tkira26's diary

吉良貴之@法哲学のブログ。

法哲学講義「自由の概念分析」(2)

第1回はこちら

自由の時間的な幅

 ではちょっと戻りながら、重要そうなところを確認していきましょう。1番、「強盗に銃を突きつけられているので、動けない」。たぶんこれ、みなさんとしては典型的な自由・不自由の問題と考えたんじゃないかなと思います。つまり、この状況だとAさんは「不自由」であるし、それは言葉の使い方としてまったくおかしくない。……でも、どんなふうな意味でそういえるのか、もう少し細かく考えてみましょう。たとえばこのAさん、強盗に銃を突きつけられていても、動けることは動けますよね。「だから自由でしょ」って言われたら、これはどうでしょう? 何かがこんがらがっていそうですが、誰か説明できる人います?

 学生A「たしかにその瞬間は自由なんですけど、その後の自由が守られていないなあと思いました。ごく短期的な自由しか守られなくて、結果としては、その後あるはずだった自由を失うことになっているので。よろしくないんじゃないかなと思います。」

 ああ、それは面白いかもしれませんね。自由っていうのは、銃を突きつけられている一時点のことではないというわけね。「その後の自由」っていうのがあって、動いたら撃たれる、そうすると死んじゃうわけだね。自由がなくなっちゃう。とすると、自由という概念は、ある程度時間的な幅っていうのを考えざるをえないんじゃないかということか。なるほど、これ、かなり面白い論点だと思います。時間的な幅を入れたら、1番から5番あたりも、けっこう◯×があやしくなってくるのもありそうな気がしますね。

【問い】
次の各状況に置かれたAさんが「私は自由ではない」と言ったとき、それは「自由」という言葉の使い方として適切かどうか(○×)、もし適切でないとしたらそれは別の何の問題か、考えるところを述べてください。

1. 強盗に銃を突きつけられているので、動けない。

2. 人を殺したいが、刑罰が怖いのでできない。

3.  お金がないので、高級レストランで食事ができない。

4. ベンチに変なでっぱりがあるので、眠れない。

5. 翼がないので、空が飛べない。 

 たとえば、さっき4番の「ベンチに変なでっぱりがあるので、眠れない」ということで誰か言ってくれましたよね。これは単にその時点で眠れないってだけじゃなくって、ホームレスの人たちの生活全般の自由の問題だと。これもその時点だけの自由というよりは、生活全般っていうことで、かなり時間的な幅があると言えそうです。こうやって時間の問題を入れたら、かなりいろいろと出てきそうですね。翼がないので空も飛べないっていうのも、いつか生えてきたりするんじゃないですか?

 通常、自由の幅というときには、できることを数えて幅を考えますよね。たとえば高級レストランの例を出すと、叙々苑(仮)には行ける、ロイヤルホスト(仮)には行ける、ガスト(仮)には行けるって感じで食事の自由を数で考える。高級といいつつ例がしょぼいですけれども、こうやってどれぐらいの自由があるかを数えていくことはできそうです。けれども、それを時間的に考えるというのは、なかなか新鮮な視点のような気もします。

 たとえば今日、僕がいきなりがんばって叙々苑(仮)に行ったとしましょう。まあ何万円かはかかりますよね。すると、明日からは素寒貧な生活になってしまう。とすると、「いま」叙々苑(仮)に行く自由があるのかというと、どうでしょうか。現時点だけ考えたら、食費1ヶ月分ぐらい使い果たしたら行けるかもしれないけれども、明日からの生活を考えたら、それは自由ではないっていう話になるのか。これ面白いですね。自由というのはこんなふうに個別に行為を切り取るんじゃなくて、もっと生活全般?をふまえた、時間的幅で考えないといけない、かもしれない。どうでしょうね。

他者からの侵害の有無

 まあ、行ったり来たりしながら考えましょうか。元に戻って、「強盗に銃を突きつけられているので、動けない」。これは、何が不自由の根本的な要素といえるんでしょうか。たぶんみなさん、この例を不自由の典型例だと思ったと思うんですけれども、これ、なんででしょうかね?

 学生E「自分の体を、どう動かすかっていう、自分の所有物について、この場合であれば、それが自分自身にないというか。他者によって、そこの自由というか選択を、完全に奪われてしまっている、という感じですかね。」

 「自分の体をどう動かすか」っていう支配権みたいなものが、自由の根本にあると。リバタリアニズムのときにお話しした、自己所有権のお話につながりますね。それが奪われていない状態が、自由の根本的な要素だということでしょうか。……そうすると、ちょっと突っ込んでみたいんですけど、5番「翼がないので、空が飛べない」。昔は人間に翼があったんです、でも、もがれちゃった。って考えたら、これはやっぱ、不自由の問題になるのかな。
 ……何を言ってるの?という顔をみなさんされていますね。これ、翼っていう例だから、だってもともとないじゃん、と思うかもしれません。でもたとえば、いま持っている身体、腕や足などどこかを誰かに切り取られてしまった。で、歩いたり動いたりするのが不自由になった、っていう状態は考えられますよね。これはさすがに自由/不自由の問題だとみなさん考えると思います。とすると、ここでの問題は何でしょうか。「もともとあるもの」を奪われたら、それは自由の問題になるっていう感じかな。

 ここでは、さっきEさんが言ってくれた「他者からの侵害」というのが、もうひとつ大きなポイントになっているかなと思います。不自由というのは、誰かが悪意をもって行動の自由を制限していること。そう考える場合、「翼がないので、空が飛べない」という状態は、別に誰かの悪意によって生じているわけではない。それはそもそも最初から人間の物理的な限界である、というふうに考えられるかなと思いますね。それに対し、後から誰かが侵害を加えてきた場合にはまた違うだろうと。

意思としての自由

学生G「僕はちょっと逆に考えていました。というのは、1~5の基準を「自分がそうしたいと思うかどうか」で、自由の問題かどうか考えていたんです。すると、ええと、これは全部「~したい」という意思があるわけなので、全部、自由の問題と考えていいんじゃないかなあと。」

 ふむふむ。なるほど、いい指摘ですね。確かに、これまでの話はずっと、何かしたいことについて妨害とか困難がある場合、いわば邪魔のほうから考えてきたかもしれません。というか、「自由」といいつつ、もっぱら「不自由」とは何かを考えていたといえます。「◯◯」を直接考えるよりも、そうでないもの「not ◯◯」から考えるほうがわかりやすいことが多いので、この授業でも特に断りなくそうしてきました。でも「自由」をもっと正面から語るほうがかっこいいですよね。

 というかここで、私たちは「自由」と「不自由」を本当に対義語として用いているだろうか?と問うこともできるかもしれません。これまでどちらかというと「不自由」という言葉の多義性を見てきましたけれど、「自由」のほうはもっと劇的に多義的かもしれない。このあたりは上手に整理しないと、言葉の多義性をもてあそぶことで哲学的なことやってる気分になるんじゃないぞ?という、けっこうつらい批判を招き寄せることにもなりえます。ちょっと注意しておく必要があります。

 で、戻ると、自由というからにはそもそも本人のほうの「~したい」という意思を最初に考えないといけない、ということですね。

学生G「ちょっと思ったんですが、それぞれ両側から考えるとうまく整理できそうな気もしました。たとえば、強盗に銃を突き付けられていても、一応は動けますよね。だから選択肢はある。まあ、撃たれたら死んでしまいますけど……。でも、「動きたい」という意思があって、可能か不可能かだったら可能である。その意味では自由がある。でも、強盗がそれを邪魔している、その意味では不自由なのかなあと。」

 なるほど、軸のようなものができてきた感じがしますね。まず、本人の「~したい」という意思があって、まあ、5番の空を飛ぶのは無理だとしても、他のいろいろは一応、可能性としてはできる。つまり、「~したい」という意思と、それをする・しないを自分で決めるという意味での自由がある。その一方、強盗が銃を突きつけるみたいに、他の人がそれを邪魔してきている。そういう意味での不自由も同時に存在している。そんな感じかな。

 確かに、「~したい」と思う側から考えるか、それを邪魔するものは何かという側から考えるか、どっちかによって「自由」ということのイメージはだいぶ変わってきそうですね。これまで邪魔のほうを中心に考えてきましたが、本人の意思に着目してくれたのはとてもいい視点ですね。

 たぶん、この両者は同じことの裏表で、本人にとっての自由を強盗が侵害している、だから客観的な状況としてはAさんは不自由である……みたいに統合して説明できると思うんですけど、でも、こうやってさまざまな角度から分析することによって、自由という、なんだか得体のしれないものを解きほぐしていく手がかりが得られそうですね。いま言ってくれたのは、いわば自由の「主体」に着目してくれたわけです。自由の問題に限らず、次に扱う権利の問題もそうですが、法的な概念というのはたいてい、こっち側から見るかあっち側から見るかということで見え方が変わってくるわけです。打ち上げ花火みたいなね。違うかな。だからこそ争いが起こるともいえるんですが、そうやって、逆方向からはどう見えているだろう?というのもつねに意識してほしいなと思います。

一般的自由説/人格的自律説

 じゃあ、2番目にいってみましょうかね。「人を殺したいが、刑罰が怖いのでできない」。これはちょっと分かれましたけれど、「人の自由を奪うのは自由ではない」という論点が出てきましたね。これは、一定の制限のもとでこそ自由がある、という話なのかなと思います。これは憲法の話だとどうだったでしょうか。ちょっと思い出してみましょう。

すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。

 憲法13条、幸福追求権ですね。人々は自分の幸福を自由に追求する権利がある。この幸福を「自由に」追求するというとき、いくつかの意味がありうるというのは憲法の授業でやったと思います。

 ひとつは一般的自由説。これは人間にはすべて、やりたいことをやる自由がある。たとえば、人を殺す自由というのも概念としてはあるんだ。そういうのも含めて自由という。でも、人を殺すのは悪いことであるから、刑罰とかによって規制されざるをえないけれども、自由そのものはある。その行為がよいか悪いかっていうのは、また別の話なんだと。そういうふうに分けるものですね。

 それに対して、自由にはもともと内在的な制約があると考える立場がある。有名なのは人格的自律説といったものですね。この13条の幸福追求権は、どんな自由も認めているわけじゃないと。たとえば「人格的自律」に資するようなものしか認められない、そういう考え方もあるわけですね。自由はもともと、他者の自由と両立する限りで、望ましい自分になる、そういう目的がある概念なんだというわけですね。もう少し一般化すると、何か価値のある行為についてのみ、自由っていうのはいえる。そんな方向の考え方でしょうかね。そうじゃないもの、たとえば、人を殺す自由とか、人のものを盗む自由とか、そんなものはないって最初から言っちゃう考え方です。

 みなさん的にはどっちが魅力的でしょうか? とりあえず、なんでも自由ですよーといっておいて、そのなかによいもの・悪いものがありますって分けて考えるのか。それとも自由っていう概念そのものに、何か価値のある行為に向かうものというふうに最初から限定がある、そういうふうに考えたほうがいいか。どうでしょうね。そんなの言い方の問題じゃない?って思う人もいるかもしれませんが、13条から「新しい人権」とか引っ張り出してくる場合には、そこらへんの理解もとても重要になってきます。また、あとでバーリンという人の消極的自由/積極的自由という分類を紹介しますけど、そことも関わってくる話なのでちょっと頭の隅に置いといてください。

責任と自由

 じゃあ、3番。「お金がないので、高級レストランで食事ができない」。このへんもわりと論点が出てきました。はい、あなた。

 学生A「ちょっと気になっていたのが、お金がないというのがどういう理由によるのかです。問いの左半分のほうも検討したほうがいいと思うんですよね。ここだと、お金を稼ぐ自由、使う自由……といったことがいえるとしたら、右側の高級レストランに行くかどうかもやっぱり自由の問題なんじゃないかと。その両方を含めて自由の問題なのかもしれない、みたいなことも思ったんです。」

 なるほど、面白いですねそれは。それぞれの問いは「ので」の前後で分かれています。これまではどちらかというと後半のほうに注目した議論をしてきました。でも、前半の理由のほうも自由の問題なのかどうか、着目してみるのも面白い感じですね。「お金がないので、高級レストランに行けない」っていうけれども、いや、そもそもお金を稼ぐ自由があるじゃないかと。稼ぐ自由があるにも関わらず稼いでないんだったら、「高級レストランで食事ができない」っていわれても、そんなん知るかという話になりそうな。これもどうでしょうかね。

 確かに、ある程度の大人で十分に稼ぐ能力と時間があって、それでもぐうたらしていているとか、他のことに使ってお金がないから高級レストランに行けないとかいうんだったら、あんまり自由・不自由の問題っていう感じはしませんね。

 実はこれ、「高級レストランで」食事ができないっていうのが、たいした問題じゃないだろって思わせる原因かなと思います。というか、そういうふうに引っ掛けてあるんですけれども。高級レストランに行きたいんだったらまあ、自分で稼げという感じになりやすいですよね。

 でも、ここでちょっと話をふくらませたいんですが、たとえばその人があんまりお金がない家に生まれてきて、十分な教育を受けられなかった、という場合を考えてみてください。これはどうでしょうか。自分で稼げ、と言っていいのかどうか。貧しい家に生まれたことについては本人の責任がないので、またちょっと違った話になってくるのかなという感じもします。これ、本人の「責任」っていうのが入ってくるのかな。稼ぐ能力があるにもかかわらず稼がないでレストランに行けないのは、自己責任というか自業自得だけど、そもそも自分に責任がない部分でお金がなくなっている状態だとそれはちょっとあんまりかもしれない。責任と自由。どうでしょう。

教育と自由

 じゃあ、この3番をちょっと書き換えてみましょう。「お金がないので、◯◯ができない」、このなかにいろいろと入れてみます。まず、「お金がないので、【大学に行くこと】ができない」。これは、自由・不自由の問題といえるでしょうか?

 学生B「そうですね……。大学での高等教育っていうのが、どれぐらい必要なものなのか。みんな受ける権利があるべきものと考えられているかによると思うんです。現代の日本だと、大学に進む人数は非常に多いですし。一定の職に就くためには、大学卒業というのが求められていることを考えると、これは……自由の問題になってくるかなと。」

 必要性ということですね。今の日本だと、大学に行かないと、望む仕事になかなか就けないという現実がある。とすると、必要性という意味では、高等教育が受けられるかどうかというのは自由・不自由の問題になってくるというわけですね。そうすると、高級レストランで食事ができないっていうのは、それはそもそも必要じゃないものだから不自由とかいうのはおかしい、というのもあるのかな。

 学生E「高級レストランで食事ができなくても、ファミリーレストランとかで食事をすることができます。でも、大学に行くことができないっていうことは、他の選択肢がない。なので、自由を選択肢として捉えた場合、高級レストランと大学とでは、幅がだいぶ変わってくるのかなという感じです。」

 なるほど、選択肢があるという意味での自由ということですね。合理的な代替手段があるかどうかという、さっきの話にもつながるかな。確かに、大学に行けないならば他のところに行けばいいじゃないとはなかなかいえないですよね。他の選択肢がない。国立大学だったら多少は学費が安いけれども、でももう最近はあまり変わらない。大昔の国立大学だったら授業料なんて年に数万円だったので、お金がなくても国立大学に行く自由がある、ということがもしかしたら言えたかもしれないけど、現状だとそれはあまりリアルではなくなりつつありますね。奨学金とかの問題もいろいろありますし。

 これ、大学だったらまだ仕方ないか、という感じがないわけでもないですけども、「お金がないので、義務教育が受けられない」にしてみるとどうでしょうか。小中学校に行くことができない。これだったら、何か変わると思う人います? これは不自由の問題なんでしょうか、それとも別の問題なんでしょうか。あ、2人続けて。

 学生A「義務教育になると、自由・不自由っていうよりも国のシステムの問題なんじゃないかなと思いました。」

 学生F「まず大学で考えてみたいんですが、どこか自由っていうのは普遍性がある必要があるのかなって思っておりまして。大学に行くこと自体はその国によって、全員が必ずというわけではないですよね。確かに必要性は高いんですけれども、そこは義務教育とはまた違うかなあと思いました。」

 確かにそうですね、大学に行くことはかなり一般的になってきたけれども、全員ではない。今の日本での大学進学率は現在、50%を越えるぐらいですか。とすると、全員に必要である義務教育の場合はちょっと違ってくるということですね。自由/不自由というのは、ある程度は普遍性が求められる問題だったと。面白いですね。

権利と自由

 義務教育は自由/不自由の問題というよりは、国のシステムの問題というのももっとふくらみそうですね。これね、義務教育が受けられないとなると、僕は「権利」の問題といったほうがしっくり来るような気もします。

 つまり、教育を受ける「自由」というよりは、もうちょっと強めに「権利」といったほうがよいのではないか。権利である以上は、単に邪魔しないでくれというだけでなく、国家に対して積極的に要求できそうですよね。で、義務教育だったらそれぐらいは言えそうに思います。とすると、権利と自由って何か違うのかな。それとも「自由権」なんて言い方もあるので、ある程度は重なってくるのか。これ、どんなイメージですかね。権利と自由、どんなふうに重なったりずれたりしているのか。

 僕のイメージだと、自由っていうのがこんなふうにあって(円を描く)、そのなかに権利といえるような、他人に積極的に請求できる重要なものがある。そんなイメージです。たとえば高級レストランに行くかどうか。僕はこれは自由の問題だろうと思うんですけれども、権利の問題ではないだろうと。国民全員に高級レストランに行く権利があるっていうのは、ちょっと変な言い方ですね。何が変かというと、これは次回の「権利の概念分析」の回で詳しく扱いますけど、権利というのは請求すべき相手が必要だからです。高級レストランに行くお金をくれ、みたいに請求できる相手がどこかにいるか、国家に請求できるか、そう考えるとやっぱ無理そうですよね。

 同じように、私立大学に行くことはおそらく自由の問題であるだろうけれども、権利の問題といえるかどうか。誰かに何か請求できるかどうかということです。私立大学に行くお金を国家に請求できるでしょうか。さすがにそこまでは無理ですよね。まあ、そうはいっても奨学金制度の拡充とか、ある程度の社会的環境を整えることが必要だっていう議論はありえますが。

自由の条件

 でも、これが義務教育になってくると、さすがに単に行くかどうかの自由の問題だけではなく、そもそも行く権利があるわけだし、そのための具体的支援を国家に積極的に求めていけるわけですね。単に小中学校に行く「自由」というときには、行くか行かないかを自分で決められる、その選択を他の人から邪魔されない、そんな消極的な感じっぽいですけど、小中学校に行く「権利」と強くいうときには他の人に積極的に主張できる。まとめると、そういう話になるのかなという感じがしますね。この教育問題、特に義務教育レベルの話は自由にとって、あるいはさっき少し触れた、本人の責任という問題にとって、わりと微妙な問題がありそうに思います。

学生G「小中学校ぐらいだと、自由そのものの問題というより、なんというか、自由の前提になる条件、みたいな感じもします。つまり、教育をちゃんと受けてないと、自由に自分のやりたいことをいろいろすること自体が不可能になってしまうと……。」

 なるほど、いいポイントですね。単に自由といっても、十分な教育を既に受けて、自分で稼げるようになっている大人と、まだ小学校にも行ってない子どもとでは意味が違ってきそうですね。「◯◯する自由」があるといえるためには、ある程度の条件、まあ最低限のところでは読み書きそろばんみたいなことになるかと思いますが、そういったものが必要になる。とすると、「自由」というときには、単に他人から邪魔されないというだけでなく、もっとその前提となる条件が必要である、とまでいえるでしょうか。義務教育ぐらいだったらそんな気もしますね。

 でも、ここはちょっと注意すべきポイントで、これから紹介するアイザイア・バーリンという人の自由論、特に消極的自由と積極的自由という区別に関わってくる問題があります。もうせっかくなのでそこまでふくらましてお話しますね。

次回に続く