tkira26's diary

吉良貴之@法哲学のブログ。

荒木優太「反偶然の共生空間」へのランニング・コメンタリー

 2016年1月10日の若手法哲学研究会にお呼びしてお話いただく荒木優太さんの「反偶然の共生空間――愛と正義のジョン・ロールズ」(群像新人評論賞優秀作、群像2015年11月号)の感想です。本作はロールズ『正義論』の意欲的な読み方を示すものであるとともに、ご専門の近代日本文学への応用可能性も感じさせ、いわば〈法と文学〉の実践例としてとても興味深く拝読しました。ここでは第一コメントとして、できるだけ本文に内在的に、思ったことをつらつらと書いてみます。ページ数は『群像』のもの。

72:序文

  • 「生には〈一度〉しかないが、思考には〈何度も〉がある。ここはロードスではない」。反照的均衡ってそういうものかな*1。どうだろう。

73-75:光と闇の光学的コード

  • 高橋たか子「共生空間」(1971)を導入とシメに。
  • 知らない作品だったけど、これがどこまで全体に効いてくるか。
  • 「あの人と私は目鼻立ちこそ違ってはいるが、魂は同じもの。あの人がいるかぎり、私は取り換えのきく存在でしかない」という「交換可能で想像的な共生空間」。
  • 古井由吉「杳子」芥川賞を受賞したのもほぼ同じ1970年。ユング的な共同主観性をいうならばこっちのほうがよさそうにも思えるが、言及なし。何もかも薄明のなかに溶融する古井よりは、高橋の「光と闇の光学的コード」の排除の中途半端さ――愛せる偶然と愛せない偶然のコード?――のほうがロールズ正義論と共振するという読みか?

 75-77:「偶然忌避」のロールズ正義論

  • 「不遇な彼は私かもしれない」(強調は原文)という「ロールズ流の交換可能で想像的な共生空間の発生がある」というのはどうかな。無知のヴェール下の主体は諸々の情報を奪われているがゆえに、契約といいつつも結局のところ特定の個人の合理的選択である、そこに(また異なった合理性 rationality を有する)他者は最初からいない、というのがよくある批判のひとつ。
  • まあこのへんはロールズ正義論が普遍的っぽい装いをしつつも、よく考えればどんどん射程が狭くなっていってしまうという問題でもある。そんなロールズにそこまで付き合わず、無知のヴェールとかのアイデアで示された交換可能性を「反偶然」の思想として生産的に読んでいくことに問題があるわけではない。

78:社会契約論の理論装置

  • ホッブズの「契約主体の力の平等性」というのに厳しい書き方をしているが、ここはちょっと無茶な文句かな。力のない人であっても武器を使ったり徒党を組んだりすれば最強の人の寝首をかけるでしょ、ということだから、ロールズ的な「反偶然」とそれほどの距離はなさそうな。

79-83:偶然性の回収システム

  • ロールズの試みは、宗教とナショナリズムに次ぐ、偶然性の回収システムの新たな構築であったと評価できる」。いいですね。

偶然性の二つの回収システム[宗教とナショナリズム]は、基本的に同じ方法を用いている。つまりどちらも、偶然をある特定の時間的パースペクティヴに置き直すことで、偶然に前後の文脈を与え、無意味に発生するかのようにみえる偶然事を特権的な物語のなかに組み込もうとするのだ。第一は神話的な時間であり、第二は国民国家的な歴史である。しかし、第三の回収システム[ロールズ正義論]は時間の幅を必要としない。(81)

  • 鮮やかなまとめ。
  • 偶然を宿命に変換する二つの物語が宗教とナショナリズムだとすれば、宗教は「他でもありえた」可能性を宿命論的に排除するのに対し、ナショナリズムは他の国民国家でもありえたという可能性をむしろ養分とするのではないかな。つまり、私はフランス人でもドイツ人でもありえたかもしれない、だから私が日本人であることはまったくの偶然である、でもまさにその偶然に感謝したい、という情念?をナショナリズムはうまく利用する。個人レベルでの偶然への不平不満は国家レベルでの偶然の偉大さによって塗りつぶされる。
  • ということは、受け入れられる偶然と受け入れられない偶然があるわけで、ロールズの「反偶然」の射程ってどれぐらいですか、という問いがここで立てられるといっていいかな。
  • 『正義論』58節に基づいて「各国の歴史に宿る偶然性が乗り越えられ、こうして、国家間の正義にも、個人のそれと同じく平等原理が採用されることになる(82)」というのは、後の『諸人民の法 Law of Peoples*2ロールズの腰砕けな記述を踏まえればちょっと不正確になる。「ロールズは、この世界にある、ありとあらゆるレヴェルの偶然性を克服しようとする(82)」わけではまったくなく、(後期になればなるほど強調されるように)reciprocal な範囲で閉じた共同体の「ある」正義の理論(A Theory of Justice)を述べている。ここは筆者も「『正義論』の段階では議論の射程は基本的に一国内に留まって」いると適切に指摘しているので、ロールズが「宗教的ないしは国家的想像力以上にラディカルな反偶然の世界を夢見るのである(83)」とするのには明らかな飛躍がある。とはいってもこの飛躍は後の論述のためのフックになっている感じもする。必然の正義を夢見つつ偶然の愛に負けるロールズ

83-85:オルテガ的宿命論

  • さっき好意的に引用したアンダーソンをザコとして葬り去ってオルテガ先生を中ボス的に登場させる。このへんは読ませるワザですね。
  • ロールズの反偶然の正義論はオルテガにしてみれば凡俗の大衆に迎合したポピュリズム哲学にすぎない」。さすが強そうだ。

85-90:愛、それは反偶然の正義を支える特別な偶然

  • 『正義論』86節の「愛」論からの展開。この第三部はロールズも後に何か展開することもないし(包括的 comprehensive な教説ゆえに「撤回」までしたかどうかはちょっと留保しておきたい)、あまり注目されることのない箇所だけれども、それゆえにここからの力技は面白くなりそう。どっちかというと80-81節の「嫉み」のほうがロールズの人間観をよく表していて取っ付きやすそうだけれども、そこはあえて外していく。
  • 正義の原理は制度化されるにあたっては補償のシステムとなる(補償よりは「分配」がいいだろうが、細かいことはまあ)。これ自体は特に難しい話ではないと思うんだけど、何でも偶然と言いすぎて記述がちょっと追いにくくなっている。
  • 「排除するべきではない特別な偶然性」としての愛。正義の原理はある時代的・社会的制約のもとでの試みであり、失敗することもあるわけだが(つまり現実になされる正義はそれ自体が偶然であるが)、しかし愛し合う人々が無茶な冒険を後悔しないのと同じように、正義感覚を共有する人々は正義への試みを後悔することはない。愛と正義は同様に無根拠な衝動に基づいている。
  • だから愛も正義もいつも何度でもいけるわけか。序文とつながった?
  • 「最後の最後で明らかになったのは、そのような[正義原理の導出とその制度化]企てで実現されるのは、偶然選別の制度機構であった(88)」。
  • 反偶然の企てとしての正義はその根源のところで愛という根本的な偶然に支えられている、という話か*3。そうまとめてしまえばそれほど突飛な話とも思えないが、ここはやはり本論文の肝で、88-90頁はむやみに気合いの入った(あえていえばあまりよくない意味で文芸批評らしい)記述が続いている。
  • ここでの「愛」は「偶然にも」同じ共同体に住まうことになった同胞たちとの互敬性(reciprocity)の感覚と言い換えてよさそうに思うんだけども、そうすると小さくまとまって面白くないですかね。

90-93:愛せない偶然をどうするか

たとえ愛さなければならないのだとしても、愛をもてない不遇な者たちが運命愛で口を噤むはずがない。宗教やナショナリズムが用意した回収システムに比べ、運命愛の解決は余りに個人主義的であり、個々人の愛の力に依存しすぎている。(91) 

ロールズの愛は実際には、正義の原理の安定化に役立つというよりもむしろ、重大な不安定化の要因として機能してしまうようにみえる。正義のための愛は、しかし循環的に、今度は不安定な愛を制御するための正義を要求するだろう。正義が必然を偶然に変える力だとすれば、愛は偶然を必然に変える力だ。ロールズのアクロバティックな橋渡しにも拘らず、偶然性に対して相反する方向性をもつこの二つの力は決して調停しない。(92)

  •  このあたりはかっこいい書き方だけれども……。
  • でもやっぱロールズが疲れてぽろっと口にした「愛」という言葉に過剰な意味付けをしてしまっているようにも思える。ここでの愛は結局のところ、偶然にも同じ共同体に生きることになった人々への同胞愛につながるものであって、それは「個々人の愛の力に依存しすぎている」というよりも、ロールズであれば「穏当な多元主義事実」のもとに「ただそこにある」とあっけらかんと言い放つものだろう。だから「偶然性に対して相反する方向性をもつ」愛と正義の力は互いに調停し合う。調停しない社会ではまた別の(another)正義が必要とされるのだ。
  • ここで筆者からすれば、ロールズは愛の残酷な制御不能性が正義の秩序を掘り崩す可能性を見くびっている、とさらに批判すべきだろうか。しかしそれはロールズの狡猾な後退戦術のために際限なき空振りを運命付けられている。

93-95:反偶然の共生空間から偶然との共生関係へ

  • 再び高橋たか子の小説、それから九鬼周造の偶然論。ここらへんは正直よくわかりません。愛せない偶然(=歓待できない他者)とどう折り合いをつけるか、という話としてもっとすっきり書けそうだけれども、あまりすっきり書くとお説教くさくなっていけませんか。
  • むしろ「愛せない偶然」から目を背けて内向していくロールズの正義論には、内向の世代とか四畳半フォークの70年代的想像力との共振関係がある、みたいな筋立てのほうが文芸批評的には面白い感じもするけど、どうですかね。これは単なる思いつき。

加筆する場合は注に。


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*1:本論文が反照的均衡に触れているわけではない。本論文はロールズ正義論の方法論的特徴として取り上げるのは無知のヴェールだが、一方で正義と愛の反照的均衡(?)の可能性といったテーマもこの枠組では興味深いものと思われる。ロールズ論としての体系性は筆者が目指すところのものでは必ずしもないだろうが、今後の加筆においては期待したい点である。

*2:翻訳書タイトルは『万民の法』だが、ローマ法でいうところの「万民法ius gentium)」との混同を避けるため『諸人民の法』とする。

*3:大澤真幸が選評でいちゃもんをつけている「歴史的偶然」の容認というのは、ロールズの「転向」問題をどう扱うかということである。大澤の「ロールズは、反偶然の立場を最後まで貫くことができなかったのだ」という指摘については、〈反偶然の正義を支える特別な偶然としての愛〉という特徴付けによって意識されているので、それを「愛」という曖昧な言葉で語ることの是非はともかく、大澤が騒ぎ立てるほど致命的なものとは思われない。むしろ大澤は通説的な「転向」論に引っ張られて、本論文を「時間の幅を必要としない」ロールズ論として把握できていない。