下野新聞「日曜論壇」に書いた小文です(転載許諾済)。
憲法上の緊急事態条項について、むやみに危険視するのではなく、選択肢の一つとして考えていきましょうというものです。ヴァーミュール(吉良訳)『リスクの立憲主義』のような議論を日本国憲法でも考えてみるとどうなるか、というものでもあります。
なお、画像の下にテキストもあります。
緊急時の人権保障、議論を
日本国憲法に「緊急事態条項」は必要か。新型コロナウィルスは県内でもクラスター(感染者集団)が発生するなど、感染拡大に終わりが見えない。人々の移動の自由や飲食店の営業の自由は重要な人権だが、それを制約する強い措置も必要だという意見も強まっている。
憲法の緊急事態条項は、戦争や災害などの緊急時に、行政に通常と異なる権限を与えるものだ。
日本国憲法には戦前の反省から規定されていないが、各国の憲法にはそうした条項を持つものも多い。日本でも2011年の東日本大震災や今回のパンデミック(世界的大流行)を経て、緊急時でも政府の機能を停止させないように緊急事態条項が必要だという主張が脚光を浴びている有力になってきた。それに対し、権力の暴走や過度の人権制約の危険があるという批判も根強い。
自民党が12年に示した改憲草案(下記リンク参照)では、緊急事態条項の新設が提案されている。案によると、首相が宣言した場合、内閣は国会の審議を経ることなく、法律と同じ効果を持つ政令を制定し、必要な措置を取ることができる。
この案には、緊急事態宣言に対する条件が緩く、国会を通じたコントロールが弱いといった批判がある。しかし基本的人権の尊重は明記されており、緊急事態だからといって現行憲法よりも強い人権制約を認めてはいない。内閣が発した政令も、後から国会の承認を受けなければならない。つまり、国会審議を事後的にし、行政の迅速な意思決定を可能にする手続きにすることがポイントだ。が要点だと考えられているようだ。
これだけでは現憲法で許されない人権制約や政府の権力拡大が目指されているとは一概に言えない。ただ今後の議論でそうした主張が付け加えられる可能性はあり、注意すべきことは言うまでもない。
今回のような疫病の流行に対し、憲法上の緊急事態条項に基づく措置が必要かどうかは議論の余地がある。強制的な外出制限などの措置を取った国々の多くは、憲法上の緊急事態条項ではなく法律の規定によっている。現在の日本の政治状況では憲法改正が現実的な課題となることは考えにくいので、法律の整備を急ぐべきなのは確かだ。
しかし法律で対応できるから憲法改正は不要だと即断することも危険である。公共の福祉を理由とした人権制約は現行憲法でもある程度可能だが、疫病の拡大防止といった緊急の必要のためには制約範囲が容易に広がりかねない。憲法を守ろうとするあまり強権的な法律を認めるようでは、かえって憲法軽視につながってしまう。
人権侵害が起こりやすい緊急時だからこそ、人権保障や意思決定手続きの在り方を真剣に考えるべきだ。明確なルールのないまま「自粛」による社会的圧力が高まり、国家権力に利用される恐れさえある現状ではなおさらである。憲法に緊急事態条項を設けることはあくまで選択肢の一つであり、どのような組み合わせが人権保障にとって最適かを議論する必要がある。
補遺
以上のコラムは、自民党改憲草案*1(2012年)で示された緊急事態条項について、その特徴を、緊急事態における ① 行政の迅速な意思決定と ② 国会審議の事後化 としてまとめたものである。これ自体は手続きの問題であって、実体的な内容は含まれていない。だから「使い方次第」であり、すぐさま人権侵害の危険が高まるとか、独裁への道を開くといった大袈裟な議論に持っていくべきではないと考える。
根本的な問題としては、この手続的な転換が議会制定の法律による行政という原理と緊張関係に立つことであるだろう。こうした観点からの議論は管見の限りそれほど盛んではないように思えるが、今後の発展を期待したい。
議論
少なくとも一般メディアにおいて発表される憲法学者の見解は、大部分がこの改憲草案に否定的であるようだ。最も激越な批判を行っているのは以下の木村草太によるものだろうか。
木村の議論のほとんどは、私には残念ながら理解できない。不可解な濫用例をいくつも並べて恐ろしげな「独裁」へと至る道を描き出しているが、国会による事後的審査や、裁判所による違憲審査の役割を無視している。民主的政治過程への不信感が根底にあるのだろうが、私としてはそうしたエリーティズムを支持することはできない。
また、現行憲法で違憲となる内容は、この緊急事態条項案のもとでも当然に違憲となる。少なくとも、緊急事態だからといって人権侵害を許容するような表現はない。「保障」と「尊重」に言葉だけで実質的な違いがあるかのように論じているが、特に根拠はあげられていない。むろん、国会や裁判所による救済で本当に取り返しがつくのかという不安は理解できるが、それ自体は現行憲法も抱える問題である。そこでの審査をより実質的にする方向での議論(たとえば憲法裁判所の設置など?)をするほうが、より前向きな姿勢のように思われる。
木村の議論は最も極端な例だと思われるが、著名な憲法学者によるいくつかの反対論も、条項案に過剰な実体的意味を読み込むとともに、その手続的特徴を顧慮しない点で共通している。以下の長谷部恭男による議論はいくらか洗練されているが、同様の問題を繰り返しているように思われる。
もっとも、緊急事態条項に反対一辺倒の憲法学者ばかりというわけではない。たとえば横大道聡は、権力乱用のリスクを抑える仕組み次第だとして、緊急事態条項も選択肢から排除すべきではないとと述べている。これは短い記事であるため根拠は十分に述べられていないが、上記の私のコラムではこうした発想を少しだけ詳細に展開したつもりである(横大道がこれに同意するかどうかはわからないが)。
なお、長谷部にはカール・シュミットの緊急事態論の現代的可能性を問う論考などもある(長谷部恭男「緊急事態序説」、憲法理論研究会編『展開する立憲主義(憲法理論叢書25)』敬文堂、2017年)。こちらは私が『リスクの立憲主義』を翻訳し、本コラムでの下敷きに用いている論者である、エイドリアン・ヴァーミュール(とエリック・ポズナー)がシュミットの現代的継承者として取り上げられている。ポズナー&ヴァーミュールは緊急事態における権力の歯止めを結局のところ人民の(選挙を決定的手段とする)監視と統制に求めているが、長谷部はそうした民主的統制が成り立つ条件としてリベラルな法の支配や立憲主義の原理があるとし、両者は簡単に分けることのできないものであるとまとめている。ポズナー&ヴァーミュールもそうした条件をプラグマティックには支持するだろうから、これは正当化根拠と力点の違いのように思える。しかし少なくともここでの長谷部はそう単純な反対論を唱えているわけではない。
The Oxford Handbook of Carl Schmitt (Oxford Handbooks) (English Edition)
- 発売日: 2016/12/13
- メディア: Kindle版
ほか、憲法上の議論について包括的な資料として、衆議院憲法審査会事務局「「緊急事態」に関する資料(衆憲資第87号)」(2013年[PDF])がある。
*1:この改憲草案の出来は決してよいものではない。人権規定をどうにかくさそうとする条文を現行憲法にいくつか場当たり的に挿入しただけであり、特に見るべきものはない。また、統治機構についてはほとんど手つかずであり、まともに何か考えたような跡はない。そもそもこの改憲草案自体、自民党が野党時代に作ったものであり、無責任なアジテーションという意味合いの強いものである。「歴史的文書」として無視するのが前向きな態度といえる。こうしたものにいつまでも反対することによって政治的リソースが削られることの損失のほうが問題である。ただし、本コラムで取り上げた緊急事態条項は、おそらく専門家による知見が下敷きになったものであり、賛否はともかく真剣な検討に値する内容がある。政権奪取後の自民党の改憲戦略においても緊急事態への対応は目玉の一つであり、改憲草案で示された構想は保持されていると見るべきであろう。なお、 2018年素案[PDF、3頁]では表現がやや簡素になっている。これはあくまで「叩き台」であるとされているので、本コラムでは同様の内容が維持されているものと見てより詳細な2012年案を検討対象とした。もっとも、両者に違いがあるかどうかについては今後の議論を見る必要がある。