tkira26's diary

吉良貴之@法哲学のブログ。

映画「ハンナ・アーレント」

2012年11月に東京国際映画祭で鑑賞したときのメモ。 

700人ぐらいの会場が満杯で、こんなマイナーなニュージャーマンシネマに人が集まるとはとちょっとした感動をおぼえる。ファスビンダーとかやっても3人ぐらいしか来ないのに。別にドイツ関係なくてアーレント人気ですかね。これ見よがしに『イェルサレムアイヒマン』を読んでいる院生っぽい観客が複数。

以下、いくつか気がついた点など。ネタバレあるかもしれませんが、基本的に伝記的事実そのままなので特に問題はないでしょう。ヤング=ブリューエルさんのに依拠してるようです。 これ:http://www.amazon.co.jp/dp/4794964242 

 【映像】 


・冒頭、アイヒマン逮捕のシーン、闇の中からぼんやりと近づいてくるバスがかっこいい。そこから降りたアイヒマンを、モサドの連中がささっと拉致する。いくつかの文献にあるように、特に誰何(suica)はしていない。ここ、あまりにもあっさりとしていて拍子抜けするのだけど、そのぶん逆に印象に残る感じになっている。横移動の長回しでちょっとアンゲロプロスな感じもする。それは褒めすぎか。 

・やたら顔アップが多い。アーレントはそれに耐える迫力があったように思うけれど、それにしてもここまで必要なものかどうか。せっかくのシネスコなのだから、もうちょっと引きで構図を作ってもいいと思う。 

・映像はずっと暗鬱なトーン。室内がほとんどだからということもある。これといった仕掛けもなさそうに思えるが、よく見たらほとんどのシーンでピントがかなり甘い。見ててちょっと酔う。さすがにこんなところで技術不足ということはありえないから、意図的なものだろう。thinking の揺らぎとでもいえば聞こえはよいか。 初期ソクーロフみたいな本気のぼけぼけではなく、よく見たらちょっと、という感じなので判断に迷う。 

・それに関係して、登場人物がやたらめったら煙草を吸っている。アーレントなんてほとんど全部のシーンで吸っている。ここまで紫煙に覆われた映画というのも近年そんなにないかもしれない。しかし講義中でも平気で吸っているのはまあ、そういう時代ということか。ピントの甘さはこの煙のせいもありそう。 

・カナダのトロント国際映画祭で先行上映されていたようで、そっちの感想を読んでみると、映像がもうちょっとうきうきするものにならんかね、といった意見があった。でもフラウケ・フィルルによる衣装はコスモポリタンで(?)よいとかなんとか。アーレントとか別に普通な感じだったけど、シャルロッテさんおしゃれだったかな。 

・ニュースクールの喫煙所?でアーレントが煙草を出したとき、学生がささっと近づいてきて「先生、どうぞ!」と火をつけるのがなんかおかしい。 

・室内はそんなに面白くないのだけど、夜のニューヨークとか、イスラエルの荒涼とした風景とか、そういうのはとてもいい感じ。ここではシネスコが生きている。うまい具合に室内とのコントラストを作ればいいんだがね。 

イェルサレムにはそのへんになんとなく猫がいる。中東の猫は和猫っぽい雰囲気。 

・アイヒマン裁判の記録映像はたくさん使われているが、アウシュヴィッツとかそういうのは再現映像としても使われていない。「ショアー」系。表象=再現前の暴力。 

【人物】 

・アーレントはずいぶんと小綺麗というかチャーミングというか。実物はもうちょっとニヒルな雰囲気なんじゃなかったのかな。これはこれでまた別の魅力があっていいんだけど、へたに人間味というか、弱さや葛藤を描き出そうとするのであればよろしくないかもしれない。演じるバルバラ・スコヴァさんはニュージャーマンシネマのアンナ・カリーナみたいな人で、トロッタ監督の作品ではローザルクセンブルクとかも演じている。 

・若き日のアーレントはとてもきれい。ハイデガーはちっちゃくてちっともオーラがない。2人のゴシップ的ないろいろを直接的に描いたシーンはほとんどない。ヨナスから嫌味を言われ続けるあたりとか(「ハイデガーはナチスというより恋敵だったのよ」)、そのへんの前提知識がないとぴんとこないと思う。というかこの映画全体、『イェルサレムのアイヒマン』およびその後の騒動を知っておかないと何がなんだかわからない部分が多すぎる。学部1~2年ぐらいである程度解説した上で、おさらいとして見るにはいいかもしれない。研究者にはおそらく新しい発見はないです。 

・ヨナスはすっかり、ろくに話も聞けないダメな子扱い。いくらなんでもこれほどのことはなかったんじゃないかと思うんだけど、どうなんですかね。というか、内在的な理解者がまったく出てこない。友人や学生たちは一応、アーレントを弁護しているけれども、内容について語っているわけではないのでどうも。アーレント本人が自己弁護しすぎなのはあまりよくない。いや、それによって逆にアーレントの孤独を浮き彫りにするという意図なのかどうか。 

・みんなちゃんとドイツ語しゃべっててえらい。こういうのみんな英語になったりしがちだし。アーレントの話す英語は極端なドイツなまりで、しかもところどころあやしい。いくらなんでももうちょっと上手だったんじゃないかと思うけど、このへんが永遠の亡命者というあれかしら。日常会話は基本的に英語なんだけど、議論でヒートアップするとドイツ語に戻る。 

・ニュースクールの学生は「えー、フランスってナチスと敵対してたんじゃないですかあ?」とか平気で言うぐらいなんだけど(ヴィシー政権を知らない)、これはどこまで実態に即しているのか。60年代初頭のアメリカの大学生なんてそんなものだったのか。白熱教室にも似たようなのいるし。というかそんな連中はともかく、その時期のユダヤ人の若者の急進化はアーレントへのバッシングを考える上で重要なので、そこを落としているのはいいのかなと思う。年長世代からの反発に絞られている。 

【内容】 

・『イェルサレムのアイヒマン』騒動にとことん絞られている。ハイデガーとのいろいろとか、余計なことを入れてないのは好感が持てる。ただけっこう有名な話ばかりなので、もうちょっと何か綾を作ってもよいのではなかったかしらん。ヨナスとかの友人たちが離れていった後とか、相応にドラマも作れただろう。 

・『アイヒマン』については、(1) アイヒマンは思考停止した凡庸な小役人で何ら小悪魔的なところはなく、むしろそれゆえに根源的な悪をなすことが可能になった、(2) ユダヤ人指導者たちの一部はナチスに協力し、そのせいで被害者が増えた、という2点のみが問題にされている。(1) についてはアイヒマン擁護と捉えられ、(2) はユダヤ民族に対する攻撃と糾弾された。歴史的事実としてはそれでいいのだけど、せっかくだからもっとできる人と論争させて議論を深めてほしい気もする。『全体主義の起源』とのつながりとか、多少ほのめかされている程度で終わっているのが残念。しかしあまりややこしい話をしても観客はついてこないだろうという読みなのか。 

・どちらかというと、信念を持った主張を通したがゆえに大切な人を失っていくといった人間ドラマを押し出したかったみたい。ヨナスはあまりにもだめな人として描き出されているせいでぴんとこないのだが、好々爺のクルト・ブルーメンフェルトが死の床できっぱりとアーレントを拒絶する姿は確かにとても物悲しい。 

・『アイヒマン』で「風」の比喩が多用されているのを編集者が指摘するあたり、ちょっと「お」と思う。ゲーテも引っ掛けて疾風怒濤。これがやがて『精神の生活』における木の葉とかにつながっていくのかな、とも思ったのだけど、そうでもないのが肩透かし。後半、紅葉に囲まれた別荘でアーレントが静かに思索にふけるシーンはとても美しいけれど、そのあたりでもう少し何かできなかったものか。全体的にかなりアーレント思想を理解しているあとはあるものの(ラーエルとかアウグスティヌスとか、ちょこちょこ出てくる)、それを映像や物語で表現できているかというと疑問が残る。アイヒマン関係に絞るためにあえて切ったか。 

・一方、『人間の条件』とか、政治とか公共性とか社会とかそういうのに関わる話はほとんどほのめかされることもない。アーレントの映画としてそれはバランスを欠くようにも思うけれども、こういう話にはちょっと乗せにくかったか。 

・アイヒマン裁判の記録映像を見ると、彼は堂々とした「東大話法」を駆使して検事とかと渡り合っている。そこには単に「官僚的」という形容を超えた歪んだ信念と有能さがある。というか普通に迫力がある。臆病な小役人による思考停止が凡庸かつ根源的な悪につながるという通俗的なアーレント図式は、少なくともアイヒマンに関しては眉唾ではないかなあ。というか、あまりそこを強調すると、アイヒマンの不在の父?であるヒトラーを必要以上に神格化してしまうので、そこはこの映画のかなりやばいところではないかと思った。原著はもう少し慎重だと思う。 

・字幕はおそらくかなり急いで作ったのだろうが、だいぶ正確でよいと思う。というかついでに英語字幕もついているのでそっちを見たほうがいろいろ捗る。しかし、thinking と thought を訳し分けていないのは、「根源悪」としての humanity への攻撃とか、あるいはハイデガーとの関係を考える上でよろしくない感じもする。humanity も「人類」だったけれど、これは一民族としてのユダヤ人との対比だからいいのかしら。人間性とか訳したいところ。 

【音楽】 

・ずっと何か鳴っている。こんなもんいらん。