tkira26's diary

吉良貴之@法哲学のブログ。

オンライン授業は大学を社会に開く

 『下野教育』767号に書いた文章の転載です(許可済)。

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一、アフター・コロナ時代の大学教育へ

 新型コロナウイルスの世界的パンデミックは、人々の生活を大きく変えた。本稿執筆時点(2020年4月)でも感染終息の目処は立っていないが、今後、ワクチンの普及によりこの騒ぎが収まったとしても、私たちはそれ以前と同じ生活を取り戻すことはないだろう。「アフター・コロナ」の世界は、この延長に考えられなければならない。

 私は大学の法律学担当教員だが、本稿では、大学教育を中心に、新しい生活様式の可能性をできるだけ積極的に考えてみたいと思う。なお、本稿の一部は既発表の論考「「現在」の大学に触れよう」(『下野新聞』2020年11月8日朝刊)を利用している。 

 二、大学は社会とともにある

 大学教育について押さえておかなければならないのは、世間の評判は決してよいといえないことだ。「大学の勉強は役に立たない」「近頃の学生は遊んでばかりだ」といった発言が経済界の有識者からなされることは今でも多い。かつての「レジャーランド」というイメージに基づくものだが、もちろん、これは誤解である。少なくともこの20年ほど、大学はめまぐるしい改革の中にある。大学間の競争は激しくなり、教育でもさらなる「単位の実質化」が求められている。FD(ファカルティ・ディベロップメント)によって教員側の授業の工夫も進み、また、出席確認の厳格化、授業回数の厳守、予習・復習課題の増加などが進んだこともあって、学生たちはいっそう真剣に勉学に取り組むようになった。また、経済状況の悪化にともない、アルバイト等の負担が増加している現状も無視できない。ただ「遊んで」いる学生はもはやほとんどいない。

 そうした現実を見てもらえないのは大学教育に携わる一人として残念だが、変化を社会に十分にアピールできていなかった大学側の責任も大きい。大学は社会の理解を得なければもはや存続できない。いまや全国の各大学は生き残りを賭け、情報発信や地域貢献事業を積極的に行っている。高校と大学での学びをスムーズに橋渡しする「高大接続」の取り組みの活発化も、そうした流れの一環である。

三、オンライン授業の開始

 新型コロナウイルスの感染拡大は、そうした大学と社会の関係にも一石を投じた。2020年度前期、日本の大半の大学では、通常の教室で行う授業(対面授業)ではなく、インターネットを通じて自宅から受講できるオンライン授業(遠隔授業)を行った。大学は学生の居住地が広範囲にわたること、また授業前後の移動が多いといった事情によっている。ちょうど「ZOOM」のような手軽なオンライン会議ソフトが普及したことも、その一助となった。
 学生としては期待していたキャンパスライフの機会を失うことになり、その心情を思うと心苦しいが、感染拡大を防ぎつつ「学びを止めない」ための大学側の最大限の努力ではあった。オンライン授業用の教材を新しく作り、専用の機材を操作して発信するのは通常の授業よりも準備が必要である。多少の混乱が見られたことは否定できないにせよ、大学側が「楽をした」というのは正確でない。
 このオンライン授業は、当初は不慣れもあって多くの課題が指摘された。学生側の通信環境の格差(いわゆる「ギガ不足」など)、毎回の学修課題の過剰、教室という共通の「場」がないことによる学習意欲の低下、などである。

 その一方、オンライン授業ならではの利点も多く認識された。たとえば、チャットや掲示板を使った双方向化の徹底がある。現在の大学での授業では双方向性が強く推奨され、かつてのように教員が一方的に話すのではなく、学生との/学生間での対話が多くなされている。しかし授業中、実際の教室で発言するには勇気が必要である(私も声が大きいほうではないので、学生時代からの憂鬱の種であった)。声の大きさで圧倒するといったことがないオンライン授業は、そうした点での平等にも資する。また、記録に残るため、授業中のハラスメント(いわゆる「アカデミック・ハラスメント」)防止の意義があることも重要だ。

四、オンライン授業は大学を超える

 その後、感染拡大防止策の周知がなされるにつれ、多くの大学で対面授業が再開された。しかし、これはオンライン授業が緊急時における一過性の代替物にすぎなかったことを意味してはいない。今後も、オンライン授業は「場所に縛られない」という最大の強みを生かし、大学教育の有効な選択肢の一つとして定着していくことだろう。たとえば、大人数での講義はオンラインで、少人数での指導は対面で、というように、授業の規模や性質による使い分けが既に多くなされている。
 現在のところ、日本の大学ではオンライン授業で取得できる単位に上限が設けられている。しかし海外ではオンライン授業のみで卒業できる大学も現れており、日本でもそうした動きは出てくるだろう。そこまではいかなくとも、日本中、いや世界中のさまざまな大学の人気授業を自宅で受けられるようになっており、この世界的な流れは今後も加速する一方であるはずだ。これは大学という場所に閉じ込められていた専門的な知が、社会に向けて開かれていくということである。日本でも、正規の授業を動画サイト「ユーチューブ」等で一般公開する先駆的な試みが一部でなされるようになっているほか、大学の授業という枠を超え、一般の方々も参加可能なオンライン読書会・研究会も多く行われるようになってきた。私も多少、開催しているが、ご関心のある方はぜひ検索していただきたい。

五、オンライン授業は競争を激化させるのか

 こうした「知の社会化」は、大学にとってどういう影響をもたらすだろうか。授業がインターネットによって世界中から受講できる状況は、大学教員としては緊張感がある。教員もまた労働者である以上、そうした点で労働強化になってしまうことには注意が必要だ。しかし、自身の研究成果を踏まえた独自性ある授業を、目の前の学生のみならず全世界に向けて発信できることは、研究者=教員として大きなチャンスなのも確かである。
 こうした状況を競争の激化として消極的に考える人々も少なくない。世界の人気授業を自由に選んでオンラインで受講すればよいならば、各大学がわざわざ「自前で」開講すべき授業は最低限でよくなりそうだ。一般教養的な授業は世界の人気講師の授業をオンラインで受講し、より専門的な、あるいは親身な指導が必要な科目のみ、自分の所属大学で対面の授業を受ける。そういった二極分化が進むという懸念は多く表明されているし、実際、一般教養科目や一部のマイナー科目を外部の教員に「外注」する流れは(パンデミック以前からだが)強まっている。オンライン化は場所の縛りをなくすため、一部の人気講師に全国から依頼が集中するといったことも既に起こっている。オンデマンド授業(録画授業を学生が都合のいい時間に視聴するもの)によって時間の縛りもなくなれば、授業担当者の数はごく少数で済むことになりかねない。それにより、現在の全国の大学で進んでいる教員数の削減がさらに加速するという懸念も広まっている。それは長期的に見て、「役に立たない」学問の削減につながるのだろうか?

六、オンライン化によって多様化を進める

 私自身もそうした懸念を共有するが、その一方、この流れに正面から抗するのはもはや難しいと考えている。以下では、オンライン化をよりよい大学教育につなげるための可能性を考えてまとめとしたい。

 まず、オンライン化によって一般教養的なオンライン授業と専門的な対面授業への二極分化が起こるという問題はどうか。世界中の人気授業を視聴して自分なりに学修できる意欲的な学生の数は決して多くない。視聴して得られた知識を定着させるには、身近な教員や学生とのやり取りが欠かせない。また、どのような授業を受ければよいのかについても、最初から自分で判断できる学生は多くない。テレビ受けするような語りで一見わかりやすいように思えても実際の中身に乏しい授業も存在するし、しっかりとした内容のある授業であっても自分の理解水準と合っていなければ学習効果は乏しい。人気授業を選ぶにも、それらをマッピング(=位置付け)する専門家の助言が必要だ。教員のそうした中間的・媒介的な役割はオンライン化によってさらに重要になるだろう。

 オンライン化によって科目の多様性が失われるという懸念はどうか。実際、いわゆるSTEM(科学・技術・工学・数学)関連科目に偏重したカリキュラムが広がり、伝統的な人文学など「役に立たない」とみなされた科目が削減されるといったことが世界中で起こっている。しかし私は逆に、一つの大学内では受講人数の少なさなどのために開講しにくくなっている科目が、オンライン化によって多数の「顧客」を新たに獲得していく未来を考えている。

七、リカレント教育のすすめ

 そうした見方は、少子化が進み、大学の淘汰が起こっている現状では、現実的ではないと思われるかもしれない。本稿は実は、学校卒業後も学び続ける「リカレント教育」のすすめでもある。オンライン化は場所と時間の縛りを緩め、以前と異なる知識に触れるためのハードルを一気に下げた。専門的な知識を大学という場所に閉じこめるのはもったいない。また、学生という人生の一時期にしか触れないのももったいない。若者たちとともに学ぶ体験はきっと刺激的であるはずだ。社会人の参加は、現役の学生にも緊張感が生まれてよい効果がある。

 少子化が進むなか、社会人向け教育は大学の生き残りにとって最重要の課題である。その推進にあたってオンライン化はおおいに期待されているが、もちろんそう単純ではない。授業内容のミスマッチなどのため、大きな広がりになっていない。大学は社会人の学び直しにとっての潜在的なニーズを掘り起こす努力が求められている。六で述べた可能性は、そうした努力あってこそ現実的になる。

八、大学教育を徹底的に自由化する

 本稿で述べた私の見解は、過度に楽観的だったり、競争主義的だという反発を受けるかもしれない。教育はそうした競争原理になじまないという見方も十分に尊重するに値する。しかし、私はこうした競争こそ、大学教育をより豊かなものにすると信じている。私の法哲学・政治哲学上の思想的基礎は、リバタリアニズム自由至上主義)と呼ばれるものだ。この思想のうち、私が最も重要であると考える洞察は、さまざまな社会問題は、人・物・情報のグローバリゼーション、つまり移動の自由化によって解決されるべきであるということだ。逆にいうと、人の移動、物の流れ、情報の公開のどれかが滞っているところに社会問題が生じる。今回のパンデミックは残念なことに人と物の移動を著しく制約したが、他方、それでもなんとかこの世界が持ちこたえているのは、インターネットを通じた情報のグローバリゼーションによるところが大きい。本稿で述べたオンライン授業はその例の一つだが、それによる知の社会化は、大学への視線をより厳しくしていくだろう。その上で行われる大学と社会の対話こそ、大学教育にとって真に有意義なものである。

 

 

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