(衝動性)の双方によって不十分なものとなり、したがって責任軽減の要素となる(もちろん、長い時間をかけて熟慮したうえでの行為が「計画的犯行」として重く評価されることもある)。刑法における責任主体性は、このように複数の時間性によって評価される。つまり、刑法的な主体性は刑法的な時間性によって伸縮し、それに応じた責任が課される。

 近年のアメリカの裁判例では、ドメスティック・バイオレンスの被害者が加害者に反撃した殺人事件につき、長期間の暴力にさらされたことによる判断能力の低下などの「被虐待症候群(Battered Person Syndrome; BPS」を免責要素とするものが目立っている。これも刑法的主体を特定の犯行時点における時間性ではなく、より長い時間性のもとで捉える動きといえる。

 日本でも、刑事立法はかつて「ピラミッドのように沈黙」していると言われるほどであったが、近年は目まぐるしい動きのなかにある。2022年には刑法が改正され、懲役刑と禁固刑が「拘禁刑」に一本化されることになった(3年以内に施行予定)。これは刑罰の目的を「懲らしめ」から「更生」へと大きく転換するものであり、刑事裁判も個々人の事情に応じた将来志向のものとなることが求められるだろう。これは立ち直りにとって無意味な刑罰を減らすという点ではよいことだろうが、裏を返せば、犯行に至るまで、そして立ち直りに至るまでの長い時間にわたって本人の状況を考慮し、個々人にカスタマイズされた刑罰を課すということでもある。刑罰権力の時間的遍在化の危うさにもまた注意が必要である(【追記】関連する書評)。

 

3. 親子関係と時間

 民事の例でも、ある子の「親であること(parenthood)」はいかなる根拠によるのかという問題について、法的な観点にとどまらず、哲学的にも激しい議論がなされている。ある子を出生させるに至った因果経路を根拠とする「因果説」や、親という社会的役割を受け入れることを根拠とする「自発説」などがある(議論状況について参照、坂本 2023)。

 哲学者のアンカ・ゲイアスは論争的な問題提起として、親になる権利はもっぱら子の養育にとって最善の者に割り振られるべきであるという主張を行っている(Gheaus 2021; より精緻化する方向でのコメントとして、Tomlin (2023))。これは子の養育にとってよりよい帰結となるのであれば無関係の第三者に親権を割り振ることを許容するものであり、生殖に関与した親候補者の意思や行為を直接的な考慮の対象としない点で一見したところラディカルな提案である。しかし、この議論の要点は実際に無関係の第三者に、ただ子を養育する能力があるという理由で親権を割り振ることにはないだろう。妊娠期間において懐胎者は数ヶ月にわたって胎児と持続的な関係に入るのであり、その時間的重みは出生後の養育においても無視できないとされる(これは授精者である男性にとって不利な事情といえるが、それがよりよい関係性を築くように努力するインセンティヴになりうる)。これは当初のラディカルな提案を直観適合的に落ち着けるための予備的議論という性格も否めないが、いずれにせよ親子関係を一時点的な行為や同意によって根拠付けるのではなく、一定の時間をかけて「そして親になる」ものであることが強調されている(他に、自発説を発展させながら、親役割の受け入れが時間をかけた関係論的なものであることを強調するものとして参照、Lange (2023))。

 親子のあり方についてのこうした関係論的な見方は、近年の法実務的にも広く見られるものである。たとえば「ハーグ条約国際的な子の奪取の民事上の側面に関する条約)」は1983年に発効し、日本もかなり遅れて2013年に締結し、関連する国内法の整備が進められた。この条約は、国際結婚をした夫婦が離婚した場合の子の監護権の判断は、原則として子の居住国において行うことが子の利益にかなうと捉え、それに反して一方が子を自身の出身国に連れ帰ってはならないとするものである。これは一対一の親子関係だけでなく、出生後にはその居住地で多様な関係性が育まれることを重視している。日本では親権に関する法制度上の違い(共同親権/単独親権)や、DVやネグレクトへの懸念、また母子関係を中心的とする伝統的家族観など、さまざまな点から消極的な論調が目立っている。もっとも、こうした対立自体、親子関係が単に一時点的な行為や同意によっては基礎付けられない、より持続的な関係のもとにあるという枠組みを共有したうえで、その範囲や相手をめぐってのもの(さらにいえば出生の前後でそれがどれだけ変わりうるか)であるといえる。

 もちろん、こうした親子の関係論的な変化が望ましいものかどうかは必ずしも自明ではない。たとえば、第三者からの精子提供によって生まれた子が生物学上の「本当の親」を知りたいという、「出自を知る権利」はどこまで保障されるべきか。これは精子提供者のプライバシー権との兼ね合いで難しい問題であるが、近年、ヨーロッパ諸国を中心に、子の権利を厚く保障する方向での法整備が進んでいる(「匿名出産」を保障する伝統のあるフランスではいまだ消極的であるなど、程度の差はある)。しかし、親子の持続的な関係を重視する見方からすれば、精子提供以外に生殖に関わっていない者についての「出自を知る権利」を正当化することは難しくなる。むろん、「出自」という言葉からすぐさま想起されるように、そこでは親子の持続的な関係性とはまた異なった時間性の価値が主張されているのであり、それに応じた正当化根拠が必要とされる。

 

4. 法解釈と時間

 ここまで刑事・民事それぞれの例で、法的判断にあたっての争点が、実のところいかなる時間性を法的に評価すべきかという争いでありうる場合を見てきた。裁判官は目の前の事件を解決するため、さまざまな時間性を比較衡量するといえる。もっとも、そこでの時間性は、個別の事件で争点になっている時間性(冒頭に述べた「法による時間性」)だけではない。裁判官は紛争を法的に解決するために、当然ながら法を参照する。ここでいう「法」には制定法だけでなく、判例はもちろん、さまざまな慣習や条理といったものが含まれる。異なった時間性をもった「法」のどれを使うのかが判断されるのである。

 念のため付け加えると、ドイツ自由法運動やアメリカン・リーガル・リアリズム諸派が暴露したように、実際のところ裁判官は勝たせる側を最初からその日の気分とか出世への思惑などで決めているのかもしれない。日本でも1950年代に裁判官の判断の主観性をどう捉えるかをめぐって「法解釈論争」が展開された。もし、判決が裁判官の主観的な価値判断にすぎないとすれば、実際に書かれる判決文はどういうものなのか。あらかじめ結果が決まっている判決で参照される法は、予告された殺人の記録を叙述していくような後付けのものでしかないのだろうか。

 こうしたリアリズム的な見方にも一抹の真実はあるだろうが、ここから汲み取るべきことは、裁判官の人間らしい恣意性(だけ)ではなく、たとえ結果が決まっているとしてもそれらしい外見を取り繕うために法的な論理を構築しなければならないという、法の規範性である。そこにおいて裁判官は自身の判断を法に適合させる努力をしている。

時間的に全体論的な法解釈

 裁判官はリアリズムが暴露するように気分で判決を下すのでもなければ、法哲学者H・L・A・ハートが指摘したように法の空白において自ら立法しているのでもなく、あくまである種の法の規範性の制約下にあると主張したのが法哲学者ロナルド・ドゥオーキンであった(Dworkin 1986)。そこで主張されたのは、裁判とは制定法や判例だけでなく、あらゆる政治道徳的根拠をすべて使っての解釈的正当化の営みであり、裁判官は当該共同体の法の総体を最善の光によって照らし出すような判決を下すという全体論(holistic)な見方である(「インテグリティとしての法」)。ドゥオーキンは法解釈を異なる作者によって書き継がれる「連作小説(chain novel)」にたとえるが(実際にそうした小説はほとんどないので、作者が亡くなった後も新作が作られ続けるアニメ作品のほうがわかりやすいかもしれない)、いずれにせよ裁判官は、その法共同体の歴史の最先端に立って、個別の事件解決の判断をその法共同体の総体に適合させようとする。

 こうした見方が、現実の裁判官の行っている営みをよく捉えたものであるかというと、ドゥオーキンが例に出すような憲法的価値をめぐる激しい対立の場面ではそう見えるかもしれないし、日常的な裁判にあてはめるにはあまりに壮大すぎるかもしれない。いずれにせよ、英語圏法哲学では1990年代から 2000 年代にかけて、裁判官は法解釈の名のもとに何をしているのか、あるいは何をすべきなのかということが、法と道徳の関係という古典的な論点を洗練させる形で激しく議論された(いわゆる「法実証主義」論争:Coleman (ed.) 2001)。もっとも、それぞれの主張が描き出す法のあり方や裁判の営みは「そういう面もある」としか言いようのないところもあり、何を示せば議論に「勝った」ことになるのかわかりにくいことも否めない。ドゥオーキンやジョセフ・ラズといった、論争の中心だった人物の逝去もあって(特にイギリスでは)こうした議論は下火に、あるいは少なくともより多様なテーマのもとで論じられるようになっている(本稿の関心から重要なものとして、法の「計画」理論を唱える Shapiro (2011) など。【追記】近年の重要文献一覧)。

原意主義を超えて?

 他方、近年のアメリカではリベラル派であったドゥオーキンの遺産が保守派によって簒奪されたかのような、いささか奇妙な事態も生じている。これには前史があり、アメリカでは 1980 年代以降、司法におけるリベラル化が進むにつれ、保守派判事たちがそれに対抗して拠り所とする解釈理論として「原意主義(originalism)」と呼ばれる立場を発展させてきた。これには多少のヴァリエーションがあるが、基本的には、アメリカ合衆国憲法が制定された当時の憲法の意味を解釈基準とすべきというものである。これはリベラル派による権利拡張の動きに対する後退戦術という意味合いの強いものであった。

 しかし現在、ドナルド・トランプ前大統領による保守派の3判事の任命もあって、連邦最高裁での保守/リベラルの力関係は逆転し、司法の保守化が進んだとされる。保守派の判事としてはもはやリベラル派に気兼ねする必要はない。原意主義のような後ろ向きの解釈方法論によるのではなく、より前向きの主張を行うようになっている。その象徴的なものが、女性の人工妊娠中絶の権利を認めた Roe v. Wade 判決(1973年)を破棄した、2022年の Dobbs v. Jackson Women's Health Organization 判決であるとされる。

 こうした動きを素早く理論化した論者として、保守派の公法学者エイドリアン・ヴァーミュールがいる。ヴァーミュールはもともと原意主義に近い「テクスト主義(textalism)」と呼ばれる立場の論者であったが、それは不確実な事態に対応するにあたって立法や行政に比べて制度的能力に劣っている司法が、背伸びすることなく採用しうる解釈戦略として提示されたものであった(Vermeule 2006)。これは振り返ってみれば保守派判事の劣勢を糊塗する狙いもあったのだろう。もはやその必要がなくなった2020年、ヴァーミュールは「原意主義を超えて」(Vermeule 2020)という論考を発表し、「共通善立憲主義(common good constitutionalism)」という司法積極主義的な立場に転換するに至った。これは後の新著で全面的に展開されることになる(Vermeule 2022)

 そこで主張されているのは、かつてドゥオーキンが主張した、法共同体の総体を最善の光で照らし出すような全体論的な解釈戦略である。かつてドゥオーキンが強調したのは「平等な尊重と配慮」というリベラルな「原理(principle)」であった。しかしヴァーミュールは、同じ解釈戦略を採用するとしつつ、そこでの原理に「共通善」という保守的価値を代入した。これは「右派ドゥオーキン主義」として賛否両論の的になっている(吉良 2021)。ヴァーミュールとの共著のある公法学者キャス・サンスティーンも、2022年の Dobbs 判決はテクスト上の根拠だけでなく、慣習や原理、制度的能力など、解釈資源として使えるものはすべて使っている点でもはや原意主義ではなく、ドゥオーキン的であると評している(Sunstein 2022a)

アメリカ司法の保守化?

 こうした議論は一見したところ、最近のアメリカ連邦最高裁の保守的な判決をよりよく捉えたもののように思われる。実際、Roe判決を破棄したDobbs判決の法廷意見は、この判決が保守的な転換と見られることのないよう、過去の判例との連続性を述べることに力を注いでいる(Roe 判決はむしろ逸脱であったと)。また直近、ハーバード大学における人種別アファマティブ・アクションを平等原則違反とした2023年6月の Students for Fair Admissions v. Harvard 判決も、関連する判例をただ覆すのではなく、その延長上に時代の変化を位置づけようとする慎重さが見て取れる。

 そういった判決が目立つ一方、トランプ大統領が任命したゴーサッチ、カヴァノー、バレットの三判事はむしろ従来の禁欲的なテクスト主義を維持しているようでもあり、保守派が期待していたほどには振り切っていないようである。ロバーツ長官と合わせた四人で中道保守ブロックを形成し、連邦最高裁の構成としてはむしろリベラル寄りになっているという分析さえもあるNew York Times 2023, July 1)。即断は禁物だが、アメリカ連邦最高裁判事には終身制による強い身分保障があり、そのためもあってか、任命者の思惑に沿った判決を出すとは限らないことはよく指摘される。裁判官の人事制度が裁判官の判断にも影響を与えるということである。

 付言すると、日本の裁判官はかつて、国に不利な判決を出すと出世できないため保守的になりがちだということがよく言われたが、少なくともデータ上の明確な傾向はないようである(新藤 2009)。しかし、人事評価の不明確さがもたらす影響は検証すべき課題といえるだろう。

原意、伝統、共通善

 「アメリカ司法の保守化」は単純な人数構成ではなく、より丁寧に見ていく必要がある。公法学者のマッシモ・フィチェーラは、アメリカ司法の代表的な保守的立場を「原意主義」「伝統主義」「共通善立憲主義」の3つに分類したうえで、いずれも「アイデンティタリアン(identitarian)」志向によって共通しており、その違いはどの時代を模範とするかという程度問題にすぎないとまとめている(Fichera 2023)。原意主義はアメリカ合衆国憲法の制定時および修正時の意味を解釈基準とするが、伝統主義はそれよりも遡ることを許容する。実際、Dobbs判決法廷意見はコーク、ヘイル、ブラックストーンといった名前をあげながらイギリスのコモン・ローの伝統に自身を位置付けている(アメリ憲法のコモン・ロー的伝統について他に参照、Parker (2011)、 清水(2023))。フィチェーラは特に、ヘイル(Matthew Hale)をここであげることで民衆の法理解を重視する歴史法学的・ポピュリスト的系譜への接続がなされていると主張している。実際、現在のロバーツ長官は連邦最高裁の民主的正統性、つまり世論の支持を得ることに心を砕いているとよく報じられている。人数構成上の保守性が露骨になったがゆえに、公正さの外見を作り出す動機が逆に強くなることも十分にありうるだろう。

 共通善立憲主義は前述のヴァーミュールらの立場であるが、これはアメリカ合衆国憲法が実現すべき「共通善」の起源を中世ヨーロッパの教会法、さらにはローマ法に遡らせている。フィチェーラの分類によるならば、保守派にとってアメリカ合衆国憲法の制定時は必ずしも特権的な固定点(fixed point)ではない。より強力な固定点を求めて歴史的資源を探求しているのが現在のアメリカの保守派の議論の特徴といえるだろう。これは保守派に限ったことではなく、リベラル派の側も人種別学を違憲とした1954年の Brown v. Board of Education of Topeka 判決にその地位を与えようとしていると診断される(Sunstein 2022b)。ここにおいて保守派とリベラル派の対立は、憲法史のどの時点にくさびを打ち込むかという、歴史をめぐる対立へと変貌している(Sunstein 2023)。こうした議論状況を踏まえれば、リベラル派の判事がときに原意主義的論拠に訴えかけるのも奇異なことではない(Baude 2020)。また、このくさびは必ずしも過去のどこかに打ち込まれるべきものでもない。将来の公共的価値の実現に向け、これから進むべきどこかに打ち込むこともできるだろう。それはたとえば、将来世代や自然の権利主体性を認めるといった形で考えられる。

 

5. 判決と時間

 「すべて裁判官は、その良心に従ひ独立してその職権を行ひ、この憲法及び法律にのみ拘束される」と日本国憲法第76条3項は定める。ここでいう「独立」は美しい理念だが、現実の裁判官はさまざまな影響を受けながら判断を行っている。合議体ではもちろん、対等な立場ではあるが他の裁判官の意見を聞くことになる。報道やSNSから担当事件に関わる情報を得ることも事実としてある。

 1955年、当時の最高裁長官・田中耕太郎が「裁判官は世間の雑音に耳を貸すべきでない」という旨の訓示を行い、賛否両論を呼んだこともある。裁判官が国民世論に左右されすぎるのもよくないだろうが、かといってまったく無視してよいとも言いにくい。一般論としては参考にしつつ、個別の事件については適度な距離を保つべき、というのが常識的なところだが、その切り分けはもちろん難しい。蛇足になるが、裁判員裁判の目的として、裁判に一般人の常識を取り入れるためという説明がなされることもある。裁判員裁判の目的は「司法に対する国民の理解の増進とその信頼の向上」(裁判員法第1条)とされており、そうした説明は(誤りと断言する必要もないだろうが)正確なものではない。しかし、それが流通しているということは、裁判官の(浮世離れしたエリート?)意識と一般人の常識には距離が生まれがちだというイメージが広範にあることの表れではあるだろう。

同調圧力、システム効果

 先に触れたサンスティーンは、合議体の裁判官のイデオロギー的な構成による影響を例に出しながら、「同調圧力」が判決においても生じることを論じている(Sunstein 2019, chap. 4)。範囲を個別の裁判から広げて見た場合、「判決カスケード」という興味深い現象が起こりうることも指摘されうる(「カスケード」とは数珠つなぎに連続するもの)。たとえば、ある画期的な判決が出た途端、同様の判決が続けざまに出るようなことを指す。こうしたことが望ましいかどうかというと、もちろん両面がある。イデオロギー的な偏りによって硬直した判決が続くような場合には、認識的な多様性が確保されるような工夫が必要だろう。サンスティーンの言葉でいえば、よい「ノイズ」をもたらす仕掛けだが、それはたとえば裁判官の人事制度の改善から、具体的な訴訟戦略のあり方までさまざまにありうる。

 一方、同じような判決が続く判決カスケードが望ましい結果につながる場合もありうる。日本の例でいえば、2013年は非嫡出子相続差別違憲決定など、いくつかの重要な判決や立法があったことで「家族法の年」と呼ばれた。しかしその流れは止まることなく、この十年間ほどずっと、家族法領域では大小さまざまな判決や立法が次々になされている。選択的夫婦別氏制や同性婚の是非など、いまだ最高裁による違憲判決には至っていないものの、10年以上前とは比較にならないほどに踏み込んだ言及がなされるようになっている(2023年時点では、同性婚の是非をめぐって地裁で続けて複数の違憲判決が出るに至っている)。家族法領域以外でも、「一票の格差」訴訟はそうした判決カスケードの例といえるだろう。短期間に多くの同様の訴訟を起こすことで判決カスケードを狙うことは訴訟戦略として十分に合理的なものとなっている。

 もちろん、こうしたやり方には批判があることも事実である。民主的政治過程を通じて実現すべきことを、迂回して裁判によって実現しようとするのは、裁判の本来の使い方ではないのではないか(この点は、たとえば同性婚訴訟でいえば、家族制度のデザインとして捉えるならばそうした反発が出てきやすいし、あくまで人権問題であると捉えるならばむしろ民主的政治過程では救済されないマイノリティの人権を守るという、きわめて本来的な司法の使い方と評価されうるというように、根本的な部分で理解の相違が横たわっている)。しかし、判決カスケードは司法の領域にとどまるわけでは必ずしもない。法システムは各領域で相互に影響を与えあっている(Vermeule 2006)。踏み込んだ判決が続いて出ることによって刺激され、立法や行政の対応が進むこともよくある。悪い同調圧力による判決カスケードであればそこで抑制的なバランスが図られるだろうし、国民の支持を十分に得た判決カスケードであれば、最高裁違憲判決を待たずして立法あるいは行政によってその価値が実現されることもあるだろう。そうした「動態的権力分立」を見据え、望ましい裁判のあり方を考えていくことが重要である。

 

文献

  • 吉良貴之 (2009)「法時間論:法による時間的秩序、法に内在する時間構造」、『法哲学年報2008 法と経済』、132-139頁(J-Stage)。
  • 吉良貴之 (2021)「行政国家と行政立憲主義の法原理:A・ヴァーミュールの統治機構論と憲法解釈論の接続」、『法の理論』39号、」101-122頁。
  • 坂本美理 (2023)「親であること・子どもに対する道徳的な責務や責任の根拠:因果説と自発説の概観」『医学哲学 医学倫理』41巻、29-36頁。
  • 清水潤 (2023)『アメリ憲法のコモン・ロー的基層』日本評論社
  • 新藤宗幸 (2009)『司法官僚』岩波書店岩波新書
  • Baude, W. (2020). Conservatives, don’t give up on your principles or the supreme court. The New York Times, July 9, 2020.
  • Chowdhury, T. (2020). Time, Temporality and Legal Judgment. Routledge.
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  • Dworkin, R. (1986). Law’s Empire. Belknap Press(小林公訳『法の帝国』未来社、一九九五年)
  • Einhorn, C. (2022). Ecuador court gives indigenous groups a boost in mining and drilling disputes. The New York Times, Feb. 4 2022.
  • Fichera, M. (2023). Originalism, traditionalism and common good constitutionalism: three versions of identitarian constitutionalism. Available at SSRN: https://papers.ssrn.com/sol3/papers.cfm?abstract_id=4428633
  • Gheaus, A. (2021). The best available parent. Ethics, 131 (3).
  • Lange, B. (2023). A project view of the right to parent. Journal of Applied Philosophy, Early View.
  • The New York Times. (2023, July 1). Along with conservative triumphs, signs of new caution at supreme court.
  • Parker, K.  (2011). Common Law, History, and Democracy in America, 1790–1900. Cambridge University Press.
  • Shapiro, S. J. (2011). Legality. Harvard University Press
  • Sunstein, C. R. (2019). Conformity: The Power of Social Influences. NYU Press.
  • Sunstein, C. R. (2022a). Dobbs and the travails of due process traditionalism. Harvard Public Law Working Paper, 22-14.
  • Sunstein, C. R. (2022b). 'Fixed points' in constitutional theory. Harvard Public Law Working Paper, No. 22-23.
  • Sunstein, C. R. (2023). How to Interpret the Constitution. Princeton University Press.
  • Tomlin, P. (2023). What does the best available parent view require? Ethics, Early View.
  • Vermeule, A. (2006). Judging under Uncertainty. Harvard University Press.
  • Vermeule, A. (2020). Beyond originalism. The Atlantic. https://www.theatlantic.com/ideas/archive/2020/03/common-good-constitutionalism/609037/
  • Vermeule, A. (2022). Common Good Constitutionalism. Polity.

 

「世代論、運命論、責任論――特定の世代を対象とした公共政策を語るために」『現代思想』2022年12月号

本稿は  『現代思想』2022年12月号 に執筆した論文の転載である(許可済)。誤字や文献情報を若干修正したほかは、掲載時のままである。ただし、ブログの仕様上、表記に変更が生じた箇所がある(傍点による強調は太字で代用した)。

 

1 世代論の困難

 世代論の語りにくさから始めよう。

 たとえば社会保障の文脈で、高齢世代と若者世代の受益と負担の格差という「世代間格差」が語られるとき、すぐさま「世代間対立を煽るべきではない」という異論が発せられる。受益超過の高齢世代がそうした主張をするのはまだしも、むしろ損をしているはずの若者世代の側が率先してそうした主張をする例も数多く見受けられる。それはなぜなのか。

 もちろん「高齢世代」「若者世代」といった括りが大雑把すぎるということはある。「世代」は年齢で区切られた人々の集団(コホート)であるが、そのなかには当然にも多様性がある。高齢世代といっても資産の有無などはさまざまであり、一概に受益超過とはいえない。世代格差も厳然として存在する。にもかかわらずそれを一括りにし、「逃げ切り」を図ろうとする悪者であるかのように扱うことは、端的にいって許されざる差別ではないか。これは若者世代の側にもあてはまり、若者たちの多様性を無視し、勝手に被害者にするなという反発が生じるのも理解できる。また、後でも論じるが、「世代間格差」という問題を立てるとき、実際には別の要因によって生じている格差を「世代」という誤った単位で語ることによって、真の問題(たとえば階級、民族、ジェンダー、障害の有無などによる格差)を隠蔽することにつながらないか。

 こうした懸念はある程度、理解できるものである。しかし、経済学者ローレンス・コトリコフが開発した「世代会計」が示すように、年齢で区切られた集団によって受益と負担の格差があることも明らかではないか。また「団塊の世代」「全共闘世代」、本特集が主たる対象とする「氷河期世代」、そしてSNSを使いこなす「Z世代」など、実際に私たちは特定の年齢集団について「○○世代」という言葉を自然に使っている。もっとも、次々に現れる「世代論」はしばしば安易であるし、「ゆとり世代」のように侮蔑的なニュアンスをともなうこともあり、そうした議論が世代論への否定的な反応につながっていることも事実だろう。しかしそれを差し引いてなお、「世代」を規範的に語ることに不穏なものがあるのはなぜだろうか。ここで「不穏」というのは、ただ反発されやすいということだけでなく、その裏返しとして 世代論には一定の抗しがたい魅力もある ことを指している。

 ここで本稿に与えられた課題を明らかにすると、特定の世代を対象とする公共政策はいかにして正統でありうるか という問題なのだが、公共政策がある程度の一般性をもってなされる以上、それによって受益と負担の不均衡が生じるのはもともとやむをえないことといえる。たとえば災害からの復興を目的とした公共政策など「地域」を対象とする場合、被災地域とそれ以外、あるいは被災地域のなかでの損得は当然に生じうるが、それをことさらに問題化する主張は多くないように思われる(もちろん、軍事施設や原子力関係施設の地域的偏りなど、高度に政治的になりうる種類の問題はあるにせよ)。もし、そこで何らかの不均衡が生じうるとしても、それは再分配政策など別の手段によって補填が可能であるし、そうせざるをえないのが公共政策の特徴であるとさえいえる。このように考えていくと、「世代」で人々を区切り、それを公共政策の対象とすることに大きな問題はなさそうに見える。しかし、この程度の類推では先述の不穏さはいまだ払拭されたとはいえないだろう。

マンハイムの世代論

 何が世代論を不穏にさせるのか。社会学での世代論の始まりとしてよく位置づけられるカール・マンハイムの論文「世代問題」(Menheim 1928)は、マルティン・ハイデッガーの『存在と時間』の次の記述を引く。

運命は個別にあるのではなく、またいくつかの主体の相互の生起によってともに/おたがいに把握されうるものでもない。運命は同じ世界において、また無限の可能性への決意において、ともに/おたがいに、あらかじめ導かれている。コミュニケーションと闘争のなかで運命の力はまず自由になる。現存在の運命は、その「世代」のなかで/それとともに、現存在の完全で真正な生起をもたらすのである。(Heidegger 2002 [1927], §74、吉良訳)

マンハイムはここから、「世代」を文化的経験を共有する集団として捉える。この経験は当該年齢集団が、人生のある時期、とりわけ若年の人格形成期において共通に経験するものである。その例としては、戦争や学生運動といったことから、2000年前後の就職難、今般のコロナ禍といったことがあげられる。ある年齢集団に属する人々が人生の最もインパクトの大きい時期にそうした特異な経験をすることは、偶然としか言いようがなく、したがって一回限りの運命という意味合いを帯びる。付け加えると、マンハイムは「世代」という言葉によって、「新しい文化の担い手たち」を若干の距離をもって対象化している。次々に現れる「世代論」の多くが、不可解な若者たちを大雑把に名指すものとして語られる――それゆえの魅力もあり、また反発も受けやすい――という特徴をよく把握したものといえるだろう。

世代論‐運命論‐責任論のトリアーデ

 このようにして世代論と運命論が重なり合うとき、個々人は「世代」という大きな自我へと溶融していく。あるいは、幸運にもそこで例外的に成功した人生を送った者は、運命に打ち勝った自己決定主体という意識を強く持つことにもつながる――実際、「氷河期世代」のなかの「勝ち組」が過度に「新自由主義」的な「自己責任論」を唱えるに至ることは珍しくない。また、そうした共有体験はまさに一回的な運命であるがゆえに、その世代に属さない人々からすれば理解しがたい、それどころか、自分たちはもはや決してアプローチできない経験をことさら誇示されるように思えて反発の対象ともなっている。

 「世代」は、それに属する者にとっては運命的な経験を共有し、自身がそこへと溶融する大きく甘美な自我であるとともに、それに属さない者にとっては理解不可能な経験によって特徴づけられる忌むべき対象となる。そこで世代多様性を強調するとき、運命論との対置においては、そこから逃れた個々人の責任論を浮上させかねないことにも注意が必要である――世代論に慎重になるとき、(たとえば公共政策における)責任感応性をどう受け止めるかという課題が生じるということである。世代間の格差や対立を語るときには、こうした厄介な構図からどう逃れるかという点に意識的でなければならない。「世代内にも多様性がある」「勝手に代表するな」といったよくある反発は残念なことに、こうした世代論‐運命論‐責任論のトリアーデを強化しかねない。

 

2 世代間搾取?

 現代の法・政治哲学で「世代間正義(intergenerational justice)」が議論されるとき、① いまだ/もはや存在しない将来世代・過去世代の関係を問う場合と、② 同一時点で存在する異年齢集団間の関係を問う場合がある。① の場合、重複世代を無視するならば、現在世代は将来世代に対して(少なくとも一見したところ)一方的な影響力を有することから、現在世代の責務を問題にすることになる(過去世代や将来世代にも現在において義務があるという主張も可能ではあるが、特異な超世代的共同体を想定しなければならない)。それに対し、②の世代間格差を論じる場合、前節で述べたような困難ももちろん、仮に異年齢集団を「世代」として分けることを受け入れてもなお、その政治共同体全体での正義とはまた異なった意味での「世代」間の正義がありうるのかという問題が生じる。各世代は同時点で存在する以上、相互に影響を与えることができ、一方的な支配関係にはない。社会的格差を問題にするにあたって、わざわざ「世代」という不穏な概念を用いずに済ませられるならばそれに越したことはない。実際、ここ数十年の間に一気に精緻化が進んだ英語圏の政治哲学においてはまず同時代の無時間的な関係に焦点が当てられ、次に将来世代との関係が論じられるようになったが、同時代の年齢集団間正義が論じられるようになったのは最後だったという嘆きもある(Bidadanure 2015)。もちろん、世代間格差のように見えるものも同時代の無時間的な正義論によって語りうるのであれば、あえて問題を増やす必要はない。世代間格差に固有の問題領域は本当にあるのだろうか。

 現代正義論の隆盛の契機を作った、リベラリズムの代表的論者である政治哲学者ジョン・ロールズによれば「正義」とは 社会的協働 に参加する人々がそれに服する法制度の正しさである(Rawls 1999, p. 4)。本稿では以下、正義が法制度の問題かどうかという論点は置き、各世代=異年齢集団の社会的協働のあり方に焦点を当てる。そこで人々は相互に利益を与え、また尊敬し合う互恵的(reciprocal)な関係にあることが想定される。しかし、同時点で存在する各世代間の関係において、年長の先行世代が年少の後続世代に一方的に不正な影響を与える状況があるならば、そこではロールズ的な意味での互恵性に反し、後続世代の尊厳が損なわれることになる。そうした状況を政治哲学者のニコラ・マルキーンは「世代間搾取(intergenerational exploitation)」という言葉で表現している(Mulkeen 2022)

 この「世代間搾取」という言葉は、ずいぶんときつい印象を受けるかもしれない。マルキーンのいうところ、たとえば今般の新型コロナウイルスパンデミックによって、若年世代は就職難に苦しんだり、経済復興のための公債負担を今後ずっと背負うことになるだろう。もちろん、パンデミックは全世代的に甚大な影響を与えている。高齢世代は大きな健康リスクにさらされたし、勤労世代は経済活動の停滞によって多かれ少なかれ打撃を受けただろう。そう考えるとパンデミックは人々にそれぞれ異なった苦しみを与えたのであり、とりわけ若年世代の被害を強調すべきではないかもしれない。しかし、そうした論法が前節で述べた世代論‐運命論‐責任論のトリアーデにあることもさることながら、不当に現在中心主義的な見方である疑いがある。パンデミックの影響は現時点だけでなく、各人の全人生、少なくともある程度の長い期間を尺度として考えなければならないのではないか――実際、長期にわたる影響が出ることは確実だからである。単純に、残された余命という点だけとってみても、若者世代がより長期にわたる税負担を強いられることは確かである。これをもって、税負担の「残り年数」が少ない先行世代が、後続世代の将来の犠牲を利用することによって経済復興の果実を得ることになるといえるだろうか。そして、それを「世代間搾取」という言葉で問題化することは適切だろうか。もし、そうしたことがいえるとすれば、余命に比例した税(つまり高齢者ほど高くなる)を導入し、若者世代の就職支援に充てるといった政策が正当化されるかもしれない。

 こうした見方に対しては、階級利害還元論とでもいうべき反論がありうる。そもそも資本主義経済の仕組み自体、次世代への際限なき先送りを最初から組み込んだものであり、現在の若年世代は次の世代に対してまた同じことをするだろう。世代の間にあるのは一方的な搾取ではなく、過去からの恩恵と負債の両方を将来に向けて引き継いでいく「入れ違いの互恵性(staggered reciprocity)」であって、仮に不正があるとしてもそれは世代間に特有のものではないのではないか。また、各世代はそれぞれに、戦争や経済危機、疫病といった危機を経験しているのであるから、特定の世代が特別に損をしているともいいにくい。むしろ後続世代のほうが進歩する科学技術の恩恵を受けているから得をしているとさえいえるかもしれない。資本主義経済において問題は世代間にはなく、資本家と労働者という階級間にある。にもかかわらず、差し引きの計算の難しい世代問題を導入することは、階級間の根本的な問題を隠蔽することにほかならない――。

年功制と資本制

 この仮想的批判はマルキーンの例を参考にしながら筆者が敷衍したものだが、マルキーンはこうした見方に対し、アイリス・マリオン・ヤング(Young 2006)以来の「構造的支配」の多元論をもって応答している。

 マルキーンの述べるところ、「世代間搾取」は多様に存在する搾取形態の一つを問題化するものである。現実には、性別、人種、障害の有無など、多様かつ相対的に独立した要素によって構造的支配が形作られているのであって、それを一足飛びに階級利害の対立に還元することこそ問題の隠蔽にほかならないという(Mulkeen 2022)。たとえばマルクス主義フェミニズムは家父長制を資本制から相対的に独立したシステムであることを踏まえ、両者の共犯関係を告発したのであった(上野 1990)。「家父長制と資本制」の結託を批判するマルクス主義フェミニズムに階級利益還元論に尽くされない意義があるとするならば、同様に「年功制と資本制」の結託を批判してもよいだろう。にもかかわらず、世代間対立を忌避しながらの資本制あるいは「新自由主義」を批判するのは――日本では2000年前後に流行した「格差社会論」以降、最近になって「格差」が「分断」という言葉に取って代わり、道徳問題の意味合いを濃くすることによってさらに強化されている論法のように思えるが――まさにその結託を温存する危険と隣り合わせではないか。ここで論点を明確にするならば、〈世代間対立を煽るのは新自由主義下での根本的な階級対立の隠蔽である〉という見方と、〈性別、人種、障害の有無、そして世代など、多元的な対立が一体となって構造的不正義を形作っている以上、階級の特権視は複雑な搾取形態の隠蔽である〉という見方のいずれが適切な問題の立て方か、ということになる。前節で述べた世代論の困難を真剣に受け止めるのであれば前者の道もありうるし、それが相対化可能なものと見積もれるのであれば後者の道が有望になるだろう。

 

3 世代間平等論

世代間格差の測定

 ここまで世代間格差を適切に問題化するための準備作業を行ってきたが、年長世代が豊かであって若年世代がどんどん貧しくなっている、というように世代間格差を描いているように思われたかもしれない。それはいかにも単純な見方だろうが、はたしてどれだけ妥当だろうか。

 世代間格差を「測定」する試みはすでにいくつかなされており、各世代の政府に対する受益(社会保障など)と負担(税金)の差し引きを棒グラフで可視化する、コトリコフの「世代会計(generational accounting)」は既に古典的な手法となっている(Kotlikoff 1992)。ほか、より細かい要素を加味した「社会支出の高齢者バイアス指標EbiSS: Elderly Bias in Social Spending)」などがあり、どういった点を考慮に入れるかによって細かい議論がなされている。しかし、少なくとも先進諸国での現存世代ではどの調査でも、高齢世代ほどプラスに、若年世代ほどマイナスになるというはっきりとした傾向が出ている。日本は高齢者バイアスが高い国のグループに属しており、2010年時点での調査では60歳前後(つまり現在[2022年12月]では70歳前後)が政府との関係での「損益分岐点」となっている(Vanhuysse 2013など)。具体的な金額はそれぞれの調査で異なっているが、こうした世代間格差をコトリコフは「財政的児童虐待」という激越な言葉で批判しているし、特に日本の場合、いまだ生まれざる将来世代まで含めれば桁違いの額になることが指摘されている(島澤 2017)

贅沢な老後のためのスパルタ式幼年期

 このように老年世代ほど得をし、若年世代ほど損をするという状況があるとして、この世代間格差は不正であって是正しなければならない、ということがいえるだろうか。考えられる反論として、そうした世代間格差のパターンが一定であり、かつ持続しているのであれば、若年世代もやがて得をする側に回るのだから、人生全体としてみれば不平等とはいえない、というものがある。若年世代が経験しているのは「財政的児童虐待」ではなく、「贅沢な老後のためのスパルタ式幼年期」(Vanhuysse 2014, p. 7)ということである。若年世代は科学技術の進歩による生活水準の向上の恩恵も得るだろうから、その点も加味すれば余計にそういえるかもしれない。

 しかし、この反論は、世代間格差のパターンが一定であるという偶然的事情に依拠しており、今後の人口動態や財政状況の変化によっては前提を失う。また、この反論の直観的な説得力は「だんだん豊かになっていく」という楽観性によっており、これが逆に高齢になるに従って貧しくなっていくような状況では、たとえ人生全体での収支は同じだとしても魅力的には思われないだろう(後に触れる「不平等都市」の例、McKerlie 2013, p. 6)。さらに突飛な想定をするならば、十年ごとに主人と奴隷のカーストを入れ替わることになっている社会は、いくら世代間平等が実現されているといっても受け入れられないはずである(後に触れる「カースト交換制」の例、McKerlie 1989, p. 479)。単純な「人生全体の平等主義(complete lives egalitarianism)」はうまくいかない。

若者支援の公共性

 こうした例は、人生全体での収支を平等にすることには意味がないことを示すとともに、どの年代が本人の人生にとって、あるいは社会にとって重要な意味を持つのかという論点を提起するものでもある。先の例でいえば、もし自分で選べるとすれば人々は人生のどの期間を豊かなほうに、また悲惨なほうに割り振るだろうか。その選択は個々人の価値観=時間選好によるだろう。しかし公共政策として特定の年齢層に資源を投入する場合には、世代間格差の形式的な是正を超えた、より実質的な考慮が必要になる。

 人生全体での収支を合わせる種類の世代間平等論に反対するための実質的な根拠として、特定の世代を救済することの社会全体への外部効果をあげる議論もある(Vanhuysse & Tremmel 2018)。それによれば、若者世代が損をしている状況があるとき、若者世代に対して就学・就職、および子育て支援を行うことには正の外部効果があるという。労働スキルの高い人々が増えれば社会全体の経済活性化につながるし、子育てが積極的になされれば人口の維持につながる。こうしたことは老年世代を含めた社会全体にとっての現在の利益になるため、公共政策として正当化しやすい。つまり、若者支援は、現状のような世代間格差がある状況では、平等の要請に加えて、実質的な根拠も強いといえる。しかしそれは、外部効果がもはや期待しにくくなった世代に対する公的支援の根拠が弱くなりうるということも意味している。つまり、中年以上の世代が若年世代と同様の貧しい状況にある場合、同様の公的支援を行うにはまた別の根拠が必要になる。

挟み撃ち

 先に紹介した世代間格差の測定においては、老年世代ほど豊かで若年世代ほど貧しいという単純な描像が示されているが、実感にそぐわないという印象も強く持たれるかもしれない。端的にいえば、中間世代(日本でいえば「氷河期世代」、本稿の筆者もそこに属している)の苦境が表現されていないからである。日本政府も近年になって「就職氷河期世代支援プログラム」を始め、就職支援などを行っているものの、世代的苦境が具体的な数値に現れにくいものであるからか、また若年世代に対する公的支援ほどの外部効果が見込みにくいからか、あまり本腰を入れたもののようにも思われない。既に「逃げ切り」を確定させた老年世代にとってそうした政策を支持する動機は薄いし、若年世代は自分たちこそ最も損をしているにもかかわらず、という思いを強く持つだろう。

 ここでふたたびマンハイムを引くならば、共通の文化的経験によって特徴づけられる「世代」論において、若年世代は新しい文化の担い手として規定されるのであった(Menheim 1928)。したがって若年世代と中年世代の断絶はまずもって文化的断絶であり、新しい文化の担い手としての自己意識を持つに至った若年世代は、すぐ上の中年世代を目の上のたんこぶとして敵視することになる――たとえば具体的には、2015年のいわゆる安保法制反対運動においてSNSを駆使する若年世代とかつての全共闘世代とが街頭デモで連帯する一方、中間世代は憎むべき保守層として位置づけられがちだったことがあげられるかもしれない(これは中間世代に属する者としての被害妄想であることを願っているが

 また、当の氷河期世代においても、就職活動に苦労したことは世代的連帯を形作るような共通の経験とはなっておらず、むしろその経験自体が成功者と失敗者とのあいだに分断を持ち込む種になっているようにさえ思われる。

 そのように考えていくと、氷河期世代は八方塞がりのようにも思えてくるし、実際、そうした絶望的な声も多く発せられている(下田 2020)。筆者としても楽観的なアイデアを持ち合わせているわけではないが、最後にいくつか、世代間平等論から示唆されることはないかを検討してみたい。

運の世代間平等論

 人がどの世代に生まれ、どのような共通の経験をするに至るのかはまったくの偶然であり、そうであるがゆえに世代論には運命論と隣り合わせであることを一節で論じた。さて自身の選択によらない「まったくの運(brute luck)」によって不利益を被るとすれば、社会的に救済の対象となりうるのではないか。こうした見方は「運の平等主義(luck egalitarianism)」と呼ばれる(簡単な解説として、Knight 2013)。これは世代間格差にも拡張できるだろうか。

 特定の世代に広くふりかかった不利益が、救済されるべきまったくの不運か、それとも自身の選択によるものとして結果を甘受すべきものなのか。両者の分けにくさは運の平等論にとってつねに悩みの種であるが、これが世代間に拡張された場合、その困難はさらに増すことになる。各世代はそれぞれに不運に見舞われてきただろうが、そこでも成功者と失敗者が必ず分かれる。その事実は、その不運が克服できないほどに強力なものではなかったという含意を持ちうる。その世代の全員が抵抗できないほどの不運があり、それによって他の世代との不平等が生じた場合には救済の余地が生じうるが(たとえば戦争による青年層の徴兵などはそれにあたるかもしれない)、氷河期世代の就職難はそうした種類のものではないだろう。

世代間関係的平等論

 以上のような運の平等主義からの議論には「福祉国家以前に戻るもの」という厳しい批判がある(Anderson 1999)。そうした関心から出発する関係的平等論は、社会正義の役割は財の分配ではなく、人々の関係性のあり方を平等にすることによって不当な支配関係から人々を解放することであるとする。たとえばジュリアナ・ビダダニュアの議論によるならば、先に紹介した、高齢者がだんだん貧しくなっていく「不平等都市」と十年ごとに主人と奴隷が入れ替わる「カースト交換制」が不正であることを示すのに時間的パズルを導入する必要はない。それらが不正であるのは同時代に存在する両者の支配関係によっている(Bidadanure 2016, p. 245)

 こうした支配関係からの解放として、関係的平等論者はしばしば民主的平等、すなわち民主的政治過程に参加する能力のエンパワメントに訴えかける(Anderson 1999)。こうした見方からすれば、氷河期世代の支援策は就労支援といった「分配的パラダイム」によるのではなく(少なくとも、それに加えて)政治に参加し、自身の声を政策へと反映させる能力の涵養といったことが考えられる。氷河期世代の問題自体は20年以上前から認識されており、しかも政治的影響力を与えるのに決して少なくない人数が存在するにもかかわらず、公的支援策が始まったのがつい最近のことであるという事態こそ、その声が政治へと届いていなかったことの証左であるだろう。先行世代の都合によって採用が極端に抑えられ、氷河期世代が十分な財産を蓄えることができず、結果として政治的に脆弱な存在へと貶められたのであるならば、いまだ先行世代が中心となっている政治的決定は氷河期世代に対して正統性を主張しえないかもしれない(安藤 2016)。それは政治的不安定性というリスクにつながる。むろん、人数としてはもはや太刀打ちできないかもしれないが、たとえば「世代別代表」として議会に枠を設けるなり、「氷河期世代委員会」といった第三者機関を作って民主的政治過程の歪みを内外から矯正する可能性は十分にありうる。

 もっとも、ビダダニュアによれば、こうした関係的平等論はひるがえって現時点の関係性のみに着目しがちだという。そこでノーマン・ダニエルズの議論(Daniels 1988)にならい、人々は全人生を通じ、慎重な見通しでもって人生計画を立てられるようにすることが、人生全体の平等主義にとって必要だとする。それはデニス・マッカーリーが時間的パズルを持ち出して批判するような厚生主義的な平等論ではなく、一定の閾値つきの充分主義的な分配を要請するものである。ビダダニュアはそのようにして、共時的な関係的平等と、通時的な希望の充分主義的保障を組み合わせたハイブリッド世代間平等論によって時間的パズルを極力避けようとしている(Bidadanure 2016, p. 254)

4 おわりに

 以上、世代論を語ることの構造的な困難を確認したうえで、中間世代たる氷河期世代の救済が困難な事情を見てきた。若年世代と同様の公的支援は望みにくい以上、氷河期世代公的支援についてはその外部効果に必ずしも依存しない世代間平等論の思想資源をいくつか参照した。最後に紹介したビダダニュアのハイブリッド世代間平等論は、① 「世代」の実体視による「世代論‐運命論‐責任論」のトリアーデと、② 時間的範囲を全人生とすることによる時間的パズルの出現の両方を避ける試みとして有効であるだろう。とりわけ人生全体を通じて「希望」を持つ能力の充分主義的な保障を重視するその主張は、「希望格差社会(山田 2004)の問題がもはや語られなくなり、代わりに「文化資本論」「親ガチャ」といった言葉によって示される運命論にしばしば流される日本の議論の状況において、一定の意義をもたらすものと思われる。

 

文献

  • 安藤馨 (2016)「世代間正義における価値と当為」、杉田敦編『講座現代4 グローバル化のなかの政治』岩波書店
  • 上野千鶴子 (1990)『家父長制と資本制』岩波書店
  • 島澤諭 (2017)『シルバー民主主義の政治経済学』日本経済新聞出版社
  • 下田裕介 (2020)『就職氷河期世代の行く先』日経BP。
  • 山田昌弘 (2004)『希望格差社会筑摩書房
  • Anderson, E. (1999). What Is the Point of Equality? Ethics 109(2), 287-337.
  • Bidadanure, J. (2015). On Dennis McKerlie’s “Equality and Time.” Ethics 125(4), 1174-1177.
  • Bidadanure, J. (2016). Making Sense of Age-Group Justice. Politics, Philosophy & Economics 15(3), 234-260.
  • Daniels, N. (1988). Am I My Parents’ Keeper? Oxford U. P.
  • McKerlie, D. (1989). Equality and Time. Ethics 99(3), 475-491.
  • McKerlie, D. (2012). Justice Between the Young and the Old, Oxford U. P.
  • Mannheim, K. (1928). Das Problem der Generationen. Kölner Vierteljahrshefte für Soziologie 7, 157-185.
  • Heidegger, M. (2002 [1927]). Sein und Zeit. Max Niemeyer Verlag.
  • Knight, C. (2013). Luck Egalitarianism. Philosophy Compass 8(10), 924-934.
  • Kotlikoff, L. J. (1992). Generational Accounting. Free Press.
  • Mulkeen, N. (2022). Intergenerational Exploitation. Political Studies 71(3), 756-775.
  • Rawls, J. (1999). A Theory of Justice, Revised Edition. Belknap Press.
  • Schmidt, A. T. (2022). From relational equality to personal responsibility. Philosophical Studies 179, 1373-1399.
  • Vanhuysse, P. (2013). Intergenerational Justice in Aging Societies: A Cross-National Comparison of 29 OECD Countries. Bertelsmann Stiftung.
  • Vanhuysse, P. (2014). Intergenerational Justice and Public Policy in Europe. OSE Opinion Paper 16.
  • Vanhuysse, P., & Tremmel, J. (2019). Measuring Intergenerational Justice for Public Policy. In: Lever, A. & Poama, P. (Eds.). The Routledge Handbook of Ethics and Public Policy. Routledge. 472-486.
  • Young, I. M. (2006). Responsibility and Global Labor Justice. Social Philosophy and Policy 23, 102-130.

 

2024.06.05 買った本

Ethics, 134(4) の書評対象になったもの。

「法思想史」資料置き場

  • 全30回の通史的な授業です。資料を置いときます(徐々に)。

 

 

 

 

功利主義と長期主義

今年の国際功利主義学会で、長期主義(long-termism)と気候正義関係の発表が多くあったようなので、発表者とかをメモしておきます。ポスドクレベルの若い人が多いみたい。ツイッターでの高橋礼さんの情報によります。

 

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Rawls' just savings principle

  • Rawls, J. (1999). A Theory of Justice, reveised edition [1st in 1971].  Harvard University Press
  • Just savings principle: §44: 251–258; motivation assumption for, 111, 121, 254–
    256; needed to determine social minimum, 251–252; and time preference,
    253, 259–262; in classical utilitarianism, 253, 262; construction of in contract theory, 253–258; relation to difference principle, 253–254; public
    savings policies and democratic principles, 260–262; and priority questions,
    263–264; in final statement of two principles, 266–267; and principle of political settlement, 318. See also Time preference
  • Just Savings: as problem of extension, 20, 244, 274; fairness between generations, 273. 
  • Just savings principle: 145–147; presupposed by difference principle, 145; how determined, 146; and reciprocity, 146; chosen in original position, 147; maximin criterion (difference principle) inappropriate for deciding, 226; target of, 275–276; revision of account of, 418
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法理論辞典リンク集

法理論辞典というブログがとても有益なので、リンク集を作ってみた。20年ぐらい前から書かれているが、最近の文献も頻繁にアップデートされている。内容としてはおおむね、憲法を学ぶ学生が押さえておくべき社会科学や哲学の基本用語の解説だが、法・政治哲学全般に広がる内容といってよいだろう。

001: Ex Ante & Ex Post 事前/事後

002: The Coase Theorem コースの定理

003: Hypotheticals 仮定

004: The Reasonable Person 合理人

005: Holdings 判示

006: The Veil of Ignorance 無知のヴェール

007: The Prisoners' Dilemma 囚人のジレンマ

008: Utilitarianism 功利主義

009: Public Reason 公共的理由・理性

010: Deontology 義務論

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「将来を適切に切り分けること ――エーデルマンの再生産的未来主義批判を念頭に」『現代思想』2019年9月号

本稿は『現代思想』2019年9月号に執筆した論文の転載である(許可済)。掲載時のままであり、修正は行っていない。ただし、ブログの仕様上、ルビの削除など、表記に若干の変更が生じた箇所がある。

 

1. はじめに:将来は必要か?

 私たちは次世代を生み育てなければならないのか。もしかしたらその必要はないのではないか。だとすると、将来世代との規範的関係をめぐる議論はどのように変わるだろうか。本稿はこの問いを念頭に置きながら、いまだ生まれざる将来世代との関係における「世代間正義(intergenerational justice)」論を考察する。

 世代間正義論の基本的な問題設定は、私たち現在世代はいまだ存在せざる将来世代(ときにもはや存在しない過去世代)に対し、いかなる正義の関係にありうるか、というものである。地球環境問題が切迫したものとして叫ばれ始めた1960年代以降、この問題は日増しに強まる実践的重要性のもと盛んに議論されるようになった。もっとも、いまだ存在しない人々との通時的な規範的関係を問う世代間正義論は単なる「応用問題」ではなく、共時的な規範的関係に尽くされない固有の哲学的意義を有する。それは1970年代以降「復権」したとされる実践哲学の諸理論に重大な課題を与えることになった。本稿でもその取り組みの一部を検討するが、むしろ問い直したいのはそこにある「分配問題」の前提、つまり将来世代が存続することを前提として私たちが残すべきものを考える問題設定そのものである。左派と右派に共有されているこの前提をリー・エーデルマンは「再生産的未来主義(reproductive futurism)」と名付けて批判したが、本稿はエーデルマンらの「クィア時間論queer temporality theory)」を導きの糸としつつ、将来世代問題をいわばゼロベースから考えることがむしろ穏当な議論となりうることを示したい。

 なお、世代間正義というとき、現在世代内部で年齢によって区切られる集団の規範的関係を扱うこともあり(具体的には公的年金の維持可能性や、「シルバー民主主義」状況など)、上述のinter-generational問題に対し「世代内(intra-generational)」問題として区別されることもある。両者は連続的な部分もあるものの、より直接的な検討については、別稿の参照を乞う(吉良2016、吉良2017など)

 

2. 正義と倫理、あるいは京都とパリ

 世代間の規範的問題についての日本での議論は、1990年代の加藤尚武による精力的な紹介(加藤 1991など)の影響もあり、主として応用倫理学(とりわけ環境倫理学)の一分野として世代間「倫理(ethics)」の名のもと蓄積がなされてきた。ほか、厚生経済学などでは世代間の「衡平(equity)」という語が好んで用いられる。それに対し、1971年のジョン・ロールズの『正義論』(Rawls 1971=1999)以降の(主として英語圏の)法・政治哲学では、世代間の「正義(justice)」の語が一般的に用いられる。そうした議論の対象は実質的にはほとんど重なっており、互換的に用いられることも多い。

 「正義」は「各人に彼のものを(suum cuique)」という古くからの定式のように、正しい「分配(distribution)」のあり方として捉えられてきた。むろん、その分配物は物理的な資源や財には限定されず、抽象的な権利も含みうるし、その主体も個人に限られることなく共同体など集団であってよい。したがって問われるべきことはこの定式に充填すべき内容であるが、少なくともそこで「誰」に「何か」をどう分配すべきかという「分配問題」が意識されることになる。実際、ロールズ以降の正義論の中心的課題はまさに正しい分配であった。世代間正義が論じられる場面においても、将来世代の「取り分」がどのようなものであるべきかが念頭に置かれる。

 ここで現実の地球環境問題に関わる国際的取り組みの変遷も確認しておこう。1997年に採択された「京都議定書」体制では、温室効果ガスの排出規制を主張する先進国と、発展の必要を主張する途上国との間での対立が先鋭化した。この対立を緩和しようとした試みは複数あるが、最も特徴的なものは排出量取引(emission trading)であった。排出量の枠の金銭的取引を認めるこの制度は妥協の産物ではあるものの、将来世代にわたって影響のある地球環境問題が単に通時的な問題ではなく、現に共時的に存在する人々のグローバルな分配的正義の問題でもあることを示した。通時的な正義と共時的な正義という「縦横の」正義は、一方が他方を抑圧することのない関係が模索される必要がある。

 他方、そこから20年近くを経て2015年に採択された「パリ協定」は、気候変動に対する2020年以降の国際的枠組みとなるものである。各締約国の事情や能力に応じた一定の配慮はあるものの、気候変動対策を分配問題としてではなく、普遍的な義務として捉えている点が特徴的である。もっとも、2017年のトランプ大統領によるアメリカ合衆国の脱退宣言によってその実効性には早速の暗雲が立ち込めているが、それに対するフランスのマクロン大統領の批判「私たちの惑星を再び偉大にしよう("Make Our Planet Great Again")」は今後の気候変動対策の普遍的な義務の特徴を端的に表している。

 むろん、こうした動きは気候変動がより切迫した問題になったことの表れであり、そこに将来世代問題をめぐる道徳的原理の転換を読み込むことには慎重にならなければならない。ここで確認したことはあくまで、将来世代問題を各主体間の分配問題として構成するか、それともそれを超えた普遍的な問題として構成するかという、二つの捉え方がありうるということである。

 

3. 将来世代の権利論、あるいは取り替え子の同一性

 こうした取り組みは、これから生まれてくる将来世代が陰惨な環境のもとで苦しむことがあってはならないという道徳的直観に根ざしている。それ自体は穏当なものであろうし、その義務をまったく否定する規範理論は説得力を欠くことになりかねない。しかし、いまだ存在しない将来世代に対して現在世代が何らかの義務を負うとはどういうことだろうか。その正当化は世代間正義論の最大の課題の一つである。

 たとえば〈将来世代の権利論〉アプローチを取り上げてみよう。将来世代には良好な環境を享受する権利があり、現在世代はそれに対応する義務を負うというシンプルなものであり、「権利」という語の道徳的アピールも強いことから一定の支持がある(包括的な検討として、吉良 2010)。もっとも、こうした論法にはデレク・パーフィット『理由と人格』が示した非同一性問題(non-identity problem)が難題となる(Parfit 1983, chap.16)。これは、ある将来世代Fの権利要求に応じて現在世代が環境に配慮した行動をとったならばそこで出会う人々が変わり、そして生まれてくる子どもも別人になる以上、後に出現する将来世代は当初のFではなくなり、権利の実現それ自体が当初の権利主体を消去してしまうために権利論アプローチが論理的に不可能になる、という問題である。

 むろん、このいかにも反直観的な議論は、主体の同一性を遺伝的因果経路に依存させることによって狭く捉えた結果である(非同一性問題の包括的検討として、Boonin 2014)。たとえば、① 権利主体の同一性を緩く捉える(構成員の変化に左右されない「将来世代」という権利主体を考えるなど)か、② 因果経路を緩く捉える(遺伝的同一性に依存させない)かのいずれかの方向での回避が有力である――実際、人類の存続や生命の危機がかかっている場合に同一性や因果性の理解が緩められる傾向にあるのは興味深い事実である。

 もっとも、そのようにして〈構成員の同一性に左右されない集合的主体としての将来世代の権利〉を考える場合、その権利内容がいかなるものであれ、そもそもその権利主体が存在することが前提となる。小林和之(1999)はそれについて、権利があるというためには権利主体が必要であり、そうすると〈将来世代の権利〉は〈将来世代が生まれてくる権利〉を含意するとまとめている。その権利に対応する義務が現在世代の各個人に課されるならば、再生産の権利(reproductive rights)に大きな制約がもたらされる。これは権利論アプローチに限らず、将来世代の福利に配慮する義務を認める限り生じそうな問題であるが、どう対応すべきだろうか。

 

4. 再生産の義務は存在するか

4.1 クィア時間論の視角

 私たちは子どもを生み育てなければならないのだろうか。この問いは、ジェンダーセクシュアリティに関わる規範秩序のあり方に直接につながる。1960年代の「第二波」以降のフェミニズムの特徴の一つに、ジェンダーセクシュアリティの社会的意味が構築されるミクロなあり方を問題にしたことがあげられるが、以下ではその批判的後継者であるクィア理論の議論を念頭に置きながら再生産の義務について考えていく。

 クィア理論queer theory)は1980~90年代のセクシュアリティ論において、従来の gay & lesbian 論の(ともすれば)本質主義的な見方に対し、① ジェンダーセクシュアリティの社会構築主義的な見方を強調した。さらに、② ミクロな場面における意味の撹乱(「クィア=変態」という言葉を積極的な意味として反転させて用いるなど)によってジェンダーセクシュアリティの意味、とりわけ異性愛カップルとその子からなる家族を親密な関係性の典型として称揚し、それ以外の親密な関係性を格下げするような異性愛規範性(heteronormativity)を「ずらす」実践を重視してきた(cf. Pickett 2015: sec.4)

 そして本稿の関心にとって重要な、2000年代以降に発展しているクィア時間論queer temporality theory)は、人々の社会的な時間意識における意味秩序に着目する。特に、大部分の社会におけるそれは再生産(生殖と育児)にとって最も効率的な形で未来志向的に最適化されていることを問題視する。その代表的な論客であるリー・エーデルマンは、それを「再生産的未来主義(reproductive futurism)」と呼び、左派と右派の両方が共有している時間性であるとする(Edelman 1988; 2004)

4.2 再生産の個人的義務

 そうした規範性が最も露骨な形で現れるのは共同体の再生産においてであるが、それを見る前に個人レベルでの再生産義務について見ておこう。〈個人は生殖・育児という再生産を行う直接の義務を負っている〉という主張は、おそらくきわめて反直観的だが、どうすれば否定できるだろうか。または、否定する必要があるだろうか。

 ジャン・ナーヴソンはリバタリアニズム自由至上主義)の代表的論客だが、以前には功利主義的な立場から個人の再生産義務について論じている(Nerveson 1967など)功利主義が目指す効用の最大化は、その社会の効用の総計の最大化(総計功利主義)か、それとも平均の最大化(平均功利主義)かという問題があるが、ナーヴソンによると生殖の場面において総計功利主義には不都合があるという。仮に、ある子が生まれてくることが世界の効用を(たとえどんなに悲惨な生であろうとも)少しでも増大させるのであれば、個人道徳としての総計功利主義の義務を課された個々人には子を一人でも多く生む義務があり、そうすると効用の総計は最大化されても悲惨な生を送る人々が増え、効用の平均が下がる(後にパーフィットが指摘した「厭わしき結論(repugnant conclusion):Parfit 1983, chap.17)。こうした事態を防ぐためには、現に存在する人々の効用を最大化する(つまり平均功利主義の)義務のみを考えればよく、新しい生を生み出すかどうかについては中立的でなければならない。

 この議論は、① 悲惨な生を送る膨大な人口が存在するに至るような人々の選好変容の経路は考えにくいので実践的に問題にならないと一蹴されそうでもあるし(安藤 2007, 121-2)、② ピーター・シンガー流の〈存在先行説(prior existence view)+総計功利主義〉なり(Singer 2011, chap.7)パーフィットのように人格影響原理(person-affective principle)のほうを弱めるなり、効用水準に(理論的一貫性を多少犠牲にして)閾値を設定するなり、様々な回避方法がある。もっとも、ある生を生み出すことが世界の効用を少しでも増大させるという前提のもとでは、正確に効用計算がなされる限り(つまり親の負担をカウントする限り)、個人の生殖義務を直接に否定するのは困難であるように思われる(し、大抵の場面では反直観的な事態になりそうもない)。

4.3 再生産の集合的義務

 とはいっても、生殖の個人的義務はいかにも反直観的であるし、代替手段さえ認められないような状況は考えにくい。ではそれに対し、〈共同体は自身を再生産する集合的義務を負っている〉と集合的に考える方向はどうだろうか。その場合、個々人は直接の再生産義務は負わないものの、共同体の次世代再生産に寄与する間接的義務を負うことになる。なお、ここでの「共同体」は一定の人間集団を指し、「人類」といった大きな集合的主体も含まれる。

 ほとんどの人間社会にとって、自身の存続は最大限に重視される課題である。そのあり方を問題にする規範理論には、エーデルマンのいうところの「再生産的未来主義」が様々な形で現れる。代表的な議論を三点ほど確認しておこう。

 

ヨナスの定言命法

 ハンス・ヨナスによれば、人類が存在することそのものに内在的価値があり、人類にとっては存続そのものが定言命法的な義務である。ヨナスはそうした前提のもと、いまだ生まれざる将来世代は絶対的に脆弱(vulnerable)な存在であり、それに対して一方的な影響力を有する現在世代は、親が子に対して有するのと同様の一方的な責任を追う(Jonas 1979)。ここでは将来世代の存続への責任が端的に、親子関係という未来志向的な時間性のイメージのもとに捉えられている。

 

ロールズの貯蓄原理

 ロールズ『正義論』は現代の法・政治哲学において「世代間正義」を明確に主題化する嚆矢となったが、ロールズ自身の主張は、各政治共同体は次世代の存続に必要な資源を残すものとする「貯蓄原理(saving principle)」という慎ましいものである(Rawls 1999, sec.44)。これは格差原理の中に組み込まれるが、それがどのように基礎づけられているのかはそれほどはっきりしない。合理的主体像のアドホックな修正というよりは、(1) 正義感覚を備えた各人は無知のヴェール下でも一定の将来志向的な利他性をもって選択する、(2) いまだ存在せざる将来世代は時間軸上の「最も恵まれない人々」であって格差原理が通時的に適用される、といったことが、よりロールズ内在的な説明であると考えられる。ここにはロールズの「転回」をめぐるキーワードの一つであり、後期になって明示的に強調されることになる(通時的)「安定性(stability)」の要請がある(安定性について、宮本 2018)

 

民主的正統性からの議論

 多くの先進諸国で見られる、いわゆる「シルバー民主主義」「老年支配(gerontocracy)」状況は、人口の世代間不均衡が原因である場合が多い。民主的正統性を政治的責務の問題として捉えた場合、極端な人口の不均衡のもと若年世代が十分に政治的に代表されていない状況では、若年世代はそこでの集合的決定に従う理由(=正統性)に乏しい。そうすると、たとえば賦課式の公的年金などによって世代間扶助の仕組みを作る場合のように、将来を見据えた全世代的な民主的正統性が要請されるのであれば、各世代は極端な人口不均衡が生じないように再生産を行う集合的義務を負う(安藤 2017)。そうした義務を怠った世代の老後は悲惨なイメージで描かれるし、ここでの「自業自得」は人口感応的(demo-sensitive)なものとして規範的に正当化されうる(Gossries 2009, 141-3)

 

5. the view from no future

 性に関わる社会規範や法制度はほとんどの場合、異性愛中心主義的に、かつ一時の熱情に左右されない安定的な関係を後押しする。そして、そうでない多様な、開かれた性のあり方を「異常」なものという烙印を押して格下げ(degrade)する。そうするのは上記のいくつかの例に示したような共同体的再生産を最も効率的に進めるため、というのが第二波以降のフェミニズムクィア理論の指摘によって指摘されてきたことである。

 こうしたやり方は周縁化される人々にとっては抑圧的なものであり、たとえば婚姻制度廃止論(パートナーシップ契約への解消)によって異性愛規範の解体を図ろうとする議論がなされる。しかし、それに対しては共同体的再生産の必要から(あるいはフェアネスの観点から)批判がなされうる。すなわち:〈共同体の存続による恩恵を自身も受けていながら、それを下支えする異性愛規範性およびそれを具体化する法制度を批判するのはフェアネスに反する、もしくは自己破壊的な主張ではないか?〉

 こうした批判に対する応答には、大きく分けて2種類ある。

 ① 穏当な応答: 再生産に関わる不正は(おそらく多くの場合において異性愛規範によって推進される)男女の負担のアンバランスにあり、異性愛規範を強化しない形でその負担の適正な分配を行うことが必要である。

 ② 過激な応答: 異性愛規範によって生じる不正はきわめて悪質なものであり、その是正は共同体再生産の必要を上回るものである。

 エーデルマンの「ノー・フューチャー」宣言は明示的に2の方向をとるものである。「未来を存続させなければならない」という「再生産的未来主義」に左派も右派も縛られた保守的な営みが政治であり、そこからたとえば「生産性」によって人を評価する呪縛が生じる。そこに未来を拒否する死の欲動でもって対立を持ち込む実践がクィアである。

 エーデルマンの方針は、再生産と結びついた未来志向性の放棄というラディカルなものであり、およそ現実的なものとはいえないが、重要なのはその批判的視点である。トマス・ネーゲルの有名な著書のタイトルをもじれば、その ”the view from no future” は、いまだ生まれざる将来世代が当然に存続すべきものではないことを主張するが、それは必ずしも破壊的な帰結をともなうものではない。世代間問題について未来を見すぎることなく、共時的な問題とのバランスを取りながら、いわばゼロベースからの思考の積み上げを可能にするものである。それはたとえば、人類の存続がかかった場面における世代間〈倫理〉と、各種の問題に応じた分配問題として構成する世代間〈正義〉の、両者を適切に使い分けることでもある。また短期的な次世代再生産、中期的な資源保存、そして長期的な気候変動対策といったように将来世代問題はその時間的スパンによって異なった規範的特徴を有しており、それに適した世代主体性(generational agencies)を切り分ける議論がなされなければならない。通時的に普遍的な視点はあくまでその一つとして捉え直される。そして本稿で検討したいくつかの議論にもその射程に応じた位置づけがなされることになろう。

 

付記

 本稿は科学研究費補助金(若手研究)「世代間正義と世代内正義の接続可能性」(課題番号18K12616)の成果の一部である。

 

文献

  • 安藤馨(2007)『統治と功利』勁草書房
  • 安藤馨(2017)「世代間正義における価値と当為」、杉田敦編『講座 現代(4) グローバル化のなかの政治』岩波書店
  • 加藤尚武(1991)『環境倫理学のすすめ』丸善
  • 吉良貴之(2010)「世代間正義と将来世代の権利論」、愛敬浩二編『人権の主体』法律文化社
  • 吉良貴之(2016)「年金は世代間の助け合いであるべきか?」、瀧川裕英編『問いかける法哲学法律文化社
  • 吉良貴之(2017)「シルバー民主主義の憲法問題」、片桐直人・松尾陽・岡田順太編『憲法のこれから』日本評論社
  • 小林和之(1999)「未来は値するか?」、井上達夫・松浦好治・嶋津格編『法の臨界〈3〉法実践への提言』東京大学出版会
  • 宮本雅也(2018)「安定性から読み解くロールズの転回問題」、井上彰編『ロールズを読む』ナカニシヤ出版
  • David Boonin (2014) The Non-Identity Problem and the Ethics of Future People, Oxford University Press
  • Lee Edelman (1988) “The Future is Kid Stuff: Queer Theory, Disidentification, and the Death Drive,” Narrative, Vol.6, No.1(藤高和輝訳「未来は子供騙し:クィア理論、非同一化、そして死の欲動」『思想』2019年5月号)。
  • Lee Edelman (2004) No Future: Queer Theory and the Death Drive, Duke University Press Books
  • Hans Jonas (1979) Das Prinzip Verantwortung: Versuch einer Ethik für die technologische Zivilisation, Frankfurt am Main: Insel-Verlag(加藤尚武監訳『責任という原理』東信堂、2000年)
  • Jan Nerveson (1967) “Utilitarianism and New Generations,” Mind 76/301
  • Derek Parfit (1984) Reasons and Persons, Oxford University Press森村進訳『理由と人格』勁草書房、1998年)
  • Ernest Partridge (1990) “On the Rights of Future Generations,” in Upstream/Downstream: Issues in Environmental Ethics, ed., D. Sherer, Temple University Press(本論文も含め、関連する論考がウェブサイトで閲覧可能。http://gadfly.igc.org/
  • Axel Gosseries (2009) “Three Models of Intergenerational Reciprocity,” in Intergenerational Justice, eds., A. Gosseries, and L. H. Mayer, Oxford University Press
  • Brent Pickett (2015) “Homosexuality,” Stanford Encyclopedia of Philosophy, https://plato.stanford.edu/entries/homosexuality/
  • John Rawls (1999) A Theory of Justice, revised edition, Harvard University Press (first edition in 1971)(川本隆史・福間聡・神島裕子訳『正義論(改訂版)』紀伊國屋書店、二〇一〇年)
  • Peter Singer (2011) Practical Ethics, 3rd edition, Cambridge University Press(山内友三郎・塚崎智『実践の倫理(新版)』昭和堂、1999年)

 

法哲学関連の国際ジャーナル

 法哲学を専門にしている、英語の国際ジャーナルには以下のようなものがある。ひとまずこれらが、いわゆる「トップジャーナル」(少なくともそれに類するもの)といってよいものだろう。

 これはそのまま、私がよく読んでいるジャーナルの順番になっている(太字にしているものは法哲学分野の「四大ジャーナル」と呼ばれることもある。ジャーナルにはそれぞれ、だいたいの特徴がある。

各ジャーナルの特徴

  • Ratio Juris 法哲学法思想史全般を扱っており、掲載されている論文も20ページ前後と短いものが多い。英語ではあるが、ドイツ語圏の議論をテーマにする論文も多いことは特色だろう。この分野の世界的なトレンドをざっと押さえておくのに便利なジャーナルといえる。ただ、短いこともあってか、論文の水準はさまざまである。
  • Oxford Journal of Legal Studies は、私の見るところ、現在、法哲学分野で最も水準の高いジャーナルだと思う。ただ、テーマはある程度絞られていて、いわゆる法概念論とか一般法理学といったもの、もっと特定的にいえば H. L. A. ハートの議論を何らかの形で受け継ぐものが多いように見受けられる。しかしその一方、実定法の基礎理論であることを目指した論文が多く載っていることも大きな特色である。
  • Law and Philosophy 法哲学分野を広くカバーするジャーナルであり、一論文あたりの分量も多いことから、しっかりした内容のものが載っているように思う。このジャーナルで「はずれ」の論文を見ることはあまりない。ときどきなされている特集も充実しているものが多い。また、書評を多めに載せているので、重要な新刊書籍をチェックするのにもよい。
  • Legal Theory かつて最も高水準といわれていたが、最近はかなり雑多に広がっているように思われる。正直なところ、現在では面白そうな論文があればつまみ食いで読むぐらいでよいと思う。どのジャーナルでもそうだが、編集委員会のメンバーの移り変わりなどによって、同じジャーナルでも性格がかなり異なってくる
  • ARSP: Archiv für Rechts- und Sozialphilosophie は、法哲学分野の国際学会である「法哲学・社会哲学国際学会連合(IVR: The International Association for the Philosophy of Law and Social Philosophy)」のジャーナル。英語だけでなく、ドイツ語ほか、いくつかの言語の論文が載っている。世界レベルでの法哲学の多様性がよくわかる。
  • JurisprudenceCanadian Journal of Law and JurisprudenceJournal of Legal Philosophy あたりは、私としては毎号の目次を見て、気になるものがあれば読むという程度である。どういう傾向や特色があるのか、それほどはっきりしないという印象をもっている(だからいけないというわけでもない)。

 大学院の修士課程の院生や、これから大学院入試で何か専門的なテーマを決めたいけれど何を手がかりにすればよいかわからない、という方には、上記のうちだと Law and Philosophy  Legal Theory あたりはわりと具体的というか実践的なテーマの論文が多いので、参考になるだろう(英語の勉強も兼ねて)。ピンときた言葉があれば Stanford Encyclopedia of Philosophy でどんな議論があるかを概観して、そこに載っている文献をたどっていけば(そして下記の隣接分野も含めて各ジャーナル内でその言葉を検索して読んでいけば)論じるべきことが見えてくると思う。

 私のときは少なくとも院試レベルで英語文献をがんがん読むことは求められていなかったし、今でもたぶんそこまでではない。まあでもだんだんそういうのがスタンダードになってくるのは確実なので、できるだけ慣れておくのがよいです。

 この他にもいろいろなジャーナルがあるが、私がある程度以上に定期的にチェックしているのはこれぐらいである。この他、Law & Literature などのように、より特化したテーマのジャーナルもたくさんある。またもちろん、ドイツ語やフランス語にも重要なジャーナルがあるが、私はときどき眺める程度である(フランス語だとたとえば、Revue interdisciplinaire d'études juridiques など)。

アメリカのロージャーナル

 重要なこととして、アメリカのロージャーナルにももちろん、法哲学分野の重要な論文が多く掲載されている。ただ、こちらはジャーナルの数が多すぎて、法哲学関連は埋もれがちなので、私はあまりチェックできていない。

 アメリカのロージャーナルの特徴的な査読システム(異様に細かい参照が要求される)の結果なのだろうが、長い論文になりがちということもある。これは判例分析が必要な実定法分野の論文では重要かもしれないが、法哲学分野の論文に適したあり方かどうかというとよくわからない(公平のために、ロナルド・ドゥオーキンの論文はアメリカのロージャーナルによく載っていたことを付け加えておこう)。少なくとも私は、読むのがものすごくしんどい。他の論文の参考文献からたどったり、著者名などから判断して、重要そうなものを読んでいくぐらいになっている。

ジャーナル論文の位置付け

 参考になるものとして、Brian Leiter のブログ記事 "Legal Philosophy Journals"(2006年10月)がある。相場観としてはだいたい、私が上に書いたようなこととそれほど変わらないと思う。ただ、十数年が経過して、事情が変わったところも多いだろう。おそらくかなり多くの学問分野に共通することだが、この20年ぐらいで、国際ジャーナル論文の研究上の重要性が飛躍的に高まっている。各ジャーナルもそれに応じて変わっている最中である。仲間内の水準の低い論文を載せているものはすぐに読まれなくなる。

 かつてであれば、優れた論文はやがて書籍にまとめられるだろうから「最新の流行」をそうそう追いかけるものではない、といったことも言われていた。しかし、もはやそれはあてはまらなくなりつつある。もちろん、書籍としてまとまったものをじっくり読むことも大事だが、それだけでは下手したら十年単位のタイムラグが生じてしまう。流行を追うのは哲学的な態度ではない、などといっていると致命的な見落としが生じかねない。最先端の熾烈な競争も一応はチェックするのがよいだろう。

書籍

 書籍として出版されるものでは、Oxford University Press が頭一つ抜けている。次に、Cambridge University Press、Harvard Universty Press というところ。Springer もたくさん出しているが、特に論文集はかなり雑多なものも多い。

 このあたりの新刊案内をチェックし、あと Law and Philosophy の書評を見ておけばそうそう取りこぼしはないと思う。

近年は Oxford Handbook、Cambridge Companion、Routledge Handbook といったシリーズものがたくさん出ており、法哲学分野もある。そのトピックでどんなことが問題になっているか、目次だけでも見て概観するのもよいだろう。内容的にも、自身の主張を押し出すというより、サーヴェイ的なものが多いようである。ただ、だいたい分厚いので、通読するようなものでもない。

隣接分野のジャーナル

 ここで紹介したジャーナルは法哲学分野といっても、とりわけ法概念論・一般法理学、および実定法基礎理論が中心となっている。法哲学にはもちろん、正義論・法価値論というもう一つの大きな分野がある*1。そうした論文も今回のジャーナルにある程度は載っているが、研究を進めるうえでは当然、政治哲学、道徳哲学、倫理学といった分野を見ていく必要がある。

 私が定期的にチェックしているジャーナルは Philosophy and Public AffairsEthicsUtilitasEuropean Journal of Political Theory といったあたりになるが、隣接分野も含めると膨大な数になってくる。同じく Brian Leiter のブログ記事 "Specialist journals that publish the best articles in moral and/or political philosophy: the results"(2022年8月) に便利な一覧が載っているので、そちらを参照してもらうのがよいだろう。こちらは定期的に更新されている。

オンラインデータベースの格差

 今回紹介したジャーナルはほとんどオンラインで読むことになる。その場合、所属大学にどのデータベースの契約があるかによって、論文へのアクセスが大きく変わってくる。上述のジャーナルはおおむね、Wiley や Springer、および Oxford と Cambridge の大学出版会のデータベースで読むことができる。このあたりは比較的多くの大学で契約があると思われる。しかし、たとえば SAGE、Taylor & Francis、また Chicago 大学出版会といったデータベースになると、日本の大学での契約数は少なくなってくる(JSTOR で読むことができるが数年遅れ、といったこともある)。法学系だと Hein は重要だが、契約している大学はあまり多くない。

 こういったデータベースの格差は今後、より厳しいものになってくるだろう。大学を超えた契約のあり方を考えるなど、早急の対策が必要である。

 

*1:法学方法論を入れて三大分野にすべきだという人もいるのだが、出てくる文献の量が圧倒的に違う。内容的にも、法概念論・一般法理学に入れて考えるのがよさそうに思う――といっても、そういうジャンル分けにたいした意味はない。

井田良『死刑制度と刑罰理論』(岩波書店、2022年)

 本書をゼミで読んでいる。いわゆる死刑存廃論の頻出の論点はさほど扱われず(最後の補論で多少の言及がある程度)、メインの内容は、① 刑罰は何のためにあるのかという根本的な問題の考察と、② 近年の日本での重罰化・厳罰化、そして「被害感情」の重視といったことがなぜ起こっているかということの分析である。

 著者の立場は、② についてはおおむねオーソドックスな犯罪社会学をなぞるものといえる。しかし随所に刑法の具体的な話(日独の理論動向や、制度のあり方)が補われるので、それが類書にないオリジナリティを本書に与えている。他方、① は著者独自の立場、つまり新ヘーゲル主義的な「応報刑ルネサンス」をふまえた「規範保護型応報刑論」といったものである。これは慎重な検討を要する主張である。

 私の率直な感想としては、②についてはさらなる議論はもちろん可能なものの、大きな異論はない。①については、一貫した理論ではあるものの、かなり特異な規範存在論をとっているため、にわかに賛成はできない。とはいっても私は刑法を専門的に勉強したことはないので、以下、いくつかの外在的な疑問を述べるにとどまる。本書は少なくとも値段から判断するに、ある程度は一般読書人向けの内容でもあるから、外在的なコメントを述べることにも一定の意義があるだろう。しかしもちろん、私が刑法学について誤解をしているのであれば、専門外だと言い訳するつもりはまったくない。

1. 規範保護型応報刑論:「被害者」とは誰なのか?

 本書は通説的な(?)「実害対応型応報刑論」を批判し、新ヘーゲル主義的な「規範保護型応報刑論」を刑罰論の基礎に据える。この議論のドイツにおける展開を私はほとんど追えていないが、飯島暢『自由の普遍的保障と哲学的刑法理論』(成文堂、2016年)が見事に整理しているので、私の理解ももっぱらそれに基づく。

 近年のドイツ刑法学での「応報刑ルネサンス」にはカント派とヘーゲル派の流れがあり、一般的にいわれる「応報刑論」はカント派の厳格主義に近いものといえるだろう。それに対し、著者が好意的に援用するヘーゲル派の議論はかなり直観に反するものである。以下、乱暴を承知でまとめる。「応報」というからにはその前に何らかの加害があり、その被害者がいる。その回復として応報がある。そこで「被害者」とは誰か。カント派的にはもちろん加害を受けた当人、本書の主題である「死刑」が問題になるような場面についてより正確にいえば、当人の「人格」ということになる。応報とは人格への加害に対するものであり、とりわけ殺人は殺人者本人の人格によってのみ、つまり死刑によってしか釣り合わせることができない。人格は人格としか釣り合わない。他の刑罰による代替は殺人によって失われた人格を何か別のものと釣り合わせることであり、それは人格の手段化という、カント的倫理への重大な違反である。カントの評判の悪い死刑肯定論はこういう筋道になっている。

 それに対しヘーゲル派の場合、「被害者」は誰なのか。これもわかりにくいが、現実の犯罪被害者ではないし、カント的に措定されるような人格でもない。端的にいえば「法規範」である。法規範の否定が犯罪であり、それを国家権力がさらに否定し返す否定の否定が刑罰、つまり応報刑である。犯罪者は具体的な誰かに対して罪を犯したから罰せられるのではない。法規範を否定したから罰せられるのである。それによって現実の被害者が救済されることもあるが、それはあくまで偶然的な、反射的利益にすぎない。いわゆる「被害者なき犯罪」であっても、また天涯孤独の者の殺人であっても、そうした事情はヘーゲル的刑罰論にあっては無関係である。「被害者」はあくまで国家の法規範なのだ。この点ではカント風の「世界が滅ぶとも正義をしてなさしめよ」という厳格主義と――カントでは「人格」、ヘーゲルでは「規範」というように「被害者」は異なるが――外形的には接近してくる。

 さて、こうしたヘーゲル主義的な「規範保護型応報刑論」は、かなり特異な規範存在論であるといわざるをえないが、確かに理論的な一貫性はある。ただ、本書がかなりの紙幅をとって論じている「被害感情」について、その充足が偶然的な「反射的利益」にすぎないとされてしまうと、ここ20年程度の「被害感情」の充足に向けた制度改革被害者参加制度など)は一体どのように位置づけられるのかという疑問を抱かざるをえない。著者はかつての「被害者不在」の刑罰理論を支持するのだろうか?

 もちろんそんなことはないだろう。たとえば106-107頁で印象深く述べられている「二重評価の禁止」の箇所では、刑罰には「平均化された被害感情」があらかじめカウントされているのだという。なので、個別の被害感情を具体的な量刑判断において考慮に入れるとしたら、それは同じものを二重に評価することになって許されない。個別の被害感情が考慮に入ってくるのは、平均から大きく逸脱するような特殊な事情がある場合だけである。ここで「平均」という言葉を用いると、たとえばまったく被害感情(とりわけ処罰感情)を持たない被害者がいた場合に刑罰を軽くすべきだといった話になってしまいそうだが、おそらくそれは意図されていないはずだ。だから「抽象化された被害感情」というほうがより的確な表現であるように私には思われる。ヘーゲル的刑罰論において考慮される被害感情は、当該法規範体系において重要なものと位置づけられた抽象的な考慮要素であって、現実の被害者の被害感情の程度から直接の影響を受けるわけではない。規範に組み込まれる形で抽象化された被害感情に大きな影響を与えうるような例外的な場合のみ、具体的な被害感情が考慮要素として入ってくる。本書であげられている例だと、光市母子殺害事件での苛烈な処罰感情とそれに対する社会的支持の広がりがそれにあたる。

2. ヘーゲル的「規範」は現実をどのように取り込むのか?

 こうした読み方が正しいとすれば、法規範と現実との接点が見えてくる。本書で詳細に述べられている、近年の重罰化・厳罰化志向の高まりは、少なくとも犯罪類型によっては、予防という観点からの科学的根拠を有するものでは必ずしもないのだが、そこで異質な他者や「リスク」要因を問答無用に排除するための「切り札」として「被害感情」がせり上がってきた。社会が複雑化し、犯罪の原因をたとえば経済状況のような理解しやすいものに還元できなくなった時代に、人々がリスク要因の排除のために頼るようになったのが、一方で犯人の「自己責任」、他方で「被害感情」だったのである(死刑存廃論でも「被害感情」が「存置派」の最大の根拠となったのはここ20~30年のことだろう)。社会意識のこうした変化はヘーゲル的な意味で実在する「規範」にも組み込まれていく。(筆者の言葉でいう)「平均化された被害感情」が刑罰の根拠としてカウントされるというのは、そうした「規範化」のダイナミズムとして理解するのが整合的であるだろう。

 そうすると、現実の被害感情の充足が「規範保護型応報刑」においては偶然的な「反射的利益」であるという著者の記述は、いささか整合性を欠くもののように思われる。被害感情は社会意識の変化を通じて「規範」へと包摂されていく。なので、その規範を保護する応報刑は、現実の被害感情を間接的にではあるが実際に保護していると考えるべきではないかと思われる。

 こうした読み方は、あくまで本書を整合的に読むならばそうなるのではないか、ということであり、新ヘーゲル主義の応報刑論とどこまで整合的かという問題は別途考えるべき問題だろうと思われる(それを検討する能力は私にはない)。本書にあえて注文をつけるとすれば、そうした社会意識の変化がヘーゲル的な意味での規範へとどのようにして包摂されていくのか、ということの記述がもっとなされれば、本書全体がより有機的に、また穏当な結論を導くものとなるのではないか、と思う。

3. 死刑は他の刑罰とどれだけ異なるのか?

 なお、本書の題名となっている「死刑」については、本書でもある程度の紙幅をとって現状の制度のあり方が述べられているし、勉強になる箇所も多かった。ただ、本書の理論的な核となっている「規範保護型応報刑論」にとって、死刑が何か特別な意味付けを与えられるようには思えなかった。死刑も含む、刑罰一般の根拠論として展開されているように思われたからである。ここから「死刑存廃論」について具体的な示唆を得ることは困難だろう。もちろん、本書の目的はそこにはない。我々の社会が保護しようとしている「規範」とはどのようなものか、そこに「被害感情」などはどのように入ってくるか、ということを考えるための視点をもたらしたという点で、本書の功績は十分にある。ただ、『死刑制度と刑罰理論』という題名を冠する以上、他の刑罰に比べての死刑の「規範的」特殊性について論じる箇所がもっと多くてもよかったのではないかということは、決して不当な要望ではないだろう。問いを明確にすると、ヘーゲル的な「規範」において死刑の占めるべき位置はあるのか、それは社会の意識変化によってどのように変わったり変わらなかったりするのか、ということである。

 正確を期すと、167頁前後に多少の記述があり、ここはむしろヘーゲル的というよりはカント的であるようだ。もちろん両者の理論には一定の関係があるし、ヘーゲル的刑罰理論だけで一貫させなければならないというわけではもちろんない。本書に混淆的な性格があるとすればそれは著者のオリジナリティにもなりうる。今後の理論展開をおおいに期待する。

通常の3倍で法学部を楽しもう

 私は映画が好きでよく観ています。本学(愛知大学名古屋キャンパス)はお隣に映画館があるという最高の立地なので、そこも楽しみです。

 映画というのは「コスパのいい」趣味で、1000本ぐらい観れば評論家みたいなことがすぐ語れるようになります。ここで「1000本」というのは私がいま考えた適当な数字ですが、昔だったらたった1000本でえらそうなこと言うな、1万本ぐらい観てから出直してこい、みたいにマウンティングする「シネフィル」という怖い人もいました。本数勝負になるとヒマな人が勝つので、あまり面白くないですね。とりあえず1000本で十分でしょうが、それでも多すぎると思われるかもしれません。映画館で全部観ていたら1回1500円としても150万円もかかってしまいます。もちろん、そこまでする必要はなく、今では Netflix とか Hulu の配信サービスで安く観ることができます。ネット配信のよいところは、倍速再生ができることです。私はだいたい3倍速で観ているので、映画1本が30分ぐらいです。そうすると1日3本ぐらい観ることもそんなに難しくないので、1年で1000本がすぐに達成できます。

 何をおかしなことを言ってるんだ?と思われた方も多いかもしれません。せっかくの作品をそんなふうに猛スピードで消費するとか、それで本当に鑑賞したといえるのかと。しかし、名作は3倍速でも十分面白いと思いますし、どうしても気になるところがあれば戻ってゆっくり観ればいいのです。みんな同じスピードで観るほうがなんだか同調圧力みたいで気持ち悪いのであって、それぞれ好きなスピードで観ればいいではないですか。私だって、映画館で観るときにはマナーを守って他の観客と同じスピードで観ているんですよ。1人で観るときぐらい自由でいいでしょう!

 この話で何が言いたいかというと、現代はそれぐらい、情報を処理するスピードが上がっているということです。ついでにいうと私は将棋も好きなんですが、かつての大名人である羽生善治さんは、現代の将棋界では三段までは「高速道路」があると述べています。三段というのは「プロのちょっと手前」です。そこまでであれば、最新の情報をAIとか使いながら猛烈に摂取すれば、案外すぐ到達できてしまうということです。映画評論だってそうだし、似たような状況はいろんな分野で起こっています。現代は「プロのちょっと手前」に行くのがわりと簡単な時代になっています。いやもちろん将棋の奨励会三段なんてむちゃくちゃ難しいですが、そこはもののたとえで。

 学生のみなさんは、大学では好きなことを自由にやれとよく言われていることでしょう。好きなことがある方はそうしてください。でもたぶん、好きなことなんてよくわからない、という方のほうが多いと思います。そういう方は、映画でもなんでもいいので情報を猛スピードで摂取してみてください。どんなことでも3倍速で1年やれば相当なものだし、何が好きなのかもわかってくるでしょう。

 これは勉強でもそうです。岩波文庫の分厚い古典にいきなりチャレンジして、1日に数ページしか読めなくて、ああ深いなァ~、と思っても後には何も残りません。そんな時間があったら、新書を猛烈に読むほうがずっとマシです。今だったら、世界中の学術論文がインターネットで読めるので、それをがんがん読んでいくのもいいでしょう。いやいや外国語でそんなの読めないよ、と思われるかもしれませんが、最近は DeepL など、いい翻訳ソフトがあるので、おおいに利用するとよいです。――もちろん、そんな勉強の仕方では細かいところがすっ飛ばされてしまうので、正確な理解には至りません。それでも、量は質に転化します。「プロのちょっと手前」には到達できてしまうのです。

 本当にそんなんでいいのか?と不安に思われた方も多いことでしょう。でも、この方法で到達できるのはあくまで「プロのちょっと手前」です。仕事としてその知識を使いこなせる「プロ」になるには、あと一歩が必要です。ちょっと手前まで来て初めて、その一歩が果てしなく大きいことに気づきます。というか、そこがスタート地点です。そこで大学の授業を見つめ直してもらえると、その次の一歩を踏み出すための、案外よくできた材料がたくさん提供されていることがわかります。卒業して仕事していくなかで大学の便利さがよくわかった、と言ってくれる方は多いんですが、それではもったいない。みなさんは3倍速で走って、在学中に気づいてもらいたいと思います。

 

<研究の一般的内容、学問的性格>

 「法哲学」を研究しています。サンデル先生の「白熱教室」とかで有名になった分野で、「正義とは?」「法とは?」などと本気で問いかけています。変なことを考えるのが仕事なので、↑↑ みたいなことを平気で言います。授業もこんな感じです。

 でもあくまで「法」哲学ですので、着地点は「法」だと思っています。いくら面白おかしいことを考えても、法学部での勉強に役立たなければ仕方ありません。法律学で出てくるいろんな論点について、ちょっと変わった角度からゆさぶってみます。それによって、まだまだ考えることがあるんだなあ、法ってすごいなあ、と思ってもらうのが法哲学の役割です。

 

 関連する文章にこんなのがあります。法律家を目指す人以外にも、法哲学とか何の役に立つの?と思ったことのある方向けです。ぜひどうぞ。

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女性映画は何から離反するのか?――アニエス・ヴァルダとケリー・ライカート

一、映画史が排除した起源

 映画には明確な起源があるらしい。一八九五年、フランスのリュミエール兄弟が初めて複数の観客に向けて動く映像の公開を行った。伝統的な映画史の記述はそこから始まる。それに先立つ一八九三年のトーマス・エジソンのキネトスコープ(一人で覗き込むもの)はまだしも、リュミエール兄弟よりも一ヶ月ほど早くベルリンで映画上映をスクラダノウスキー兄弟の功績はもはや忘れられている。

 黎明期の重要な人物としてもう一人、フランスのアリス・ギイ(一八七三~一九六八)がいる。単なる記録映像ではなく、何らかの演出によって物語を与えられた「劇映画」の始まりはリュミエール兄弟の「水をかけられた散水夫」(一八九五年)であるという公式の歴史があるが、しかし同時期にアリス・ギイの監督による「キャベツの妖精」という作品も制作された。ギイはその後、一九二〇年頃までに約七〇〇本の作品を監督し、複雑な物語を表現する劇映画というジャンルの先駆者となった。ここで劇映画監督の本当の最初が誰であったかということは大きな問題ではない。リュミエール兄弟、あるいはその後のジョルジュ・メリエスを先駆者とする、つまりギイという女性を排除した映画史が語られたことが罪深いといえる。ギイは一九五五年、八〇歳でフランス・レジオンドヌール勲章を受賞したものの、その映画史上の功績が論じられるようになったのはせいぜい一九九〇年代以降のことであった。しかし現在でもその扱いは不当に小さい。二〇二一年時点では、日本語版ウィキペディアにはギイの項目さえない。

 

二、ヴァルダ、「女性映画」の多様性

 第二次世界大戦後の重要人物として外せないのは、フランスのアニエス・ヴァルダ(一九二八~二〇一九)である。ヴァルダの長編デビュー作『ラ・ポワント・クールト』(仏、一九五五年)はフランス南部の小さな港町の人々を描いた小品である。下層の人々の生活を映し出すイタリア・ネオレアリズモ風のパートと、不毛な会話を繰り返す夫婦を描いたヌーヴォー・ロマン風のパートが無関係に同時進行する奇妙な構成は、現在では映画運動「ヌーヴェル・ヴァーグ」の始まりとみなされている。

 もっとも、ヌーヴェル・ヴァーグの正史では一九五九年のジャン=リュック・ゴダール勝手にしやがれ』やフランソワ・トリュフォー大人は判ってくれない』が画期的な作品とされ、『ラ・ポワント・クールト』の位置付けは後の評価による。ギイと同様、女性を排除した映画史が語られたことになる。しかしヴァルダは『5時から7時までのクレオ』(仏、一九六一年)、『幸福』(仏、一九六五年)といった重要作品を発表したこともあって、ヌーヴェル・ヴァーグのうち、理知的なドキュメンタリー風作品を特徴とする「セーヌ左岸派」の重要人物としての地位を確固たるものとした――さらに、後に「ヌーヴェル・ヴァーグの祖母」という、いくぶん問題のある呼称もつけられた。

 ヴァルダは『歌う女・歌わない女』(仏、一九七七年)のような戦闘的なフェミニスト映画も撮ってはいるが、自身が「フェミニスト」あるいは「女性監督」として一括りにされることには戸惑いを表明している[1]。女性監督たちの作品はそれぞれに多様な魅力にあふれている。それはヴァルダ自身の多彩な作品が何よりも表している。「女性映画」を語るとき「女性ならではの繊細な感性」といったものを持ち出すのは陳腐であるのみならず、男性中心に作られてきた映画の作法から女性を周辺化することにほかならない

 二〇一七年、アメリカの著名映画プロデューサー、ハーヴェイ・ワインスタインが女優たちに対して長年行ってきた性暴力が告発されたことをきっかけに、全世界的な「#MeToo」運動が起こった。映画業界がそれだけ男性中心の性差別的なシステムであることはアメリカだけでなく、フランスでも問題になった。二〇一八年のカンヌ映画祭でヴァルダは「女性監督」としての象徴的役割を引き受け、映画制作における男女の格差是正を訴えるデモの先頭に立った。この映画祭の最高賞パルム・ドールを受賞した女性監督はジェーン・カンピオン(『ピアノ・レッスン』、一九九三年)、そしてヴァルダの二人しかいなかった。カンピオンは陳凱歌との共同受賞、ヴァルダは長年の功績が称えられた名誉賞である。二〇二一年になってやっと、ジュリア・デュクルノー監督が『チタン』で単独受賞を果たす。

 

三、ライカートは『スター・ウォーズ』を観ない

 この数十年、女性の映画監督は世界中で活躍している[2]。本稿では最後に、近年の重要監督としてケリー・ライカート(米、一九六四~)を取り上げたい。ライカートは『リバー・オブ・グラス』(米、一九九四年)でデビューし、その後『オールド・ジョイ』(米、二〇〇六年)、『ウェンディ&ルーシー』(米、二〇〇八年)、『ミークス・カットオフ』(米、二〇一〇年)などの傑作を世に送り出してきた。

 ライカートの作品はその徹底したミニマリズムが特徴である。何気なく撮られているような横移動があまりにもしっかりと「決まって」いることに、構図のアートとしての映画の快楽がある。しかし逆にいえばそれだけだ。たいした事件はまったく起きない。ジャンルとしてはアメリカ映画に典型的な、そして「男性的」とみなされてきたクライム・アクション、ロードムービー、そして西部劇だが、それにふさわしい物語をまったく作らないという「失敗」によって、ジャンルの骨格だけを浮き彫りにしてみせる。

 こうしたライカートの映画の「女性的なもの」がどのようなものか、即断はできない。ただ、注目すべき事情が一点ある。デビュー作『リバー・オブ・グラス』ではいまだ雑多な要素がその世界を彩っていたが、十二年のブランク(原因は女性監督であるがゆえの資金集めの難しさだったという)を経た後の『オールド・ジョイ』以降、徹底的に無駄が削ぎ落とされた映画になっていく。それは予算的な制約のためであり、またもちろん、映画的な洗練でもあるだろう。しかしライカートは各種のインタビューで[3]、興味深いことをほのめかしている。初期の映画を作る過程では、多くの男性スタッフが年若き女性監督にあれこれと「映画の作法」を講釈してきたようだ。その煩わしさから、信頼できる少数のスタッフのみに絞り込んでいったと。ライカートのミニマリズムはその結果でもある。

 男性が若い女性にあれこれ「教えたがる」ことを「マンスプレイニング」というが、それは単に知識を利用した支配欲の表れではない。何が教える価値のある知識なのかを男性が構築する行為である。ライカートは『スター・ウォーズ』を観たことがないというが、それは権威的で男性的な映画作法の象徴として捉えられている。ライカートがそれを拒否していったことは、男性的に構築された知の組み換えであった。多彩な「女性映画」に何か共通のものがあるとすれば、まずはそうした知のあり方からの離反にあるだろう。

 

本稿は宇都宮市を中心とする映画サークル『映画好包』第1号(2021年10月)に掲載したものである(転載許諾済)。

 

[1] アニエス・ヴァルダ(相川千尋訳)「トロントについての覚え書き」『シモーヌ vol.4』(現代書館、二〇二一年[原著は一九七四年])

[2] 二〇二一年五月、うさぎやTSUTAYA宇都宮駅東口店にて、筆者は最近の世界の女性監督作品十本のセレクションを行った。次のブログ記事を参照。

https://tkira26.hateblo.jp/entry/2021/05/03/173711

[3] 例として、”Kelly Reichardt: the quiet American,” Sight & Sounds, 25 May 2021

https://www.bfi.org.uk/sight-and-sound/interviews/kelly-reichardt-first-cow

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オンライン授業は大学を社会に開く

 『下野教育』767号に書いた文章の転載です(許可済)。

 PDF版はこちら

 

一、アフター・コロナ時代の大学教育へ

 新型コロナウイルスの世界的パンデミックは、人々の生活を大きく変えた。本稿執筆時点(2020年4月)でも感染終息の目処は立っていないが、今後、ワクチンの普及によりこの騒ぎが収まったとしても、私たちはそれ以前と同じ生活を取り戻すことはないだろう。「アフター・コロナ」の世界は、この延長に考えられなければならない。

 私は大学の法律学担当教員だが、本稿では、大学教育を中心に、新しい生活様式の可能性をできるだけ積極的に考えてみたいと思う。なお、本稿の一部は既発表の論考「「現在」の大学に触れよう」(『下野新聞』2020年11月8日朝刊)を利用している。 

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世界の女性映画DVDセレクション @TSUTAYA 宇都宮駅東口店

うさぎやTSUTAYA宇都宮駅東口店 にて、2021年5~6月にレンタルDVDセレクションコーナーを作っていただきました。世界の女性映画監督特集!ということで10本選んでいます。できればみなさん、現地でご覧になってレンタルしていただければと思いますが、紹介文をこちらにも載せておきます。

  ※ レンタルDVD在庫ありのものからの一般向けセレクトです。

 

 

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