tkira26's diary

吉良貴之@法哲学です。自己紹介はこちらから: http://jj57010.web.fc2.com

法哲学関連の国際ジャーナル

 法哲学を専門にしている、英語の国際ジャーナルには以下のようなものがある。ひとまずこれらが、いわゆる「トップジャーナル」といってよいものだろう。

 これはそのまま、私がよく読んでいるジャーナルの順番になっている。ジャーナルにはそれぞれ、だいたいの特徴がある。

各ジャーナルの特徴

  • Ratio Juris 法哲学法思想史全般を扱っており、掲載されている論文も20ページ前後と短いものが多い。英語ではあるが、ドイツ語圏の議論をテーマにする論文も多いことは特色だろう。この分野の世界的なトレンドをざっと押さえておくのに便利なジャーナルといえる。ただ、短いこともあってか、論文の水準はさまざまである。
  • Oxford Journal of Legal Studies は、私の見るところ、現在、法哲学分野で最も水準の高いジャーナルだと思う。ただ、テーマはある程度絞られていて、いわゆる法概念論とか一般法理学といったもの、もっと特定的にいえば H. L. A. ハートの議論を何らかの形で受け継ぐものが多いように見受けられる。しかしその一方、実定法の基礎理論であることを目指した論文が多く載っていることも大きな特色である。
  • Law and Philosophy 法哲学分野を広くカバーするジャーナルであり、一論文あたりの分量も多いことから、しっかりした内容のものが載っているように思う。このジャーナルで「はずれ」の論文を見ることはあまりない。ときどきなされている特集も充実しているものが多い。また、書評を多めに載せているので、重要な新刊書籍をチェックするのにもよい。
  • Legal Theory かつて最も高水準といわれていたが、最近はかなり雑多に広がっているように思われる。正直なところ、現在では面白そうな論文があればつまみ食いで読むぐらいでよいと思う。どのジャーナルでもそうだが、編集委員会のメンバーの移り変わりなどによって、同じジャーナルでも性格がかなり異なってくる
  • ARSP: Archiv für Rechts- und Sozialphilosophie は、法哲学分野の国際学会である「法哲学・社会哲学国際学会連合(IVR: The International Association for the Philosophy of Law and Social Philosophy)」のジャーナル。英語だけでなく、ドイツ語ほか、いくつかの言語の論文が載っている。世界レベルでの法哲学の多様性がよくわかる。
  • JurisprudenceCanadian Journal of Law and JurisprudenceJournal of Legal Philosophy あたりは、私としては毎号の目次を見て、気になるものがあれば読むという程度である。どういう傾向や特色があるのか、それほどはっきりしないという印象をもっている(だからいけないというわけでもない)。

 大学院の修士課程の院生や、これから大学院入試で何か専門的なテーマを決めたいけれど何を手がかりにすればよいかわからない、という方には、上記のうちだと Law and Philosophy  Legal Theory あたりはわりと具体的というか実践的なテーマの論文が多いので、参考になるだろう(英語の勉強も兼ねて)。ピンときた言葉があれば Stanford Encyclopedia of Philosophy でどんな議論があるかを概観して、そこに載っている文献をたどっていけば(そして下記の隣接分野も含めて各ジャーナル内でその言葉を検索して読んでいけば)論じるべきことが見えてくると思う。

 私のときは少なくとも院試レベルで英語文献をがんがん読むことは求められていなかったし、今でもたぶんそこまでではない(まずは日本語のしっかりした教科書を理解できるようになるのが先)。まあでもだんだんそういうのがスタンダードになってくるのは確実なので、できるだけ慣れておくのがよいです。

 この他にもいろいろなジャーナルがあるが、私がある程度以上に定期的にチェックしているのはこれぐらいである。この他、Law & Literature などのように、より特化したテーマのジャーナルもたくさんある。またもちろん、ドイツ語やフランス語にも重要なジャーナルがあるが、私はときどき眺める程度である(フランス語だとたとえば、Revue interdisciplinaire d'études juridiques など)。

アメリカのロージャーナル

 重要なこととして、アメリカのロージャーナルにももちろん、法哲学分野の重要な論文が多く掲載されている。ただ、こちらはジャーナルの数が多すぎて、法哲学関連は埋もれがちなので、私はあまりチェックできていない。

 アメリカのロージャーナルの特徴的な査読システム(異様に細かい参照が要求される)の結果なのだろうが、長い論文になりがちということもある。これは判例分析が必要な実定法分野の論文では重要かもしれないが、法哲学分野の論文に適したあり方かどうかというとよくわからない(公平のために、ロナルド・ドゥオーキンの論文はアメリカのロージャーナルによく載っていたことを付け加えておこう)。少なくとも私は、読むのがものすごくしんどい。他の論文の参考文献からたどったり、著者名などから判断して、重要そうなものを読んでいくぐらいになっている。

ジャーナル論文の位置付け

 参考になるものとして、Brian Leiter のブログ記事 "Legal Philosophy Journals"(2006年10月)がある。相場観としてはだいたい、私が上に書いたようなこととそれほど変わらないと思う。ただ、十数年が経過して、事情が変わったところも多いだろう。おそらくかなり多くの学問分野に共通することだが、この20年ぐらいで、国際ジャーナル論文の研究上の重要性が飛躍的に高まっている。各ジャーナルもそれに応じて変わっている最中である。仲間内の水準の低い論文を載せているものはすぐに読まれなくなる。

 かつてであれば、優れた論文はやがて書籍にまとめられるだろうから「最新の流行」をそうそう追いかけるものではない、といったことも言われていた。しかし、もはやそれはあてはまらなくなりつつある。もちろん、書籍としてまとまったものをじっくり読むことも大事だが、それだけでは下手したら十年単位のタイムラグが生じてしまう。流行を追うのは哲学的な態度ではない、などといっていると致命的な見落としが生じかねない。最先端の熾烈な競争も一応はチェックするのがよいだろう。

隣接分野のジャーナル

 ここで紹介したジャーナルは法哲学分野といっても、とりわけ法概念論・一般法理学、および実定法基礎理論が中心となっている。法哲学にはもちろん、正義論・法価値論というもう一つの大きな分野がある。そうした論文も今回のジャーナルにある程度は載っているが、研究を進めるうえでは当然、政治哲学、道徳哲学、倫理学といった分野を見ていく必要がある。

 私が定期的にチェックしているジャーナルは Philosophy and Public AffairsEthicsUtilitasEuropean Journal of Political Theory といったあたりになるが、隣接分野も含めると膨大な数になってくる。同じく Brian Leiter のブログ記事 "Specialist journals that publish the best articles in moral and/or political philosophy: the results"(2022年8月) に便利な一覧が載っているので、そちらを参照してもらうのがよいだろう。こちらは定期的に更新されている。

オンラインデータベースの格差

 今回紹介したジャーナルはほとんどオンラインで読むことになる。その場合、所属大学にどのデータベースの契約があるかによって、論文へのアクセスが大きく変わってくる。上述のジャーナルはおおむね、Wiley や Springer、および Oxford と Cambridge の大学出版会のデータベースで読むことができる。このあたりは比較的多くの大学で契約があると思われる。しかし、たとえば SAGE、Taylor & Francis、また Chicago 大学出版会といったデータベースになると、日本の大学での契約数は少なくなってくる(JSTOR で読むことができるが数年遅れ、といったこともある)。法学系だと Hein は重要だが、契約している大学はあまり多くない。

 こういったデータベースの格差は今後、より厳しいものになってくるだろう。大学を超えた契約のあり方を考えるなど、早急の対策が必要である。

 

井田良『死刑制度と刑罰理論』(岩波書店、2022年)

 本書をゼミで読んでいる。いわゆる死刑存廃論の頻出の論点はさほど扱われず(最後の補論で多少の言及がある程度)、メインの内容は、① 刑罰は何のためにあるのかという根本的な問題の考察と、② 近年の日本での重罰化・厳罰化、そして「被害感情」の重視といったことがなぜ起こっているかということの分析である。

 著者の立場は、② についてはおおむねオーソドックスな犯罪社会学をなぞるものといえる。しかし随所に刑法の具体的な話(日独の理論動向や、制度のあり方)が補われるので、それが類書にないオリジナリティを本書に与えている。他方、① は著者独自の立場、つまり新ヘーゲル主義的な「応報刑ルネサンス」をふまえた「規範保護型応報刑論」といったものである。これは慎重な検討を要する主張である。

 私の率直な感想としては、②についてはさらなる議論はもちろん可能なものの、大きな異論はない。①については、一貫した理論ではあるものの、かなり特異な規範存在論をとっているため、にわかに賛成はできない。とはいっても私は刑法を専門的に勉強したことはないので、以下、いくつかの外在的な疑問を述べるにとどまる。本書は少なくとも値段から判断するに、ある程度は一般読書人向けの内容でもあるから、外在的なコメントを述べることにも一定の意義があるだろう。しかしもちろん、私が刑法学について誤解をしているのであれば、専門外だと言い訳するつもりはまったくない。

1. 規範保護型応報刑論:「被害者」とは誰なのか?

 本書は通説的な(?)「実害対応型応報刑論」を批判し、新ヘーゲル主義的な「規範保護型応報刑論」を刑罰論の基礎に据える。この議論のドイツにおける展開を私はほとんど追えていないが、飯島暢『自由の普遍的保障と哲学的刑法理論』(成文堂、2016年)が見事に整理しているので、私の理解ももっぱらそれに基づく。

 近年のドイツ刑法学での「応報刑ルネサンス」にはカント派とヘーゲル派の流れがあり、一般的にいわれる「応報刑論」はカント派の厳格主義に近いものといえるだろう。それに対し、著者が好意的に援用するヘーゲル派の議論はかなり直観に反するものである。以下、乱暴を承知でまとめる。「応報」というからにはその前に何らかの加害があり、その被害者がいる。その回復として応報がある。そこで「被害者」とは誰か。カント派的にはもちろん加害を受けた当人、本書の主題である「死刑」が問題になるような場面についてより正確にいえば、当人の「人格」ということになる。応報とは人格への加害に対するものであり、とりわけ殺人は殺人者本人の人格によってのみ、つまり死刑によってしか釣り合わせることができない。人格は人格としか釣り合わない。他の刑罰による代替は殺人によって失われた人格を何か別のものと釣り合わせることであり、それは人格の手段化という、カント的倫理への重大な違反である。カントの評判の悪い死刑肯定論はこういう筋道になっている。

 それに対しヘーゲル派の場合、「被害者」は誰なのか。これもわかりにくいが、現実の犯罪被害者ではないし、カント的に措定されるような人格でもない。端的にいえば「法規範」である。法規範の否定が犯罪であり、それを国家権力がさらに否定し返す否定の否定が刑罰、つまり応報刑である。犯罪者は具体的な誰かに対して罪を犯したから罰せられるのではない。法規範を否定したから罰せられるのである。それによって現実の被害者が救済されることもあるが、それはあくまで偶然的な、反射的利益にすぎない。いわゆる「被害者なき犯罪」であっても、また天涯孤独の者の殺人であっても、そうした事情はヘーゲル的刑罰論にあっては無関係である。「被害者」はあくまで国家の法規範なのだ。この点ではカント風の「世界が滅ぶとも正義をしてなさしめよ」という厳格主義と――カントでは「人格」、ヘーゲルでは「規範」というように「被害者」は異なるが――外形的には接近してくる。

 さて、こうしたヘーゲル主義的な「規範保護型応報刑論」は、かなり特異な規範存在論であるといわざるをえないが、確かに理論的な一貫性はある。ただ、本書がかなりの紙幅をとって論じている「被害感情」について、その充足が偶然的な「反射的利益」にすぎないとされてしまうと、ここ20年程度の「被害感情」の充足に向けた制度改革被害者参加制度など)は一体どのように位置づけられるのかという疑問を抱かざるをえない。著者はかつての「被害者不在」の刑罰理論を支持するのだろうか?

 もちろんそんなことはないだろう。たとえば106-107頁で印象深く述べられている「二重評価の禁止」の箇所では、刑罰には「平均化された被害感情」があらかじめカウントされているのだという。なので、個別の被害感情を具体的な量刑判断において考慮に入れるとしたら、それは同じものを二重に評価することになって許されない。個別の被害感情が考慮に入ってくるのは、平均から大きく逸脱するような特殊な事情がある場合だけである。ここで「平均」という言葉を用いると、たとえばまったく被害感情(とりわけ処罰感情)を持たない被害者がいた場合に刑罰を軽くすべきだといった話になってしまいそうだが、おそらくそれは意図されていないはずだ。だから「抽象化された被害感情」というほうがより的確な表現であるように私には思われる。ヘーゲル的刑罰論において考慮される被害感情は、当該法規範体系において重要なものと位置づけられた抽象的な考慮要素であって、現実の被害者の被害感情の程度から直接の影響を受けるわけではない。規範に組み込まれる形で抽象化された被害感情に大きな影響を与えうるような例外的な場合のみ、具体的な被害感情が考慮要素として入ってくる。本書であげられている例だと、光市母子殺害事件での苛烈な処罰感情とそれに対する社会的支持の広がりがそれにあたる。

2. ヘーゲル的「規範」は現実をどのように取り込むのか?

 こうした読み方が正しいとすれば、法規範と現実との接点が見えてくる。本書で詳細に述べられている、近年の重罰化・厳罰化志向の高まりは、少なくとも犯罪類型によっては、予防という観点からの科学的根拠を有するものでは必ずしもないのだが、そこで異質な他者や「リスク」要因を問答無用に排除するための「切り札」として「被害感情」がせり上がってきた。社会が複雑化し、犯罪の原因をたとえば経済状況のような理解しやすいものに還元できなくなった時代に、人々がリスク要因の排除のために頼るようになったのが、一方で犯人の「自己責任」、他方で「被害感情」だったのである(死刑存廃論でも「被害感情」が「存置派」の最大の根拠となったのはここ20~30年のことだろう)。社会意識のこうした変化はヘーゲル的な意味で実在する「規範」にも組み込まれていく。(筆者の言葉でいう)「平均化された被害感情」が刑罰の根拠としてカウントされるというのは、そうした「規範化」のダイナミズムとして理解するのが整合的であるだろう。

 そうすると、現実の被害感情の充足が「規範保護型応報刑」においては偶然的な「反射的利益」であるという著者の記述は、いささか整合性を欠くもののように思われる。被害感情は社会意識の変化を通じて「規範」へと包摂されていく。なので、その規範を保護する応報刑は、現実の被害感情を間接的にではあるが実際に保護していると考えるべきではないかと思われる。

 こうした読み方は、あくまで本書を整合的に読むならばそうなるのではないか、ということであり、新ヘーゲル主義の応報刑論とどこまで整合的かという問題は別途考えるべき問題だろうと思われる(それを検討する能力は私にはない)。本書にあえて注文をつけるとすれば、そうした社会意識の変化がヘーゲル的な意味での規範へとどのようにして包摂されていくのか、ということの記述がもっとなされれば、本書全体がより有機的に、また穏当な結論を導くものとなるのではないか、と思う。

3. 死刑は他の刑罰とどれだけ異なるのか?

 なお、本書の題名となっている「死刑」については、本書でもある程度の紙幅をとって現状の制度のあり方が述べられているし、勉強になる箇所も多かった。ただ、本書の理論的な核となっている「規範保護型応報刑論」にとって、死刑が何か特別な意味付けを与えられるようには思えなかった。死刑も含む、刑罰一般の根拠論として展開されているように思われたからである。ここから「死刑存廃論」について具体的な示唆を得ることは困難だろう。もちろん、本書の目的はそこにはない。我々の社会が保護しようとしている「規範」とはどのようなものか、そこに「被害感情」などはどのように入ってくるか、ということを考えるための視点をもたらしたという点で、本書の功績は十分にある。ただ、『死刑制度と刑罰理論』という題名を冠する以上、他の刑罰に比べての死刑の「規範的」特殊性について論じる箇所がもっと多くてもよかったのではないかということは、決して不当な要望ではないだろう。問いを明確にすると、ヘーゲル的な「規範」において死刑の占めるべき位置はあるのか、それは社会の意識変化によってどのように変わったり変わらなかったりするのか、ということである。

 正確を期すと、167頁前後に多少の記述があり、ここはむしろヘーゲル的というよりはカント的であるようだ。もちろん両者の理論には一定の関係があるし、ヘーゲル的刑罰理論だけで一貫させなければならないというわけではもちろんない。本書に混淆的な性格があるとすればそれは著者のオリジナリティにもなりうる。今後の理論展開をおおいに期待する。

通常の3倍で法学部を楽しもう

 私は映画が好きでよく観ています。本学(愛知大学名古屋キャンパス)はお隣に映画館があるという最高の立地なので、そこも楽しみです。

 映画というのは「コスパのいい」趣味で、1000本ぐらい観れば評論家みたいなことがすぐ語れるようになります。ここで「1000本」というのは私がいま考えた適当な数字ですが、昔だったらたった1000本でえらそうなこと言うな、1万本ぐらい観てから出直してこい、みたいにマウンティングする「シネフィル」という怖い人もいました。本数勝負になるとヒマな人が勝つので、あまり面白くないですね。とりあえず1000本で十分でしょうが、それでも多すぎると思われるかもしれません。映画館で全部観ていたら1回1500円としても150万円もかかってしまいます。もちろん、そこまでする必要はなく、今では Netflix とか Hulu の配信サービスで安く観ることができます。ネット配信のよいところは、倍速再生ができることです。私はだいたい3倍速で観ているので、映画1本が30分ぐらいです。そうすると1日3本ぐらい観ることもそんなに難しくないので、1年で1000本がすぐに達成できます。

 何をおかしなことを言ってるんだ?と思われた方も多いかもしれません。せっかくの作品をそんなふうに猛スピードで消費するとか、それで本当に鑑賞したといえるのかと。しかし、名作は3倍速でも十分面白いと思いますし、どうしても気になるところがあれば戻ってゆっくり観ればいいのです。みんな同じスピードで観るほうがなんだか同調圧力みたいで気持ち悪いのであって、それぞれ好きなスピードで観ればいいではないですか。私だって、映画館で観るときにはマナーを守って他の観客と同じスピードで観ているんですよ。1人で観るときぐらい自由でいいでしょう!

 この話で何が言いたいかというと、現代はそれぐらい、情報を処理するスピードが上がっているということです。私は将棋も好きなんですが、かつての大名人である羽生善治さんは、現代の将棋界では三段までは「高速道路」があると述べています。三段というのは「プロのちょっと手前」です。そこまでであれば、最新の情報をAIとか使いながら猛烈に摂取すれば、案外すぐ到達できてしまうということです。映画評論だってそうだし、似たような状況はいろんな分野で起こっています。現代は「プロのちょっと手前」に行くのがわりと簡単な時代になっています*1

 学生のみなさんは、大学では好きなことを自由にやれとよく言われていることでしょう。好きなことがある方はそうしてください。でもたぶん、好きなことなんてよくわからない、という方のほうが多いと思います。そういう方は、映画でもなんでもいいので情報を猛スピードで摂取してみてください。どんなことでも3倍速で1年やれば相当なものだし、何が好きなのかもわかってくるでしょう。

 これは勉強でもそうです。岩波文庫の分厚い古典にいきなりチャレンジして、1日に数ページしか読めなくて、ああ深いなあ~、と思っても後には何も残りません。そんな時間があったら、新書を猛烈に読むほうがずっとマシです。今だったら、世界中の学術論文がインターネットで読めるので、それをがんがん読んでいくのもいいでしょう。いやいや外国語でそんなの読めないよ、と思われるかもしれませんが、最近は DeepL など、いい翻訳ソフトがあるので、おおいに利用するとよいです。――もちろん、そんな勉強の仕方では細かいところがすっ飛ばされてしまうので、正確な理解には至りません。それでも、量は質に転化します。「プロのちょっと手前」には到達できてしまうのです。

 本当にそんなんでいいのか?と不安に思われた方も多いことでしょう。でも、この方法で到達できるのはあくまで「プロのちょっと手前」です。仕事としてその知識を使いこなせる「プロ」になるには、あと一歩が必要です。「ちょっと手前」まで来て初めて、その一歩が果てしなく大きいことに気づきます。というか、そこがスタート地点です。そこで大学の授業を見つめ直してもらえると、その次の一歩を踏み出すための、案外よくできた材料がたくさん提供されていることがわかります。卒業して仕事していくなかで大学の便利さがよくわかった、と言ってくれる方は多いんですが、それではもったいない。みなさんは3倍速で走って、在学中に気づいてもらいたいと思います。

 

<研究の一般的内容、学問的性格>

 「法哲学」を研究しています。サンデル先生の「白熱教室」とかで有名になった分野で、「正義とは?」「法とは?」などと本気で問いかけています。変なことを考えるのが仕事なので、↑↑ みたいなことを平気で言います。授業もこんな感じです。

 でもあくまで「法」哲学ですので、着地点は「法」だと思っています。いくら面白おかしいことを考えても、法学部での勉強に役立たなければ仕方ありません。法律学で出てくるいろんな論点について、ちょっと変わった角度からゆさぶってみます。それによって、まだまだ考えることがあるんだなあ、法ってすごいなあ、と思ってもらうのが法哲学の役割です。

 

 関連する文章にこんなのがあります。法律家を目指す人以外にも、法哲学とか何の役に立つの?と思ったことのある方向けです。ぜひどうぞ。

*1:いやもちろん将棋の奨励会三段なんてむちゃくちゃ難しいですが。

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女性映画は何から離反するのか?――アニエス・ヴァルダとケリー・ライカート

一、映画史が排除した起源

 映画には明確な起源があるらしい。一八九五年、フランスのリュミエール兄弟が初めて複数の観客に向けて動く映像の公開を行った。伝統的な映画史の記述はそこから始まる。それに先立つ一八九三年のトーマス・エジソンのキネトスコープ(一人で覗き込むもの)はまだしも、リュミエール兄弟よりも一ヶ月ほど早くベルリンで映画上映をスクラダノウスキー兄弟の功績はもはや忘れられている。

 黎明期の重要な人物としてもう一人、フランスのアリス・ギイ(一八七三~一九六八)がいる。単なる記録映像ではなく、何らかの演出によって物語を与えられた「劇映画」の始まりはリュミエール兄弟の「水をかけられた散水夫」(一八九五年)であるという公式の歴史があるが、しかし同時期にアリス・ギイの監督による「キャベツの妖精」という作品も制作された。ギイはその後、一九二〇年頃までに約七〇〇本の作品を監督し、複雑な物語を表現する劇映画というジャンルの先駆者となった。ここで劇映画監督の本当の最初が誰であったかということは大きな問題ではない。リュミエール兄弟、あるいはその後のジョルジュ・メリエスを先駆者とする、つまりギイという女性を排除した映画史が語られたことが罪深いといえる。ギイは一九五五年、八〇歳でフランス・レジオンドヌール勲章を受賞したものの、その映画史上の功績が論じられるようになったのはせいぜい一九九〇年代以降のことであった。しかし現在でもその扱いは不当に小さい。二〇二一年時点では、日本語版ウィキペディアにはギイの項目さえない。

 

二、ヴァルダ、「女性映画」の多様性

 第二次世界大戦後の重要人物として外せないのは、フランスのアニエス・ヴァルダ(一九二八~二〇一九)である。ヴァルダの長編デビュー作『ラ・ポワント・クールト』(仏、一九五五年)はフランス南部の小さな港町の人々を描いた小品である。下層の人々の生活を映し出すイタリア・ネオレアリズモ風のパートと、不毛な会話を繰り返す夫婦を描いたヌーヴォー・ロマン風のパートが無関係に同時進行する奇妙な構成は、現在では映画運動「ヌーヴェル・ヴァーグ」の始まりとみなされている。

 もっとも、ヌーヴェル・ヴァーグの正史では一九五九年のジャン=リュック・ゴダール勝手にしやがれ』やフランソワ・トリュフォー大人は判ってくれない』が画期的な作品とされ、『ラ・ポワント・クールト』の位置付けは後の評価による。ギイと同様、女性を排除した映画史が語られたことになる。しかしヴァルダは『5時から7時までのクレオ』(仏、一九六一年)、『幸福』(仏、一九六五年)といった重要作品を発表したこともあって、ヌーヴェル・ヴァーグのうち、理知的なドキュメンタリー風作品を特徴とする「セーヌ左岸派」の重要人物としての地位を確固たるものとした――さらに、後に「ヌーヴェル・ヴァーグの祖母」という、いくぶん問題のある呼称もつけられた。

 ヴァルダは『歌う女・歌わない女』(仏、一九七七年)のような戦闘的なフェミニスト映画も撮ってはいるが、自身が「フェミニスト」あるいは「女性監督」として一括りにされることには戸惑いを表明している[1]。女性監督たちの作品はそれぞれに多様な魅力にあふれている。それはヴァルダ自身の多彩な作品が何よりも表している。「女性映画」を語るとき「女性ならではの繊細な感性」といったものを持ち出すのは陳腐であるのみならず、男性中心に作られてきた映画の作法から女性を周辺化することにほかならない

 二〇一七年、アメリカの著名映画プロデューサー、ハーヴェイ・ワインスタインが女優たちに対して長年行ってきた性暴力が告発されたことをきっかけに、全世界的な「#MeToo」運動が起こった。映画業界がそれだけ男性中心の性差別的なシステムであることはアメリカだけでなく、フランスでも問題になった。二〇一八年のカンヌ映画祭でヴァルダは「女性監督」としての象徴的役割を引き受け、映画制作における男女の格差是正を訴えるデモの先頭に立った。この映画祭の最高賞パルム・ドールを受賞した女性監督はジェーン・カンピオン(『ピアノ・レッスン』、一九九三年)、そしてヴァルダの二人しかいなかった。カンピオンは陳凱歌との共同受賞、ヴァルダは長年の功績が称えられた名誉賞である。二〇二一年になってやっと、ジュリア・デュクルノー監督が『チタン』で単独受賞を果たす。

 

三、ライカートは『スター・ウォーズ』を観ない

 この数十年、女性の映画監督は世界中で活躍している[2]。本稿では最後に、近年の重要監督としてケリー・ライカート(米、一九六四~)を取り上げたい。ライカートは『リバー・オブ・グラス』(米、一九九四年)でデビューし、その後『オールド・ジョイ』(米、二〇〇六年)、『ウェンディ&ルーシー』(米、二〇〇八年)、『ミークス・カットオフ』(米、二〇一〇年)などの傑作を世に送り出してきた。

 ライカートの作品はその徹底したミニマリズムが特徴である。何気なく撮られているような横移動があまりにもしっかりと「決まって」いることに、構図のアートとしての映画の快楽がある。しかし逆にいえばそれだけだ。たいした事件はまったく起きない。ジャンルとしてはアメリカ映画に典型的な、そして「男性的」とみなされてきたクライム・アクション、ロードムービー、そして西部劇だが、それにふさわしい物語をまったく作らないという「失敗」によって、ジャンルの骨格だけを浮き彫りにしてみせる。

 こうしたライカートの映画の「女性的なもの」がどのようなものか、即断はできない。ただ、注目すべき事情が一点ある。デビュー作『リバー・オブ・グラス』ではいまだ雑多な要素がその世界を彩っていたが、十二年のブランク(原因は女性監督であるがゆえの資金集めの難しさだったという)を経た後の『オールド・ジョイ』以降、徹底的に無駄が削ぎ落とされた映画になっていく。それは予算的な制約のためであり、またもちろん、映画的な洗練でもあるだろう。しかしライカートは各種のインタビューで[3]、興味深いことをほのめかしている。初期の映画を作る過程では、多くの男性スタッフが年若き女性監督にあれこれと「映画の作法」を講釈してきたようだ。その煩わしさから、信頼できる少数のスタッフのみに絞り込んでいったと。ライカートのミニマリズムはその結果でもある。

 男性が若い女性にあれこれ「教えたがる」ことを「マンスプレイニング」というが、それは単に知識を利用した支配欲の表れではない。何が教える価値のある知識なのかを男性が構築する行為である。ライカートは『スター・ウォーズ』を観たことがないというが、それは権威的で男性的な映画作法の象徴として捉えられている。ライカートがそれを拒否していったことは、男性的に構築された知の組み換えであった。多彩な「女性映画」に何か共通のものがあるとすれば、まずはそうした知のあり方からの離反にあるだろう。

 

本稿は宇都宮市を中心とする映画サークル『映画好包』第1号(2021年10月)に掲載したものである(転載許諾済)。

 

[1] アニエス・ヴァルダ(相川千尋訳)「トロントについての覚え書き」『シモーヌ vol.4』(現代書館、二〇二一年[原著は一九七四年])

[2] 二〇二一年五月、うさぎやTSUTAYA宇都宮駅東口店にて、筆者は最近の世界の女性監督作品十本のセレクションを行った。次のブログ記事を参照。

https://tkira26.hateblo.jp/entry/2021/05/03/173711

[3] 例として、”Kelly Reichardt: the quiet American,” Sight & Sounds, 25 May 2021

https://www.bfi.org.uk/sight-and-sound/interviews/kelly-reichardt-first-cow

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オンライン授業は大学を社会に開く

 『下野教育』767号に書いた文章の転載です(許可済)。

 PDF版はこちら

 

一、アフター・コロナ時代の大学教育へ

 新型コロナウイルスの世界的パンデミックは、人々の生活を大きく変えた。本稿執筆時点(2020年4月)でも感染終息の目処は立っていないが、今後、ワクチンの普及によりこの騒ぎが収まったとしても、私たちはそれ以前と同じ生活を取り戻すことはないだろう。「アフター・コロナ」の世界は、この延長に考えられなければならない。

 私は大学の法律学担当教員だが、本稿では、大学教育を中心に、新しい生活様式の可能性をできるだけ積極的に考えてみたいと思う。なお、本稿の一部は既発表の論考「「現在」の大学に触れよう」(『下野新聞』2020年11月8日朝刊)を利用している。 

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世界の女性映画DVDセレクション @TSUTAYA 宇都宮駅東口店

うさぎやTSUTAYA宇都宮駅東口店 にて、2021年5~6月にレンタルDVDセレクションコーナーを作っていただきました。世界の女性映画監督特集!ということで10本選んでいます。できればみなさん、現地でご覧になってレンタルしていただければと思いますが、紹介文をこちらにも載せておきます。

  ※ レンタルDVD在庫ありのものからの一般向けセレクトです。

 

 

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家族から社会を構想する

 下野新聞「日曜論壇」に書いた小文です(転載許諾済)。

 夫婦別姓や同性パートナーシップ制の動きに触れつつ、家族法のあり方について考えました。選択的「なのに」反発されるのはおかしい、ではなく、選択的「だから」反発されるという面を踏まえないと話は進まないのではないか、と思います。

 画像の下にテキストと補足もあります

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下野新聞2020年12月13日朝刊・日曜論壇「家族から社会を構想する」
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「現在」の大学に触れよう

 下野新聞「日曜論壇」に書いた小文です(転載許諾済)。

 オンライン化で大学の知は世界に開かれるという理念的な話と、それを機に社会の潜在的ニーズを探ってリカレント教育を進めていこうという実践的な話です。

  なお、画像の下にテキストと補足もあります

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下野新聞2020年11月8日・日曜論壇「「現在」の大学に触れよう」
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「人」が裁く意味、考えよう

 下野新聞「日曜論壇」に書いた小文です(転載許諾済)。

 アメリカ連邦最高裁判事、ルース・ベイダー・ギンズバーグ氏の逝去にともない、日米の裁判官イメージの比較、AI裁判官の可能性、裁判員裁判の意味、といったことをまとめてみました。

  なお、画像の下にテキストと補足もあります

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下野新聞2020年10月4日朝刊・日曜論壇、吉良貴之「「人」が裁く意味、考えよう」
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身の回りのナッジ、意識を

 下野新聞「日曜論壇」に月1で連載している記事です(転載許諾済)。今回はナッジについての解説と、先日の本屋B&Bさんでの出版記念イベントで私が話したようなことを簡単にまとめてみました。小さなコラムなので特に踏み込んだものではありませんが、ご関心を持ってくださった方は、那須耕介橋本努 編『ナッジ!?』(勁草書房、2020年5月)をぜひどうぞ。画像の下にテキストと解説もつけています

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下野新聞朝刊2020年8月30日・日曜論壇「身の回りのナッジ、意識を」
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緊急時の人権保障、議論を

 下野新聞「日曜論壇」に書いた小文です(転載許諾済)。

 憲法上の緊急事態条項について、むやみに危険視するのではなく、選択肢の一つとして考えていきましょうというものです。ヴァーミュール(吉良訳)『リスクの立憲主義』のような議論を日本国憲法でも考えてみるとどうなるか、というものでもあります。

 なお、画像の下にテキストもあります

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下野新聞(2020年7月26日朝刊、日曜論壇)吉良貴之「緊急時の人権保障、議論を」
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リバタリアンはパンデミックにどう対応するか?

というと、いかにも食い合わせが悪そうである。明日、世界が滅ぶとも自由を尊重せよという過激派はおそらくそんなにおらず、国防や警察の一環として公衆衛生を位置づける穏健な論者が多そうな感じ。

エボラ出血熱のときの議論をもとにざっと分けると、1)そこでの検疫や隔離は科学的エビデンスに基づいて最小限であるべき、ぐらいか、2)自由と公衆衛生を対立させる問題設定そのものが不適切であって、衛生は自由の条件である、みたいに論じる方向がある。1はたいした中身がないし、2は自由を実質化する邪悪なものである。こんな選択を迫られるときは問いの立て方が間違っているわけだが、さてどうすべきか。

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池袋 → 宇都宮の時刻表

まったく個人的なメモです。

 

池袋 → 宇都宮

0502(赤)0651 0539(赤)0729

0601(赤)0751 0611(大)0811 0635(赤)0818 0617(赤)0842

0708(赤)0858 0728(直)0914 0754(赤)0929 0759(赤)0951

0813(直)1000 0826(赤)1016 0849(赤)1035

0906(赤)1054 0914(直)1050 0944(赤)1135 0946(直)1128 0959(小)1145

1011(大)1220 1041(直)1214 1051(直)1235

1115(直)1248 1144(直)1328 1150(赤)1338

1214(直)1345 1217(大)1407 1245(直)1429

1315(直)1454 1317(赤)1516 1345(直)1527 1351(赤)1539

1415(直)1547 1417(赤)1608 1444(直)1629

1515(直)1647 1517(赤)1707 1544(直)1727

1615(直)1748 1630(赤)1820

1714(直)1844 1729(大)1925 1746(古)1941

1823(赤)1958 1844(古)2034 

1923(大)2056 1933(赤)2126

2006(赤)2152 2032(大)2225 2045(赤)2243

2126(赤)2303 2130(直)2320 2153(赤)2343

2216(赤)2359 2236(赤)0029

2305(赤)0104 2334(赤)0125

 

8時に間に合うには: 0539(赤)0729、0622(新)0734、0601(赤)0751

8時半に間に合うには: 0611(大)0811 0635(赤)08180647(新)08030708(新)0821

1限に間に合うには: 0635(赤)0818、0617(赤)0842、0708(新)08210730(新)0830

2限に間に合うには: 0813(直)1000、0826(赤)1016、0855(新)1009

11時に間に合うには: 0849(赤)1035、0914(直)10500934(新)1049

13時に間に合うには: 1051(直)12351115(直)12481130(新)12391144(新)1249

15時に間に合うには: 1245(直)14291315(新)14261345(新)1449