tkira26's diary

吉良貴之@法哲学のブログ。

リバタリアンはパンデミックにどう対応するか?

というと、いかにも食い合わせが悪そうである。明日、世界が滅ぶとも自由を尊重せよという過激派はおそらくそんなにおらず、国防や警察の一環として公衆衛生を位置づける穏健な論者が多そうな感じ。

エボラ出血熱のときの議論をもとにざっと分けると、1)そこでの検疫や隔離は科学的エビデンスに基づいて最小限であるべき、ぐらいか、2)自由と公衆衛生を対立させる問題設定そのものが不適切であって、衛生は自由の条件である、みたいに論じる方向がある。1はたいした中身がないし、2は自由を実質化する邪悪なものである。こんな選択を迫られるときは問いの立て方が間違っているわけだが、さてどうすべきか。

 「最小国家リバタリアン」を自称する神経倫理学者のアンダース・サンドバーグは、以下の記事で「パンデミック倫理」を説いている。

Anders Sandberg、"Pandemic Ethics: the Unilateralist Curse and Covid-19, or Why You Should Stay Home," March 4, 2020.
http://www.bioethics.net/…/pandemic-ethics-the-unilaterali…/
氏が名付けるところの「一方向性の災厄(unilateralist curse)」状況では、人々のインセンティヴが一方に向けて過剰になる。つまり、人々が一斉に同じ行動を取ることによって、その問題の解決にとっての社会的な最適値よりもずっと高い/低い結果がもたらされる。そういう状況が予想されるときには、迷ったらとにかく家にいろ、大組織はリモートワークできるインフラを整えろ、という主張がなされる。結論自体は常識的ですね。
 
この「一方向性の災厄」については、以下の論文で詳しく論じられている。ボストロム先生とかいて、なんか豪華メンバーね。
Nick Bostrom,Thomas Douglas, Anders Sandberg, ”The Unilateralist’s Curse and the Case for a Principle of Conformity," Social Epistemology, 2016 Jul 3; 30(4): 350–371.
https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pmc/articles/PMC4959137/
ややこしいので細部はすっ飛ばすけれど、オークションでやたらに高い値段がついてしまうような「勝者の災厄(winner's curse)」状況と似たものと考えればわかりやすい。落札という目標=インセンティヴがはっきりしているところに人々が集まるとヒートアップしますよねという話。パンデミックを予防する、あるいはそこで被害を最小限に食い止める、といった目標が共有されている状況でそれが起こらないようにするには、セッティングを組み替えて人々のインセンティヴをうまく「散らす」ことが大切である。上に述べた、家にいろとかリモートワーク環境を整えろというのはそういう取り組みの例である(論文ではもっといろんな可能性が検討されている)。リスク対応にあたってはインセンティヴ整合的な制度的権限配分を行うべき、とする ヴァーミュールの名著『リスクの立憲主義』も、サンドバーグのように予防寄りではないにせよ、発想そのものは似ている。というのは無理矢理の宣伝。
 
これの何がどうリバタリアンかというと、そういう情報環境は市場的に実現されるという話になるんじゃないかと思うけれど、そういうことまでは論じられていないし、あまりそんなこと言っても雑な話になりそうなのでこのへんで。
 
【追記】
twitter 等でいくつか反応をいただいた。まず、本稿で紹介している話がリバタリアンに特有のものかというと、もちろんそんなことはない。多くの法・政治哲学的な立場が踏まえるべきものといえる。異なった立場からも使える知見はそれだけ有益である。
 
そこで「リバタリアン特有の」何かを求めるのは、リバタリアンな原理から導出されない外在的なものを利用するのはその論理的一貫性を損なう、という過剰な要求に基づく批判であろう。こうした批判は生産的でない。リバタリアニズムは当然ながら多様な思想の集合である。私は自然権リバタリアニズムを支持するが、帰結主義リバタリアニズムも左派リバタリアニズムリバタリアンパターナリズムも、それぞれ魅力的な構想である。内的な整合性は当然に問われるにせよ、リバタリアニズムが本記事のような帰結的考慮を許さないわけではまったくない。そうした多様性をもって、リバタリアニズムにはリベラリズムと比べて「核 core」がないとする批判もあるが、これも不当である。「善に対する正の優位」というロールズ以降のリベラリズムの基本原理を受け入れるリバタリアニズムリベラリズムの特殊構想であって、むしろリベラリズムの雑多さに比べればより明確な思想群である。
 
本記事で紹介した議論が「リバタリアンでない」と批判するのであれば、インセンティヴの分散のような手段がリバタリアニズムの何らかの原理から導出されないことを論難するのではなく、リバタリアズムはこうした手段をそもそも利用できない、と主張するほうが内在的であろう。むろん、その場合、批判の照準はリバタリアニズム一般ではなく、より特定されたリバタリアニズムの構想に当てられなければ単なる藁人形論法となる。