tkira26's diary

吉良貴之@法哲学のブログ。

「裁判と時間」『現代思想』2023年8月号

本稿は 『現代思想』2023年8月号 に執筆した論文の転載である(許可済)。基本的に掲載時のままだが、若干、誤字を修正し、文献情報を追加した。また、ブログの仕様上、表記に変更が生じた箇所がある(傍点による強調は太字で代用した)。

1. 法と時間

 「法」は社会に時間の秩序をもたらす企てである(法による時間性)。単純な例でいえば、何日までに履行するようにという契約は、その「何日まで」をどう数えるかという公定の時歴があってはじめて可能になる。そして、法はそうした時間性を確立するために特有の内在的な時間構造をもっている(法における時間性)。たとえば、立法は将来の公共的価値を現在において先取りする企てであり、裁判は過去の事実を現在において規範的に認定し、評価する企てである(吉良 2009)。本稿でいう「時間」は法の外にある直線的な時間のことではない。法によって作り出され、それが反照的に法に影響を与えるような時間のあり方を指している。時間は法において生きられる(Chowdhury 2020, chaps. 1-2)

 本稿ではこうした「法」の見方によりながら、特に裁判についてアメリカと日本のいくつかの例を見て、法と時間がどのような関係にあるかを考えていく。

 人間の生が有限であるという事実は人々の社会的生活にとって少なからぬリスク要因である。そこで法は、生身の人間が急死したとしてもなお生き続ける「法人」という擬制を創出することにより、生物的な事情による混乱が生じないようにした。法はあらゆる分野で、生身の人間の人生の時間的範囲を超えた安定性を社会にもたらすための自己超越の試みを行っている。簡単に言い直せば、法は生物としての人間にはいかんともしがたい偶然性を、時間を人為的に伸び縮みさせることで飼い慣らそうとする。

 そうした偶然性をどのように飼い慣らすか、つまり法的な時間をどれぐらい伸び縮みさせるのかは、それ自体が法的な争点となる。法的な時間は短くなったほうが都合がよいこともあるし、長くなったほうがよいこともある。時効をめぐる争いを考えてみればそれは明らかだろう。「権利の上に眠る者は保護に値せず」という有名な法格言は、権利主張にあたっての時間的な規範について一つの立場を表すものとして理解される。ここで断言するならば、裁判とは時間をどれぐらい伸び縮みさせるかの争いである

 この時間は過去だけでなく、将来に向かっても伸びる。法は生物としての人間の限界を超越する技術を持っているといま述べたが、将来志向の政策形成訴訟はいまや珍しいものではない。環境問題にあたっては数百年から数万年にわたる法的主体の擬制さえも有効になることもある。実際、自然の権利主体性を認める判決も一部の国では出ている(Einhorn 2022)

 

2. 刑事責任と時間

 日本国憲法において最高裁判所は「一切の法律、命令、規則又は処分が憲法に適合するかしないかを決定する権限を有する終審裁判所」である(第81条)。ある法律が憲法違反であるならば、具体的な事件に即してそれを無効にする違憲立法審査権を有すると解されている(付随的違憲審査制)。しかし日本国憲法の施行後しばらく、それが行使されることはなかった。民主的に選挙された代表によって構成される国会が作った法律を、民主的正統性に乏しい司法が覆す権限など実はないのではないか。長年にわたる憲法実践の積み重ねは、違憲立法審査権の内容をそのように名目上の、あるいはせいぜい理念的なものとして理解すべきだという主張の根拠になりえたかもしれない。時間は法を変える。実際、そうした長年の慣習がほかならぬ憲法秩序の一部として理解される例もある。国会運営についての国会法やその他の慣習はその典型である。

 違憲立法審査権についてそうした懸念がもしかしたら、と思われていたかもしれない1973年、つまり日本国憲法施行から26年後になってやっと、尊属殺人の刑罰を死刑と無期懲役に限っていた尊属殺重罰規定が憲法第14条の平等規定に反するという、初の法令違憲判決が出された(最大判昭和48年4月4日)。刑法第200条の尊属殺重罰規定はその後、適用されないまま22年後の1995年まで残り続けた――こうした「死文」が果たして「法」なのかそうでないのか、ということも論点になりうる。

 この事件では、被告人の女性が実父から長年にわたって性的虐待を受け続けた後の衝動的な犯行であることにつき、情状酌量による減刑の可能性が争点になった。尊属、つまり自身の時間的祖先である父母や祖父母を敬うべきだという家族規範もさることながら、ここでは責任の根拠について2つの逆方向の時間性が考慮されている。つまり、長年にわたる性的虐待という背景があること、その一方で犯行自体は計画的ではなく衝動的であるという、時間的に長い事情と短い事情の双方を責任軽減のための考慮要素としている。近代的な刑法においては、ある主体が相応の熟慮のうえで罪を犯すに至ったこと、つまり規範侵害が十分な意思決定プロセスを経てなされたがゆえの悪さが責任要素として重視される。そのプロセスは長い時間(長年の虐待)と短い時間(衝動性)の双方によって不十分なものとなり、したがって責任軽減の要素となる(もちろん、長い時間をかけて熟慮したうえでの行為が「計画的犯行」として重く評価されることもある)。刑法における責任主体性は、このように複数の時間性によって評価される。つまり、刑法的な主体性は刑法的な時間性によって伸縮し、それに応じた責任が課される。

 近年のアメリカの裁判例では、ドメスティック・バイオレンスの被害者が加害者に反撃した殺人事件につき、長期間の暴力にさらされたことによる判断能力の低下などの「被虐待症候群(Battered Person Syndrome; BPS」を免責要素とするものが目立っている。これも刑法的主体を特定の犯行時点における時間性ではなく、より長い時間性のもとで捉える動きといえる。

 日本でも、刑事立法はかつて「ピラミッドのように沈黙」していると言われるほどであったが、近年は目まぐるしい動きのなかにある。2022年には刑法が改正され、懲役刑と禁固刑が「拘禁刑」に一本化されることになった(3年以内に施行予定)。これは刑罰の目的を「懲らしめ」から「更生」へと大きく転換するものであり、刑事裁判も個々人の事情に応じた将来志向のものとなることが求められるだろう。これは立ち直りにとって無意味な刑罰を減らすという点ではよいことだろうが、裏を返せば、犯行に至るまで、そして立ち直りに至るまでの長い時間にわたって本人の状況を考慮し、個々人にカスタマイズされた刑罰を課すということでもある。刑罰権力の時間的遍在化の危うさにもまた注意が必要である(【追記】関連する書評)。

 

3. 親子関係と時間

 民事の例でも、ある子の「親であること(parenthood)」はいかなる根拠によるのかという問題について、法的な観点にとどまらず、哲学的にも激しい議論がなされている。ある子を出生させるに至った因果経路を根拠とする「因果説」や、親という社会的役割を受け入れることを根拠とする「自発説」などがある(議論状況について参照、坂本 2023)。

 哲学者のアンカ・ゲイアスは論争的な問題提起として、親になる権利はもっぱら子の養育にとって最善の者に割り振られるべきであるという主張を行っている(Gheaus 2021; より精緻化する方向でのコメントとして、Tomlin (2023))。これは子の養育にとってよりよい帰結となるのであれば無関係の第三者に親権を割り振ることを許容するものであり、生殖に関与した親候補者の意思や行為を直接的な考慮の対象としない点で一見したところラディカルな提案である。しかし、この議論の要点は実際に無関係の第三者に、ただ子を養育する能力があるという理由で親権を割り振ることにはないだろう。妊娠期間において懐胎者は数ヶ月にわたって胎児と持続的な関係に入るのであり、その時間的重みは出生後の養育においても無視できないとされる(これは授精者である男性にとって不利な事情といえるが、それがよりよい関係性を築くように努力するインセンティヴになりうる)。これは当初のラディカルな提案を直観適合的に落ち着けるための予備的議論という性格も否めないが、いずれにせよ親子関係を一時点的な行為や同意によって根拠付けるのではなく、一定の時間をかけて「そして親になる」ものであることが強調されている(他に、自発説を発展させながら、親役割の受け入れが時間をかけた関係論的なものであることを強調するものとして参照、Lange (2023))。

 親子のあり方についてのこうした関係論的な見方は、近年の法実務的にも広く見られるものである。たとえば「ハーグ条約国際的な子の奪取の民事上の側面に関する条約)」は1983年に発効し、日本もかなり遅れて2013年に締結し、関連する国内法の整備が進められた。この条約は、国際結婚をした夫婦が離婚した場合の子の監護権の判断は、原則として子の居住国において行うことが子の利益にかなうと捉え、それに反して一方が子を自身の出身国に連れ帰ってはならないとするものである。これは一対一の親子関係だけでなく、出生後にはその居住地で多様な関係性が育まれることを重視している。日本では親権に関する法制度上の違い(共同親権/単独親権)や、DVやネグレクトへの懸念、また母子関係を中心的とする伝統的家族観など、さまざまな点から消極的な論調が目立っている。もっとも、こうした対立自体、親子関係が単に一時点的な行為や同意によっては基礎付けられない、より持続的な関係のもとにあるという枠組みを共有したうえで、その範囲や相手をめぐってのもの(さらにいえば出生の前後でそれがどれだけ変わりうるか)であるといえる。

 もちろん、こうした親子の関係論的な変化が望ましいものかどうかは必ずしも自明ではない。たとえば、第三者からの精子提供によって生まれた子が生物学上の「本当の親」を知りたいという、「出自を知る権利」はどこまで保障されるべきか。これは精子提供者のプライバシー権との兼ね合いで難しい問題であるが、近年、ヨーロッパ諸国を中心に、子の権利を厚く保障する方向での法整備が進んでいる(「匿名出産」を保障する伝統のあるフランスではいまだ消極的であるなど、程度の差はある)。しかし、親子の持続的な関係を重視する見方からすれば、精子提供以外に生殖に関わっていない者についての「出自を知る権利」を正当化することは難しくなる。むろん、「出自」という言葉からすぐさま想起されるように、そこでは親子の持続的な関係性とはまた異なった時間性の価値が主張されているのであり、それに応じた正当化根拠が必要とされる。

 

4. 法解釈と時間

 ここまで刑事・民事それぞれの例で、法的判断にあたっての争点が、実のところいかなる時間性を法的に評価すべきかという争いでありうる場合を見てきた。裁判官は目の前の事件を解決するため、さまざまな時間性を比較衡量するといえる。もっとも、そこでの時間性は、個別の事件で争点になっている時間性(冒頭に述べた「法による時間性」)だけではない。裁判官は紛争を法的に解決するために、当然ながら法を参照する。ここでいう「法」には制定法だけでなく、判例はもちろん、さまざまな慣習や条理といったものが含まれる。異なった時間性をもった「法」のどれを使うのかが判断されるのである。

 念のため付け加えると、ドイツ自由法運動やアメリカン・リーガル・リアリズム諸派が暴露したように、実際のところ裁判官は勝たせる側を最初からその日の気分とか出世への思惑などで決めているのかもしれない。日本でも1950年代に裁判官の判断の主観性をどう捉えるかをめぐって「法解釈論争」が展開された。もし、判決が裁判官の主観的な価値判断にすぎないとすれば、実際に書かれる判決文はどういうものなのか。あらかじめ結果が決まっている判決で参照される法は、予告された殺人の記録を叙述していくような後付けのものでしかないのだろうか。

 こうしたリアリズム的な見方にも一抹の真実はあるだろうが、ここから汲み取るべきことは、裁判官の人間らしい恣意性(だけ)ではなく、たとえ結果が決まっているとしてもそれらしい外見を取り繕うために法的な論理を構築しなければならないという、法の規範性である。そこにおいて裁判官は自身の判断を法に適合させる努力をしている。

時間的に全体論的な法解釈

 裁判官はリアリズムが暴露するように気分で判決を下すのでもなければ、法哲学者H・L・A・ハートが指摘したように法の空白において自ら立法しているのでもなく、あくまである種の法の規範性の制約下にあると主張したのが法哲学者ロナルド・ドゥオーキンであった(Dworkin 1986)。そこで主張されたのは、裁判とは制定法や判例だけでなく、あらゆる政治道徳的根拠をすべて使っての解釈的正当化の営みであり、裁判官は当該共同体の法の総体を最善の光によって照らし出すような判決を下すという全体論(holistic)な見方である(「インテグリティとしての法」)。ドゥオーキンは法解釈を異なる作者によって書き継がれる「連作小説(chain novel)」にたとえるが(実際にそうした小説はほとんどないので、作者が亡くなった後も新作が作られ続けるアニメ作品のほうがわかりやすいかもしれない)、いずれにせよ裁判官は、その法共同体の歴史の最先端に立って、個別の事件解決の判断をその法共同体の総体に適合させようとする。

 こうした見方が、現実の裁判官の行っている営みをよく捉えたものであるかというと、ドゥオーキンが例に出すような憲法的価値をめぐる激しい対立の場面ではそう見えるかもしれないし、日常的な裁判にあてはめるにはあまりに壮大すぎるかもしれない。いずれにせよ、英語圏法哲学では1990年代から 2000 年代にかけて、裁判官は法解釈の名のもとに何をしているのか、あるいは何をすべきなのかということが、法と道徳の関係という古典的な論点を洗練させる形で激しく議論された(いわゆる「法実証主義」論争:Coleman (ed.) 2001)。もっとも、それぞれの主張が描き出す法のあり方や裁判の営みは「そういう面もある」としか言いようのないところもあり、何を示せば議論に「勝った」ことになるのかわかりにくいことも否めない。ドゥオーキンやジョセフ・ラズといった、論争の中心だった人物の逝去もあって(特にイギリスでは)こうした議論は下火に、あるいは少なくともより多様なテーマのもとで論じられるようになっている(本稿の関心から重要なものとして、法の「計画」理論を唱える Shapiro (2011) など。【追記】近年の重要文献一覧)。

原意主義を超えて?

 他方、近年のアメリカではリベラル派であったドゥオーキンの遺産が保守派によって簒奪されたかのような、いささか奇妙な事態も生じている。これには前史があり、アメリカでは 1980 年代以降、司法におけるリベラル化が進むにつれ、保守派判事たちがそれに対抗して拠り所とする解釈理論として「原意主義(originalism)」と呼ばれる立場を発展させてきた。これには多少のヴァリエーションがあるが、基本的には、アメリカ合衆国憲法が制定された当時の憲法の意味を解釈基準とすべきというものである。これはリベラル派による権利拡張の動きに対する後退戦術という意味合いの強いものであった。

 しかし現在、ドナルド・トランプ前大統領による保守派の3判事の任命もあって、連邦最高裁での保守/リベラルの力関係は逆転し、司法の保守化が進んだとされる。保守派の判事としてはもはやリベラル派に気兼ねする必要はない。原意主義のような後ろ向きの解釈方法論によるのではなく、より前向きの主張を行うようになっている。その象徴的なものが、女性の人工妊娠中絶の権利を認めた Roe v. Wade 判決(1973年)を破棄した、2022年の Dobbs v. Jackson Women's Health Organization 判決であるとされる。

 こうした動きを素早く理論化した論者として、保守派の公法学者エイドリアン・ヴァーミュールがいる。ヴァーミュールはもともと原意主義に近い「テクスト主義(textalism)」と呼ばれる立場の論者であったが、それは不確実な事態に対応するにあたって立法や行政に比べて制度的能力に劣っている司法が、背伸びすることなく採用しうる解釈戦略として提示されたものであった(Vermeule 2006)。これは振り返ってみれば保守派判事の劣勢を糊塗する狙いもあったのだろう。もはやその必要がなくなった2020年、ヴァーミュールは「原意主義を超えて」(Vermeule 2020)という論考を発表し、「共通善立憲主義(common good constitutionalism)」という司法積極主義的な立場に転換するに至った。これは後の新著で全面的に展開されることになる(Vermeule 2022)

 そこで主張されているのは、かつてドゥオーキンが主張した、法共同体の総体を最善の光で照らし出すような全体論的な解釈戦略である。かつてドゥオーキンが強調したのは「平等な尊重と配慮」というリベラルな「原理(principle)」であった。しかしヴァーミュールは、同じ解釈戦略を採用するとしつつ、そこでの原理に「共通善」という保守的価値を代入した。これは「右派ドゥオーキン主義」として賛否両論の的になっている(吉良 2021)。ヴァーミュールとの共著のある公法学者キャス・サンスティーンも、2022年の Dobbs 判決はテクスト上の根拠だけでなく、慣習や原理、制度的能力など、解釈資源として使えるものはすべて使っている点でもはや原意主義ではなく、ドゥオーキン的であると評している(Sunstein 2022a)

アメリカ司法の保守化?

 こうした議論は一見したところ、最近のアメリカ連邦最高裁の保守的な判決をよりよく捉えたもののように思われる。実際、Roe判決を破棄したDobbs判決の法廷意見は、この判決が保守的な転換と見られることのないよう、過去の判例との連続性を述べることに力を注いでいる(Roe 判決はむしろ逸脱であったと)。また直近、ハーバード大学における人種別アファマティブ・アクションを平等原則違反とした2023年6月の Students for Fair Admissions v. Harvard 判決も、関連する判例をただ覆すのではなく、その延長上に時代の変化を位置づけようとする慎重さが見て取れる。

 そういった判決が目立つ一方、トランプ大統領が任命したゴーサッチ、カヴァノー、バレットの三判事はむしろ従来の禁欲的なテクスト主義を維持しているようでもあり、保守派が期待していたほどには振り切っていないようである。ロバーツ長官と合わせた四人で中道保守ブロックを形成し、連邦最高裁の構成としてはむしろリベラル寄りになっているという分析さえもあるNew York Times 2023, July 1)。即断は禁物だが、アメリカ連邦最高裁判事には終身制による強い身分保障があり、そのためもあってか、任命者の思惑に沿った判決を出すとは限らないことはよく指摘される。裁判官の人事制度が裁判官の判断にも影響を与えるということである。

 付言すると、日本の裁判官はかつて、国に不利な判決を出すと出世できないため保守的になりがちだということがよく言われたが、少なくともデータ上の明確な傾向はないようである(新藤 2009)。しかし、人事評価の不明確さがもたらす影響は検証すべき課題といえるだろう。

原意、伝統、共通善

 「アメリカ司法の保守化」は単純な人数構成ではなく、より丁寧に見ていく必要がある。公法学者のマッシモ・フィチェーラは、アメリカ司法の代表的な保守的立場を「原意主義」「伝統主義」「共通善立憲主義」の3つに分類したうえで、いずれも「アイデンティタリアン(identitarian)」志向によって共通しており、その違いはどの時代を模範とするかという程度問題にすぎないとまとめている(Fichera 2023)。原意主義はアメリカ合衆国憲法の制定時および修正時の意味を解釈基準とするが、伝統主義はそれよりも遡ることを許容する。実際、Dobbs判決法廷意見はコーク、ヘイル、ブラックストーンといった名前をあげながらイギリスのコモン・ローの伝統に自身を位置付けている(アメリ憲法のコモン・ロー的伝統について他に参照、Parker (2011)、 清水(2023))。フィチェーラは特に、ヘイル(Matthew Hale)をここであげることで民衆の法理解を重視する歴史法学的・ポピュリスト的系譜への接続がなされていると主張している。実際、現在のロバーツ長官は連邦最高裁の民主的正統性、つまり世論の支持を得ることに心を砕いているとよく報じられている。人数構成上の保守性が露骨になったがゆえに、公正さの外見を作り出す動機が逆に強くなることも十分にありうるだろう。

 共通善立憲主義は前述のヴァーミュールらの立場であるが、これはアメリカ合衆国憲法が実現すべき「共通善」の起源を中世ヨーロッパの教会法、さらにはローマ法に遡らせている。フィチェーラの分類によるならば、保守派にとってアメリカ合衆国憲法の制定時は必ずしも特権的な固定点(fixed point)ではない。より強力な固定点を求めて歴史的資源を探求しているのが現在のアメリカの保守派の議論の特徴といえるだろう。これは保守派に限ったことではなく、リベラル派の側も人種別学を違憲とした1954年の Brown v. Board of Education of Topeka 判決にその地位を与えようとしていると診断される(Sunstein 2022b)。ここにおいて保守派とリベラル派の対立は、憲法史のどの時点にくさびを打ち込むかという、歴史をめぐる対立へと変貌している(Sunstein 2023)。こうした議論状況を踏まえれば、リベラル派の判事がときに原意主義的論拠に訴えかけるのも奇異なことではない(Baude 2020)。また、このくさびは必ずしも過去のどこかに打ち込まれるべきものでもない。将来の公共的価値の実現に向け、これから進むべきどこかに打ち込むこともできるだろう。それはたとえば、将来世代や自然の権利主体性を認めるといった形で考えられる。

 

5. 判決と時間

 「すべて裁判官は、その良心に従ひ独立してその職権を行ひ、この憲法及び法律にのみ拘束される」と日本国憲法第76条3項は定める。ここでいう「独立」は美しい理念だが、現実の裁判官はさまざまな影響を受けながら判断を行っている。合議体ではもちろん、対等な立場ではあるが他の裁判官の意見を聞くことになる。報道やSNSから担当事件に関わる情報を得ることも事実としてある。

 1955年、当時の最高裁長官・田中耕太郎が「裁判官は世間の雑音に耳を貸すべきでない」という旨の訓示を行い、賛否両論を呼んだこともある。裁判官が国民世論に左右されすぎるのもよくないだろうが、かといってまったく無視してよいとも言いにくい。一般論としては参考にしつつ、個別の事件については適度な距離を保つべき、というのが常識的なところだが、その切り分けはもちろん難しい。蛇足になるが、裁判員裁判の目的として、裁判に一般人の常識を取り入れるためという説明がなされることもある。裁判員裁判の目的は「司法に対する国民の理解の増進とその信頼の向上」(裁判員法第1条)とされており、そうした説明は(誤りと断言する必要もないだろうが)正確なものではない。しかし、それが流通しているということは、裁判官の(浮世離れしたエリート?)意識と一般人の常識には距離が生まれがちだというイメージが広範にあることの表れではあるだろう。

同調圧力、システム効果

 先に触れたサンスティーンは、合議体の裁判官のイデオロギー的な構成による影響を例に出しながら、「同調圧力」が判決においても生じることを論じている(Sunstein 2019, chap. 4)。範囲を個別の裁判から広げて見た場合、「判決カスケード」という興味深い現象が起こりうることも指摘されうる(「カスケード」とは数珠つなぎに連続するもの)。たとえば、ある画期的な判決が出た途端、同様の判決が続けざまに出るようなことを指す。こうしたことが望ましいかどうかというと、もちろん両面がある。イデオロギー的な偏りによって硬直した判決が続くような場合には、認識的な多様性が確保されるような工夫が必要だろう。サンスティーンの言葉でいえば、よい「ノイズ」をもたらす仕掛けだが、それはたとえば裁判官の人事制度の改善から、具体的な訴訟戦略のあり方までさまざまにありうる。

 一方、同じような判決が続く判決カスケードが望ましい結果につながる場合もありうる。日本の例でいえば、2013年は非嫡出子相続差別違憲決定など、いくつかの重要な判決や立法があったことで「家族法の年」と呼ばれた。しかしその流れは止まることなく、この十年間ほどずっと、家族法領域では大小さまざまな判決や立法が次々になされている。選択的夫婦別氏制や同性婚の是非など、いまだ最高裁による違憲判決には至っていないものの、10年以上前とは比較にならないほどに踏み込んだ言及がなされるようになっている(2023年時点では、同性婚の是非をめぐって地裁で続けて複数の違憲判決が出るに至っている)。家族法領域以外でも、「一票の格差」訴訟はそうした判決カスケードの例といえるだろう。短期間に多くの同様の訴訟を起こすことで判決カスケードを狙うことは訴訟戦略として十分に合理的なものとなっている。

 もちろん、こうしたやり方には批判があることも事実である。民主的政治過程を通じて実現すべきことを、迂回して裁判によって実現しようとするのは、裁判の本来の使い方ではないのではないか(この点は、たとえば同性婚訴訟でいえば、家族制度のデザインとして捉えるならばそうした反発が出てきやすいし、あくまで人権問題であると捉えるならばむしろ民主的政治過程では救済されないマイノリティの人権を守るという、きわめて本来的な司法の使い方と評価されうるというように、根本的な部分で理解の相違が横たわっている)。しかし、判決カスケードは司法の領域にとどまるわけでは必ずしもない。法システムは各領域で相互に影響を与えあっている(Vermeule 2006)。踏み込んだ判決が続いて出ることによって刺激され、立法や行政の対応が進むこともよくある。悪い同調圧力による判決カスケードであればそこで抑制的なバランスが図られるだろうし、国民の支持を十分に得た判決カスケードであれば、最高裁違憲判決を待たずして立法あるいは行政によってその価値が実現されることもあるだろう。そうした「動態的権力分立」を見据え、望ましい裁判のあり方を考えていくことが重要である。

 

文献

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