tkira26's diary

吉良貴之@法哲学のブログ。

「世代論、運命論、責任論――特定の世代を対象とした公共政策を語るために」『現代思想』2022年12月号

本稿は  『現代思想』2022年12月号 に執筆した論文の転載である(許可済)。誤字や文献情報を若干修正したほかは、掲載時のままである。ただし、ブログの仕様上、表記に変更が生じた箇所がある(傍点による強調は太字で代用した)。

 

1 世代論の困難

 世代論の語りにくさから始めよう。

 たとえば社会保障の文脈で、高齢世代と若者世代の受益と負担の格差という「世代間格差」が語られるとき、すぐさま「世代間対立を煽るべきではない」という異論が発せられる。受益超過の高齢世代がそうした主張をするのはまだしも、むしろ損をしているはずの若者世代の側が率先してそうした主張をする例も数多く見受けられる。それはなぜなのか。

 もちろん「高齢世代」「若者世代」といった括りが大雑把すぎるということはある。「世代」は年齢で区切られた人々の集団(コホート)であるが、そのなかには当然にも多様性がある。高齢世代といっても資産の有無などはさまざまであり、一概に受益超過とはいえない。世代格差も厳然として存在する。にもかかわらずそれを一括りにし、「逃げ切り」を図ろうとする悪者であるかのように扱うことは、端的にいって許されざる差別ではないか。これは若者世代の側にもあてはまり、若者たちの多様性を無視し、勝手に被害者にするなという反発が生じるのも理解できる。また、後でも論じるが、「世代間格差」という問題を立てるとき、実際には別の要因によって生じている格差を「世代」という誤った単位で語ることによって、真の問題(たとえば階級、民族、ジェンダー、障害の有無などによる格差)を隠蔽することにつながらないか。

 こうした懸念はある程度、理解できるものである。しかし、経済学者ローレンス・コトリコフが開発した「世代会計」が示すように、年齢で区切られた集団によって受益と負担の格差があることも明らかではないか。また「団塊の世代」「全共闘世代」、本特集が主たる対象とする「氷河期世代」、そしてSNSを使いこなす「Z世代」など、実際に私たちは特定の年齢集団について「○○世代」という言葉を自然に使っている。もっとも、次々に現れる「世代論」はしばしば安易であるし、「ゆとり世代」のように侮蔑的なニュアンスをともなうこともあり、そうした議論が世代論への否定的な反応につながっていることも事実だろう。しかしそれを差し引いてなお、「世代」を規範的に語ることに不穏なものがあるのはなぜだろうか。ここで「不穏」というのは、ただ反発されやすいということだけでなく、その裏返しとして 世代論には一定の抗しがたい魅力もある ことを指している。

 ここで本稿に与えられた課題を明らかにすると、特定の世代を対象とする公共政策はいかにして正統でありうるか という問題なのだが、公共政策がある程度の一般性をもってなされる以上、それによって受益と負担の不均衡が生じるのはもともとやむをえないことといえる。たとえば災害からの復興を目的とした公共政策など「地域」を対象とする場合、被災地域とそれ以外、あるいは被災地域のなかでの損得は当然に生じうるが、それをことさらに問題化する主張は多くないように思われる(もちろん、軍事施設や原子力関係施設の地域的偏りなど、高度に政治的になりうる種類の問題はあるにせよ)。もし、そこで何らかの不均衡が生じうるとしても、それは再分配政策など別の手段によって補填が可能であるし、そうせざるをえないのが公共政策の特徴であるとさえいえる。このように考えていくと、「世代」で人々を区切り、それを公共政策の対象とすることに大きな問題はなさそうに見える。しかし、この程度の類推では先述の不穏さはいまだ払拭されたとはいえないだろう。

マンハイムの世代論

 何が世代論を不穏にさせるのか。社会学での世代論の始まりとしてよく位置づけられるカール・マンハイムの論文「世代問題」(Menheim 1928)は、マルティン・ハイデッガーの『存在と時間』の次の記述を引く。

運命は個別にあるのではなく、またいくつかの主体の相互の生起によってともに/おたがいに把握されうるものでもない。運命は同じ世界において、また無限の可能性への決意において、ともに/おたがいに、あらかじめ導かれている。コミュニケーションと闘争のなかで運命の力はまず自由になる。現存在の運命は、その「世代」のなかで/それとともに、現存在の完全で真正な生起をもたらすのである。(Heidegger 2002 [1927], §74、吉良訳)

マンハイムはここから、「世代」を文化的経験を共有する集団として捉える。この経験は当該年齢集団が、人生のある時期、とりわけ若年の人格形成期において共通に経験するものである。その例としては、戦争や学生運動といったことから、2000年前後の就職難、今般のコロナ禍といったことがあげられる。ある年齢集団に属する人々が人生の最もインパクトの大きい時期にそうした特異な経験をすることは、偶然としか言いようがなく、したがって一回限りの運命という意味合いを帯びる。付け加えると、マンハイムは「世代」という言葉によって、「新しい文化の担い手たち」を若干の距離をもって対象化している。次々に現れる「世代論」の多くが、不可解な若者たちを大雑把に名指すものとして語られる――それゆえの魅力もあり、また反発も受けやすい――という特徴をよく把握したものといえるだろう。

世代論‐運命論‐責任論のトリアーデ

 このようにして世代論と運命論が重なり合うとき、個々人は「世代」という大きな自我へと溶融していく。あるいは、幸運にもそこで例外的に成功した人生を送った者は、運命に打ち勝った自己決定主体という意識を強く持つことにもつながる――実際、「氷河期世代」のなかの「勝ち組」が過度に「新自由主義」的な「自己責任論」を唱えるに至ることは珍しくない。また、そうした共有体験はまさに一回的な運命であるがゆえに、その世代に属さない人々からすれば理解しがたい、それどころか、自分たちはもはや決してアプローチできない経験をことさら誇示されるように思えて反発の対象ともなっている。

 「世代」は、それに属する者にとっては運命的な経験を共有し、自身がそこへと溶融する大きく甘美な自我であるとともに、それに属さない者にとっては理解不可能な経験によって特徴づけられる忌むべき対象となる。そこで世代多様性を強調するとき、運命論との対置においては、そこから逃れた個々人の責任論を浮上させかねないことにも注意が必要である――世代論に慎重になるとき、(たとえば公共政策における)責任感応性をどう受け止めるかという課題が生じるということである。世代間の格差や対立を語るときには、こうした厄介な構図からどう逃れるかという点に意識的でなければならない。「世代内にも多様性がある」「勝手に代表するな」といったよくある反発は残念なことに、こうした世代論‐運命論‐責任論のトリアーデを強化しかねない。

 

2 世代間搾取?

 現代の法・政治哲学で「世代間正義(intergenerational justice)」が議論されるとき、① いまだ/もはや存在しない将来世代・過去世代の関係を問う場合と、② 同一時点で存在する異年齢集団間の関係を問う場合がある。① の場合、重複世代を無視するならば、現在世代は将来世代に対して(少なくとも一見したところ)一方的な影響力を有することから、現在世代の責務を問題にすることになる(過去世代や将来世代にも現在において義務があるという主張も可能ではあるが、特異な超世代的共同体を想定しなければならない)。それに対し、②の世代間格差を論じる場合、前節で述べたような困難ももちろん、仮に異年齢集団を「世代」として分けることを受け入れてもなお、その政治共同体全体での正義とはまた異なった意味での「世代」間の正義がありうるのかという問題が生じる。各世代は同時点で存在する以上、相互に影響を与えることができ、一方的な支配関係にはない。社会的格差を問題にするにあたって、わざわざ「世代」という不穏な概念を用いずに済ませられるならばそれに越したことはない。実際、ここ数十年の間に一気に精緻化が進んだ英語圏の政治哲学においてはまず同時代の無時間的な関係に焦点が当てられ、次に将来世代との関係が論じられるようになったが、同時代の年齢集団間正義が論じられるようになったのは最後だったという嘆きもある(Bidadanure 2015)。もちろん、世代間格差のように見えるものも同時代の無時間的な正義論によって語りうるのであれば、あえて問題を増やす必要はない。世代間格差に固有の問題領域は本当にあるのだろうか。

 現代正義論の隆盛の契機を作った、リベラリズムの代表的論者である政治哲学者ジョン・ロールズによれば「正義」とは 社会的協働 に参加する人々がそれに服する法制度の正しさである(Rawls 1999, p. 4)。本稿では以下、正義が法制度の問題かどうかという論点は置き、各世代=異年齢集団の社会的協働のあり方に焦点を当てる。そこで人々は相互に利益を与え、また尊敬し合う互恵的(reciprocal)な関係にあることが想定される。しかし、同時点で存在する各世代間の関係において、年長の先行世代が年少の後続世代に一方的に不正な影響を与える状況があるならば、そこではロールズ的な意味での互恵性に反し、後続世代の尊厳が損なわれることになる。そうした状況を政治哲学者のニコラ・マルキーンは「世代間搾取(intergenerational exploitation)」という言葉で表現している(Mulkeen 2022)

 この「世代間搾取」という言葉は、ずいぶんときつい印象を受けるかもしれない。マルキーンのいうところ、たとえば今般の新型コロナウイルスパンデミックによって、若年世代は就職難に苦しんだり、経済復興のための公債負担を今後ずっと背負うことになるだろう。もちろん、パンデミックは全世代的に甚大な影響を与えている。高齢世代は大きな健康リスクにさらされたし、勤労世代は経済活動の停滞によって多かれ少なかれ打撃を受けただろう。そう考えるとパンデミックは人々にそれぞれ異なった苦しみを与えたのであり、とりわけ若年世代の被害を強調すべきではないかもしれない。しかし、そうした論法が前節で述べた世代論‐運命論‐責任論のトリアーデにあることもさることながら、不当に現在中心主義的な見方である疑いがある。パンデミックの影響は現時点だけでなく、各人の全人生、少なくともある程度の長い期間を尺度として考えなければならないのではないか――実際、長期にわたる影響が出ることは確実だからである。単純に、残された余命という点だけとってみても、若者世代がより長期にわたる税負担を強いられることは確かである。これをもって、税負担の「残り年数」が少ない先行世代が、後続世代の将来の犠牲を利用することによって経済復興の果実を得ることになるといえるだろうか。そして、それを「世代間搾取」という言葉で問題化することは適切だろうか。もし、そうしたことがいえるとすれば、余命に比例した税(つまり高齢者ほど高くなる)を導入し、若者世代の就職支援に充てるといった政策が正当化されるかもしれない。

 こうした見方に対しては、階級利害還元論とでもいうべき反論がありうる。そもそも資本主義経済の仕組み自体、次世代への際限なき先送りを最初から組み込んだものであり、現在の若年世代は次の世代に対してまた同じことをするだろう。世代の間にあるのは一方的な搾取ではなく、過去からの恩恵と負債の両方を将来に向けて引き継いでいく「入れ違いの互恵性(staggered reciprocity)」であって、仮に不正があるとしてもそれは世代間に特有のものではないのではないか。また、各世代はそれぞれに、戦争や経済危機、疫病といった危機を経験しているのであるから、特定の世代が特別に損をしているともいいにくい。むしろ後続世代のほうが進歩する科学技術の恩恵を受けているから得をしているとさえいえるかもしれない。資本主義経済において問題は世代間にはなく、資本家と労働者という階級間にある。にもかかわらず、差し引きの計算の難しい世代問題を導入することは、階級間の根本的な問題を隠蔽することにほかならない――。

年功制と資本制

 この仮想的批判はマルキーンの例を参考にしながら筆者が敷衍したものだが、マルキーンはこうした見方に対し、アイリス・マリオン・ヤング(Young 2006)以来の「構造的支配」の多元論をもって応答している。

 マルキーンの述べるところ、「世代間搾取」は多様に存在する搾取形態の一つを問題化するものである。現実には、性別、人種、障害の有無など、多様かつ相対的に独立した要素によって構造的支配が形作られているのであって、それを一足飛びに階級利害の対立に還元することこそ問題の隠蔽にほかならないという(Mulkeen 2022)。たとえばマルクス主義フェミニズムは家父長制を資本制から相対的に独立したシステムであることを踏まえ、両者の共犯関係を告発したのであった(上野 1990)。「家父長制と資本制」の結託を批判するマルクス主義フェミニズムに階級利益還元論に尽くされない意義があるとするならば、同様に「年功制と資本制」の結託を批判してもよいだろう。にもかかわらず、世代間対立を忌避しながらの資本制あるいは「新自由主義」を批判するのは――日本では2000年前後に流行した「格差社会論」以降、最近になって「格差」が「分断」という言葉に取って代わり、道徳問題の意味合いを濃くすることによってさらに強化されている論法のように思えるが――まさにその結託を温存する危険と隣り合わせではないか。ここで論点を明確にするならば、〈世代間対立を煽るのは新自由主義下での根本的な階級対立の隠蔽である〉という見方と、〈性別、人種、障害の有無、そして世代など、多元的な対立が一体となって構造的不正義を形作っている以上、階級の特権視は複雑な搾取形態の隠蔽である〉という見方のいずれが適切な問題の立て方か、ということになる。前節で述べた世代論の困難を真剣に受け止めるのであれば前者の道もありうるし、それが相対化可能なものと見積もれるのであれば後者の道が有望になるだろう。

 

3 世代間平等論

世代間格差の測定

 ここまで世代間格差を適切に問題化するための準備作業を行ってきたが、年長世代が豊かであって若年世代がどんどん貧しくなっている、というように世代間格差を描いているように思われたかもしれない。それはいかにも単純な見方だろうが、はたしてどれだけ妥当だろうか。

 世代間格差を「測定」する試みはすでにいくつかなされており、各世代の政府に対する受益(社会保障など)と負担(税金)の差し引きを棒グラフで可視化する、コトリコフの「世代会計(generational accounting)」は既に古典的な手法となっている(Kotlikoff 1992)。ほか、より細かい要素を加味した「社会支出の高齢者バイアス指標EbiSS: Elderly Bias in Social Spending)」などがあり、どういった点を考慮に入れるかによって細かい議論がなされている。しかし、少なくとも先進諸国での現存世代ではどの調査でも、高齢世代ほどプラスに、若年世代ほどマイナスになるというはっきりとした傾向が出ている。日本は高齢者バイアスが高い国のグループに属しており、2010年時点での調査では60歳前後(つまり現在[2022年12月]では70歳前後)が政府との関係での「損益分岐点」となっている(Vanhuysse 2013など)。具体的な金額はそれぞれの調査で異なっているが、こうした世代間格差をコトリコフは「財政的児童虐待」という激越な言葉で批判しているし、特に日本の場合、いまだ生まれざる将来世代まで含めれば桁違いの額になることが指摘されている(島澤 2017)

贅沢な老後のためのスパルタ式幼年期

 このように老年世代ほど得をし、若年世代ほど損をするという状況があるとして、この世代間格差は不正であって是正しなければならない、ということがいえるだろうか。考えられる反論として、そうした世代間格差のパターンが一定であり、かつ持続しているのであれば、若年世代もやがて得をする側に回るのだから、人生全体としてみれば不平等とはいえない、というものがある。若年世代が経験しているのは「財政的児童虐待」ではなく、「贅沢な老後のためのスパルタ式幼年期」(Vanhuysse 2014, p. 7)ということである。若年世代は科学技術の進歩による生活水準の向上の恩恵も得るだろうから、その点も加味すれば余計にそういえるかもしれない。

 しかし、この反論は、世代間格差のパターンが一定であるという偶然的事情に依拠しており、今後の人口動態や財政状況の変化によっては前提を失う。また、この反論の直観的な説得力は「だんだん豊かになっていく」という楽観性によっており、これが逆に高齢になるに従って貧しくなっていくような状況では、たとえ人生全体での収支は同じだとしても魅力的には思われないだろう(後に触れる「不平等都市」の例、McKerlie 2013, p. 6)。さらに突飛な想定をするならば、十年ごとに主人と奴隷のカーストを入れ替わることになっている社会は、いくら世代間平等が実現されているといっても受け入れられないはずである(後に触れる「カースト交換制」の例、McKerlie 1989, p. 479)。単純な「人生全体の平等主義(complete lives egalitarianism)」はうまくいかない。

若者支援の公共性

 こうした例は、人生全体での収支を平等にすることには意味がないことを示すとともに、どの年代が本人の人生にとって、あるいは社会にとって重要な意味を持つのかという論点を提起するものでもある。先の例でいえば、もし自分で選べるとすれば人々は人生のどの期間を豊かなほうに、また悲惨なほうに割り振るだろうか。その選択は個々人の価値観=時間選好によるだろう。しかし公共政策として特定の年齢層に資源を投入する場合には、世代間格差の形式的な是正を超えた、より実質的な考慮が必要になる。

 人生全体での収支を合わせる種類の世代間平等論に反対するための実質的な根拠として、特定の世代を救済することの社会全体への外部効果をあげる議論もある(Vanhuysse & Tremmel 2018)。それによれば、若者世代が損をしている状況があるとき、若者世代に対して就学・就職、および子育て支援を行うことには正の外部効果があるという。労働スキルの高い人々が増えれば社会全体の経済活性化につながるし、子育てが積極的になされれば人口の維持につながる。こうしたことは老年世代を含めた社会全体にとっての現在の利益になるため、公共政策として正当化しやすい。つまり、若者支援は、現状のような世代間格差がある状況では、平等の要請に加えて、実質的な根拠も強いといえる。しかしそれは、外部効果がもはや期待しにくくなった世代に対する公的支援の根拠が弱くなりうるということも意味している。つまり、中年以上の世代が若年世代と同様の貧しい状況にある場合、同様の公的支援を行うにはまた別の根拠が必要になる。

挟み撃ち

 先に紹介した世代間格差の測定においては、老年世代ほど豊かで若年世代ほど貧しいという単純な描像が示されているが、実感にそぐわないという印象も強く持たれるかもしれない。端的にいえば、中間世代(日本でいえば「氷河期世代」、本稿の筆者もそこに属している)の苦境が表現されていないからである。日本政府も近年になって「就職氷河期世代支援プログラム」を始め、就職支援などを行っているものの、世代的苦境が具体的な数値に現れにくいものであるからか、また若年世代に対する公的支援ほどの外部効果が見込みにくいからか、あまり本腰を入れたもののようにも思われない。既に「逃げ切り」を確定させた老年世代にとってそうした政策を支持する動機は薄いし、若年世代は自分たちこそ最も損をしているにもかかわらず、という思いを強く持つだろう。

 ここでふたたびマンハイムを引くならば、共通の文化的経験によって特徴づけられる「世代」論において、若年世代は新しい文化の担い手として規定されるのであった(Menheim 1928)。したがって若年世代と中年世代の断絶はまずもって文化的断絶であり、新しい文化の担い手としての自己意識を持つに至った若年世代は、すぐ上の中年世代を目の上のたんこぶとして敵視することになる――たとえば具体的には、2015年のいわゆる安保法制反対運動においてSNSを駆使する若年世代とかつての全共闘世代とが街頭デモで連帯する一方、中間世代は憎むべき保守層として位置づけられがちだったことがあげられるかもしれない(これは中間世代に属する者としての被害妄想であることを願っているが

 また、当の氷河期世代においても、就職活動に苦労したことは世代的連帯を形作るような共通の経験とはなっておらず、むしろその経験自体が成功者と失敗者とのあいだに分断を持ち込む種になっているようにさえ思われる。

 そのように考えていくと、氷河期世代は八方塞がりのようにも思えてくるし、実際、そうした絶望的な声も多く発せられている(下田 2020)。筆者としても楽観的なアイデアを持ち合わせているわけではないが、最後にいくつか、世代間平等論から示唆されることはないかを検討してみたい。

運の世代間平等論

 人がどの世代に生まれ、どのような共通の経験をするに至るのかはまったくの偶然であり、そうであるがゆえに世代論には運命論と隣り合わせであることを一節で論じた。さて自身の選択によらない「まったくの運(brute luck)」によって不利益を被るとすれば、社会的に救済の対象となりうるのではないか。こうした見方は「運の平等主義(luck egalitarianism)」と呼ばれる(簡単な解説として、Knight 2013)。これは世代間格差にも拡張できるだろうか。

 特定の世代に広くふりかかった不利益が、救済されるべきまったくの不運か、それとも自身の選択によるものとして結果を甘受すべきものなのか。両者の分けにくさは運の平等論にとってつねに悩みの種であるが、これが世代間に拡張された場合、その困難はさらに増すことになる。各世代はそれぞれに不運に見舞われてきただろうが、そこでも成功者と失敗者が必ず分かれる。その事実は、その不運が克服できないほどに強力なものではなかったという含意を持ちうる。その世代の全員が抵抗できないほどの不運があり、それによって他の世代との不平等が生じた場合には救済の余地が生じうるが(たとえば戦争による青年層の徴兵などはそれにあたるかもしれない)、氷河期世代の就職難はそうした種類のものではないだろう。

世代間関係的平等論

 以上のような運の平等主義からの議論には「福祉国家以前に戻るもの」という厳しい批判がある(Anderson 1999)。そうした関心から出発する関係的平等論は、社会正義の役割は財の分配ではなく、人々の関係性のあり方を平等にすることによって不当な支配関係から人々を解放することであるとする。たとえばジュリアナ・ビダダニュアの議論によるならば、先に紹介した、高齢者がだんだん貧しくなっていく「不平等都市」と十年ごとに主人と奴隷が入れ替わる「カースト交換制」が不正であることを示すのに時間的パズルを導入する必要はない。それらが不正であるのは同時代に存在する両者の支配関係によっている(Bidadanure 2016, p. 245)

 こうした支配関係からの解放として、関係的平等論者はしばしば民主的平等、すなわち民主的政治過程に参加する能力のエンパワメントに訴えかける(Anderson 1999)。こうした見方からすれば、氷河期世代の支援策は就労支援といった「分配的パラダイム」によるのではなく(少なくとも、それに加えて)政治に参加し、自身の声を政策へと反映させる能力の涵養といったことが考えられる。氷河期世代の問題自体は20年以上前から認識されており、しかも政治的影響力を与えるのに決して少なくない人数が存在するにもかかわらず、公的支援策が始まったのがつい最近のことであるという事態こそ、その声が政治へと届いていなかったことの証左であるだろう。先行世代の都合によって採用が極端に抑えられ、氷河期世代が十分な財産を蓄えることができず、結果として政治的に脆弱な存在へと貶められたのであるならば、いまだ先行世代が中心となっている政治的決定は氷河期世代に対して正統性を主張しえないかもしれない(安藤 2016)。それは政治的不安定性というリスクにつながる。むろん、人数としてはもはや太刀打ちできないかもしれないが、たとえば「世代別代表」として議会に枠を設けるなり、「氷河期世代委員会」といった第三者機関を作って民主的政治過程の歪みを内外から矯正する可能性は十分にありうる。

 もっとも、ビダダニュアによれば、こうした関係的平等論はひるがえって現時点の関係性のみに着目しがちだという。そこでノーマン・ダニエルズの議論(Daniels 1988)にならい、人々は全人生を通じ、慎重な見通しでもって人生計画を立てられるようにすることが、人生全体の平等主義にとって必要だとする。それはデニス・マッカーリーが時間的パズルを持ち出して批判するような厚生主義的な平等論ではなく、一定の閾値つきの充分主義的な分配を要請するものである。ビダダニュアはそのようにして、共時的な関係的平等と、通時的な希望の充分主義的保障を組み合わせたハイブリッド世代間平等論によって時間的パズルを極力避けようとしている(Bidadanure 2016, p. 254)

4 おわりに

 以上、世代論を語ることの構造的な困難を確認したうえで、中間世代たる氷河期世代の救済が困難な事情を見てきた。若年世代と同様の公的支援は望みにくい以上、氷河期世代公的支援についてはその外部効果に必ずしも依存しない世代間平等論の思想資源をいくつか参照した。最後に紹介したビダダニュアのハイブリッド世代間平等論は、① 「世代」の実体視による「世代論‐運命論‐責任論」のトリアーデと、② 時間的範囲を全人生とすることによる時間的パズルの出現の両方を避ける試みとして有効であるだろう。とりわけ人生全体を通じて「希望」を持つ能力の充分主義的な保障を重視するその主張は、「希望格差社会(山田 2004)の問題がもはや語られなくなり、代わりに「文化資本論」「親ガチャ」といった言葉によって示される運命論にしばしば流される日本の議論の状況において、一定の意義をもたらすものと思われる。

 

文献

  • 安藤馨 (2016)「世代間正義における価値と当為」、杉田敦編『講座現代4 グローバル化のなかの政治』岩波書店
  • 上野千鶴子 (1990)『家父長制と資本制』岩波書店
  • 島澤諭 (2017)『シルバー民主主義の政治経済学』日本経済新聞出版社
  • 下田裕介 (2020)『就職氷河期世代の行く先』日経BP。
  • 山田昌弘 (2004)『希望格差社会筑摩書房
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