本稿は『現代思想』2023年6月号 に執筆した論文の転載である(許可済)。基本的に掲載時のままだが、若干、誤字を修正し、文献情報を追加した。また、ブログの仕様上、表記に変更が生じた箇所がある(傍点による強調は太字で代用した)。
1. 法の不知
「法の不知は許さず」という法格言がある。自身の行為についてそれが違法であることを知らなかったとしても、それは免責の理由とはならないとするものである(慣例的に「不知」という言葉が用いられるが、「無知」と同じことであり、本稿でも区別しない)。これはローマ法由来の古い格言だが(”ignorantia juris non excusat” など、いくつかの言い方がある)、日本でも当然のものとされ、現在の刑法38条第3項は「法律を知らなかったとしても、そのことによって、罪を犯す意思がなかったとすることはできない。ただし、情状により、その刑を減軽することができる」と規定している(ちなみに現行刑法は1997年に口語化されたものであり、それ以前は「法律ヲ知ラサルを以テ罪ヲ犯ス意ナシと為スコトヲ得ス但情状ニ因リ其ノ刑ヲ減軽スルコトヲ得」といういかめしい書き方であった)。この「違法性の意識」の有無が犯罪の成立にあたってどのように位置付けられるかについて刑法学の膨大な蓄積があるが(髙山 1999など)、本稿は哲学的論点に焦点をあてる。
自身の行為が違法であるかどうか、当然のことながらすべて知っている者はいない。また、違法であると知らなかったということが言い訳として通るのであれば、「知らなかった」ふりをするのが得になってしまうかもしれない。そうするとこの法格言はひとまず、事実に反する形ですべての人々が自身の行為の違法性について「知っている」ことを擬制する、もしくは「知っているべきだった」という可能性を規範的に要求するものとして理解できる。いわば、法によって(現実には必ずしもありえない)「知」が作り出されている。
法と科学の相互的な知/無知の生成
本特集の「無知学」の重要な洞察は、科学的な知識に関する「無知」や「不確実性」が意図的に作り出されることにあったが、逆に「知」が意図的に作り出される場合もあることをこの法格言は示している。
「法」はそうした「知」を意図的に作り出すだけでなく「無知」を作り出すことでその権威を維持することもある。科学技術社会論(STS)の代表的な論者であるシーラ・ジャサノフは、「法」と「科学」という現代の二つの最も支配的な専門領域において「知」と「無知」が都合よく生成されるダイナミズムを豊富な具体例とともに描き出した。ジャサノフの主眼は「法と科学」が相互作用的に双方の知と無知を作り出すことの指摘であるが(興味深い例としては、法廷における証拠の必要性から DNA 鑑定技術という科学的専門知が発展し、その発展が DNA 鑑定の証拠力という法的専門知を強化したといったことがあげられる:Jasanoff 1995, chap. 3)、本稿ではそうした相互作用を念頭に置きつつ、法における知と無知にかかわる論点をいくつか見ていこう。
2. 知と無知の規範的配置
「法の不知は許さず」といっても、自分の行為が違法であると 本当に 知らなかった場合にも責任を問われるのは酷であるかもしれない。人々のほとんどが知らない秘密法によって刑罰が課されるような状況があるならば、国家の刑罰権に対する信頼(=正統性)が失われることだろう(逆に、いくらかの秘密性は恐怖心と混ざり合う形でその正統性を高める場合も想像しうる)。だとすると「法の不知は許さず」という法格言は、本当にすべて許さなかったならば国家権力自身の刑罰権の正統性を失わせるという自己否定的言明 という面がある。したがってそれは程度問題とならざるをえず、実際、先に引用した刑法38条第3項も「ただし」以下、情状酌量の余地を認めている。たとえば法律の規定があまりにも複雑であった場合がそれにあたる(「違法性の意識を欠くことに相当の理由がある」などと表現される)。
法の不知は原則として許さず、しかし例外的に考慮されうる、というこの枠組みは常識的なものだと思う方も多いかもしれない。本当にそうだろうか。そう思った方は、国家権力にとって有利な知と無知の規範的配置をなぜわざわざ認める必要があるのか、と問い直してみてもよいだろう。国家権力と被告人の圧倒的な力の格差を考えるならば、被告人にとっての防御手段を少しでも増やそうという発想に至るのが人権保障の観点から望ましいだろうし、実際、先進諸国の刑事法手続きはおおむねそうした方向で構築されている。「法の不知」だけが被告人にとって例外的に不利な事情とされるべきであるというならば、その理由が示されなければならない。それを認めたならば誰もがそう主張してしまう、という批判は、他の抗弁にも同様にあてはまるだろうか。
「知らなかった」という言い訳
また、人々は現実に、自身の犯罪行為を指摘されたとき、それが違法だとは「知らなかった」という言い訳をする(とりわけ交通犯罪ではそうした例が多く出せるだろう)。そうした言い訳は、支持できないにしても「気持ちはわかる」という反応も出るのではないか。しかし、もし「法の不知は許さず」という法格言が十分に直観適合的であるならば、そうした言い訳が多くなされることはないし、言い訳として理解もできないだろう。そうすると「法の不知は許さず」という知と無知の規範的配置は、少なくとも自明のものとはいえない。法哲学者のダグラス・フサックはそのように問いかけながら、問題にすべきことは「法」の知識ではなく、道徳的に悪いかどうかを知って行為したかどうかであるとする主観主義的な議論を展開している(Husak 2016; Husak 2020)。
こうした問題提起は犯罪者にとって「甘い」ものであり、とても容認できないという反応もなされるかもしれない。その場合は、そうした抗弁が頻繁になされるようになったときの帰結を考えてみるのがよいだろう。法律の規定が周知されていなかった、またはあまりにわかりにくいために当該行為が違法だと判断できなかった、という抗弁が裁判において積極的に認められるようになったとき、それは当該法システム内の他のブランチ、つまり立法府に対する波及効果(systemic effect)をもたらす(cf. Vermeule 2006; Vermeule 2011)。そうした主張が安易に認められることのないように法律はできるだけ明確に書き、また周知徹底すべきだといった、法哲学者ロン・フラーのいう「法の内在道徳」(Fuller 1965)の、立法による促進につながりうるのである。法の周知と明晰化が必要だという要請はおそらく常識的なまでに支持される事柄だが、だとすれば「法の不知」の抗弁を認めるのに躊躇するためにはさらなる理由が必要となるだろう。
意味付けとしての責任追及
もっとも、フサックのように法の不知の抗弁の可能性を広げるにあたって、真に問われるべきことは自身の行為の道徳的悪さを知っていたかどうかであるとして知識と責任を結びつける路線もまた問題含みである。哲学者のマイケル・ジンマーマンは最近著においてその路線をより根本的に追求している(Zimmerman 2022)。それによれば、非難可能性としての責任の条件は、当該主体が自分の行為の性質や結果について知りうるかどうかという認識的条件と、行為と結果のつながりをコントロールできるかどうかという主体的条件によって問われるとされる。そこから、非難に値することの起源には当該主体が悪いと知って行った行為がなければならないという「起源テーゼ(Origination Thesis)」が主張される。
ジンマーマンの議論は入り組んでいるが、本稿の関心にとって重要なのは無知を明確に免責要素としてあげていることである。ある行為(の結果)が悪いと知っているにもかかわらず行うからこそ非難に値するのであって、知るべきだったにもかかわらずそれを怠ったという過失による無知の責任は否定されている。というのも、ある行為が道徳的に悪いことかどうか、どのような結果が生じうる行為なのか、そして違法な行為であるのか、……といったことについて、調べるなどして無知を解消するか、それとも無知のままであり続けるかということは本人にはコントロールできないからである。したがって無知による行為は主体的条件を満たさず、有責ではありえない。
ジンマーマンの議論には、無知といってもまったく手がかりのない状態と、自分の知っていることからほんの少し調べれば到達できることの無知は異なるのではないかといった反論が思いつく。しかし、知と責任をつなげることの都合の悪さの一端を示していることは確かだろう。この主張は自身の知らないことに対する責任をあまりにも大規模に免責してしまう反直観的な帰結をもたらす。たとえば近年の「構造的不正義」論は、資本蓄積の世代間連鎖のように個人レベルでは関知できないことがもたらす害悪を問題化するものだが(Goodin 2023)、そうした問題から個人の責任を切り離すことを目指しているように思われる。同様に法的責任もまた、個人レベルの非難可能性という意味での道徳的責任から切り離される。「法の不知は許さず」という法格言は、違法であることを知らずに行為した行為者に対し「知っているべきだった」という規範的な要求をするものであるが、仮に無知についてのジンマーマンの議論が正しいとすれば、それは 事実として 不可能な要求をしていることになる。しかし、だからといって刑事法的な責任追及が 規範的に 不可能になるわけではない。それはむしろ「責任を問うときに重要なのは、[他行為可能性ではなく]現実に行われた行為の意味である」(瀧川 2008, 47[]内は引用者による補足)という責任追及のあり方を明るみに出している。
3. 知と無知の誘導
行政国家における誘導
国家権力はさまざまな形で人々の行動を誘導している。刑罰を背景とした直接的な強制には相応の実力の裏付けが必要であり、実際のところあまり効率的ではない。近年、行動科学の知見(行動インサイト)をもとにした行動変容手段「ナッジ」が公共政策でも多く用いられているが、そうした非強制的・間接的な誘導自体は、とりわけ1980年代以降、財政的制約のもと「小さな政府」化が推進されるとともに行政の活動範囲は肥大化する一方である「行政国家」状況において常套的に用いられる手段といえる。
こうした間接的な行政活動は「誘導行政」として早くから問題化されている(中原 1994)。その多くはインセンティヴ操作による行動変容の促進という形をとる。具体的な手法としては、① 補助金や課徴金など金銭を手段としたもの、② エコマークやハザードマップなど情報提供を手段としたもの、③ 誘導容積率や優良運転者免許など規制緩和によるもの、④ 官民協働を前提とした行政指導によるもの、⑤ 備蓄米の放出、グリーン購入法など経済介入によるもの、などがあげられる(宇賀 2020, 11章)。こうしたインフォーマルな/ソフトロー的な行政活動は、日本では民間と行政が比較的協調的な関係にある場合が多いこともあって古くから一般的なものであったといえる(ナッジが「昔からよくあるもの」と捉えられやすい原因の一つでもある――ナッジの何が「新しい」のかについては、吉良 (2022) を参照)。
インセンティヴ操作の倫理
さて本稿の関心からすると、②のような情報提供、あるいは④のような暗黙の関係を利用したインセンティヴ操作は、知と無知をめぐる規範的問題を引き起こしやすいといえる。正しい情報を提供して人々の熟慮を促進するものであればまだしも、無意識の行動バイアスを利用した誘導であったり、ときには誤った情報を与えることによる誘導もある。行動バイアスは要するに人の非合理性であり、その利用は市民を対等な自律的主体とみなさないことによって格下げすることになるという批判がなされる(Waldron 2014)。官民の協調的関係といいつつ、実際にはそこからの離反による不利益を暗黙の前提とすることによって委縮させる場合もあるし、また、行政の誘導に従っておけば問題ないという依存的な思考停止が起きる場合も少なくない。
こうしたことは「操作の倫理」の文脈で問題にされることだが(石田 2021; Noggle 2022)、近年のナッジ論の主導的論客である公法学者キャス・サンスティーンは行政の側の誘導意図を明確にし、批判可能性を保障することでそれに応答しようとする(Sunstein 2022)。ナッジにせよ広告にせよ、あるいは飲食店のレビューサイトや出会い系マッチングアプリなど、そのアルゴリズムや影響力の与え方を隠すことによって、つまり人々の無知を利用して行動変容させようとする試みは民間企業によってずっと多くなされている。行政はそうした操作に対し、正しい知を提供することによって不当な影響力を弱めるべき役割を負っているといえるかもしれない(Schmidt 2019)。とはいっても、たとえば検索エンジンのアルゴリズムを開示させたところで、今度はそれに最適化した行動変容(評価要素となっているサービスのみに注力し、そうでないサービスを切り捨てるといったことなど)が起こることが予想され、そうするとそうした知と無知の配置への権力的介入が望ましい帰結をもたらすとは限らない。無知を利用することの道徳的な悪さが、正しい知の提供によって打ち消されるほど単純な状況はむしろ限定的だろう。むしろ問われるのは 適切な無知の水準 であり、それを可能にする条件である。
4. おとり捜査の何が悪いのか
法的な知は現実にはさほど整合的ではない。ときに矛盾した要求が同時に発せられることもある。法的メッセージが人々をダブルバインド状況に追い込む典型的なものとして、いわゆる「おとり捜査」があげられる。おとり捜査とは、日本の最高裁が示した定義によるならば、「捜査機関又はその依頼を受けた捜査協力者が、その身分や意図を相手方に秘して犯罪を実行するように働き掛け、相手方がこれに応じて犯罪の実行に出たところで現行犯逮捕等により検挙する」捜査手法のこととされる(最決平成16年7月12日)。薬物犯罪の摘発にあたって、捜査官が売買を持ちかけるような場合がわかりやすい。こうした捜査手法にどのような問題があるかについては、刑事法の解釈学のみならず、哲学的にも活発な議論がなされている。
おとり捜査の何が悪いのかというと、まず法的に、犯罪への働き掛け(=誘導)自体が教唆だったり、それ自体が共犯になったりするということがあげられる。次に道徳的には、① そもそも他人を悪事へと誘導することそのものが悪い、② それが国家権力と市民という非対称的な関係のもとでなされることが悪い、③ 身分や意図を秘匿することで騙し、熟慮プロセスに歪みを生じさせることが悪い、といった問題が考えられる。しかし、薬物犯罪の摘発といった高度の必要性があるときには例外的に許容されうる。刑事訴訟法の代表的な教科書では「高度の「必要」があり、犯罪実行に伴う法益侵害発生の具体的危険を極小化できる場合に限られる」(酒巻 2015, p. 173)と述べられており、通説的な見解であると思われる。ほか、下級審レベルでは「機会提供型」と「犯意誘発型」を区別し、もともと犯意があった者に対し機会を提供する場合は許容されうるが、犯意そのものを「おとり」行為によって生じさせる場合には「罠の抗弁」が可能だとするものもある(東京高判昭和57年10月15日)。
法的メッセージのダブルバインド
本稿の関心からすれば、おとり捜査は何が違法な行為であるかについての知を国家権力が操作し、相手をダブルバインド状況に陥らせることに問題がある。すでに古典的となった批判として法哲学者ジェラルド・ドゥオーキンによるものがあり、それによれば、おとり捜査を許容することは市民に対し、法の遵守と違反を同時に要求することになって法の意図に矛盾が生じるという(Dworkin 1985)。確かに、当人の人生に甚大な影響を与える刑事司法の実践において、ある行為を推奨しつつ非難するという状況は決して望ましいこととはいえない。「正義の実現を指向する司法の廉直性」(最決平成8年10月18日、尾崎反対意見)が求められるという見方もある。とはいっても、捜査官の手は決して汚れていてはならないという厳格なカント主義もあまり説得的にはなりにくい(被疑者を追うパトカーは決してスピード違反してはいけないだろうか?)。
そもそも法的なメッセージがつねに整合的なものであるわけではない。一つの行為が異なる法(たとえば民事と刑事)によって異なる評価を受けるのは法学的にはむしろ基本的な事柄に属する。では、同じ法によって異なる評価を受けることは許されるのだろうか。長期的な目的(犯罪の根絶)と短期的な目的(犯罪の検挙)は切り分けられるという反論もあるが(Hill et al. 2022)、それはあくまで捜査権力側の言い分であって、検挙される側にとってのダブルバインド状況は残ったままである(Haeg 2022)。刑事責任の問題としては、犯意形成が欺罔による場合にそれが責任を軽減する要素にはなりうることは認められやすそうである。しかしさらに強い主張として、矛盾する法的要求には遵守可能性がない、として違法性や構成要件該当性の問題にすることも可能かもしれない。おとり捜査の結果として行った行為は、単に責任が軽減されるのではなく、法的メッセージが矛盾している以上、いかなる規範を侵害したのかが特定できず、犯罪行為を形成しえない、とまでいえるとすれば、ドゥオーキンの批判はいまだ強力なものとして残っている。これは2節末尾で論じたように、事実としての両立可能性ではなく規範的な両立可能性の問題である。
5. これって違法ですか?
ここまで、知と無知がいくつかの形で法的な概念、とりわけ責任とつながったり切断されたりするあり方を見てきた。知と無知の規範的配置という観点から、多少なりとも「法」の見慣れない姿を描き出せたことを願っている。もっとも、本稿で触れられたのはごく少ない例であり、他にもたとえば、「知る権利」に対して「知らないままでいる権利」といったものが擁護されうるかといった興味深い問題がありうるが、別稿を期すこととする。
最後に少し触れておくと、本稿では一貫して、法的な知と無知の対象として、ある行為が「違法かどうか」という言い方をしてきた。法的なことに多少なりとも関わった経験のある者は、「これって違法ですか?」と問われることに辟易した経験があるだろう。「合法ですか?」ではないのだ。価値観の多元化した不確実な社会では、合法だからといって安心して行動できるとは限らない。しかし、違法と認定されたならば問答無用に非難の対象となってしまう。だから「予防原則」的に「違法」なことを避ける態度が賢明なものとなっている。「不確実性」が社会にどのようにしてもたらされるかも「無知学」の重要なテーマだが、「違法ですか?」という問いの蔓延は、その現れの一つであるかもしれない。
文献
- 石田柊(2021)「操作(manipulation)の倫理学:論点の概観」『ELSI NOTE』No.14, https://elsi.osaka-u.ac.jp/research/1426
- 宇賀克也(2020)『行政法概説1(第7版)』有斐閣。
- 吉良貴之(2022)「ナッジは行政国家に何をもたらすか?」『法律時報』1174号、13-17頁。
酒巻匡(2015)『刑事訴訟法』有斐閣、 - 髙山佳奈子(1999)『故意と違法性の意識』有斐閣。
- 瀧川裕英(2008)「他行為可能性は責任の必要条件ではない」『大阪市立大学法学雑誌』55巻1号、31-57頁。
- 中原茂樹(1994)「金銭賦課を手段とする誘導の法的構造および統制」『本郷法政紀要』3号、181-213頁。
- Dworkin, G. (1985). The serpent beguiled me and I did eat: entrapment and the creation of crime. Law and Philosophy, 4(1), 17-39.
- Fuller, L. L. (1965). The Morality of Law. Yale University Press.
- Goodin, R. E. (2023). Perpetuating Advantage: Mechanisms of Structural Injustice. Oxford University Press.
- Haeg, J. (2022). Entrapment and manipulation. Res Publica, 28, 557-583.
- Hill, D. et al. (2022). What is the incoherence objection to legal entrapment? Journal of Ethics & Social Philosophy, 27(1), 47-73.
- Husak, D. (2016). Ignorance of Law: a Philosophical Inquiry. Oxford University Press.
- Husak, D. (2020). Ignorance of law: how to conceptualize and maybe resolve the issue. In: Alexander, L., & Ferzan, K. (Eds.). The Palgrave Handbook of Applied Ethics and the Criminal Law. Palgrave Macmillan.
- Jasanoff, S. (1995). Science at the Bar. Havard University Press(渡辺千原・吉良貴之監訳『法廷に立つ科学』勁草書房、2015年).
- Noggle, R. (2022). The Ethics of Manipulation. Stanford Encycropedia of Philosophy. https://plato.stanford.edu/entries/ethics-manipulation/
- Schmidt, A. T. (2019). Getting real on rationality—behavioral science, nudging, and public policy. Ethics, 129(4).
- Sunstein, C. R. (2022). Manipulation as theft. Journal of European Public Policy, 29(2), 1959-1969.
- Waldron, J. (2014). What do the Philosophers Have against Dignity? NYU School of Law, Public Law Research Paper, No. 14-59.
- Vermeule, A. (2006). Judging under Uncertainty. Harvard University Press.
- Vermeule, A. (2011). The System of the Constitution. Oxford University Press.
- Zimmerman, M. (2022). Ignorance and Moral Responsibility. Oxford University Press.
本稿は JSPS 科研費 21K00041(基盤研究C「欺瞞による無知の行為の有責可能性についての哲学と法学の融合的研究」、2021-23年度、代表:太田雅子)の研究成果の一部である。この問題関心は後続の課題、JSPS 科研費 24K03366(基盤研究C「無知の有責性の端緒となる不正義に関する倫理学と法哲学による包括的研究」、2024-27年度、代表:太田雅子)に受け継がれ、続けて探求している。