tkira26's diary

吉良貴之@法哲学です。自己紹介はこちらから: http://jj57010.web.fc2.com

井上達夫「批判者たちへの「逞しきリベラリスト」の応答」に思うこと

1. はじめに

 井上達夫先生より、『法と哲学』第2号をご恵投いただいた。今号には多くの興味深い論考が掲載されているが、圧巻は井上先生による、瀧川・大屋・谷口編『逞しきリベラリストとその批判者たちーー井上達夫法哲学』(ナカニシヤ出版、2015年、以下『批判者』と略記)への約70ページに及ぶ「応答的書評」だろう。『批判者』は門下生たちが井上先生のこれまでの研究について、それぞれの問題関心から批判的考察を行った論文集である。井上先生の今回の「応答的書評」は同書の17本(+α)の論考すべてについて詳細な反論を行うものであり、一般的な「還暦記念論集」の儀礼的やり取りとはまったく異なった、緊張感に満ちた知的応酬となっている。

 私も『批判者』に「時間ーー入れ違いの交換可能性のもとで」(209-221頁)という論考を掲載した。内容的には特に強い批判を行うというよりも、井上法哲学の「時間的再構成」を試みたものである。これは井上先生が必ずしも明示していない前提を明らかにする点で一定の意味のある試みであると信じるが、外在的な議論であるため、特に触れられなくとも仕方ないと思っていた。が、本稿にも3ページにわたる応答をいただいたことは望外の喜びであり、心よりの感謝を申し上げたいと思う。

 ただ、その応答の大部分は私の議論と噛み合ったものとはいえず、なぜこのようなズレが生じたのか、困惑しているというのが正直な思いである。もちろん、私の論考自体、文章が散漫で議論を十分に深められていなかった部分もあったことは率直に認めざるをえない。実際、議論が始まる前に終わってしまった印象がする、という批判を他の方からいただいた。この点は反省する必要があるが、まずは井上先生の応答と私の議論とのあいだにどのようなズレがあると私が考えているかを整理しておくことにも一定の意義があると思うため、以下でそれを行う。今回は断片的な整理にとどまるが、今後の私の論考(特に出版予定の著書『世代間正義論』)ではさらなる拡充を行う予定である。

 以下、敬称を略す。参照にあたっては、私の元の『批判者』論考は「時間」と略記し、井上の応答は「応答」と略記する。

 2. 各論点について

 井上は私の論考への応答を次の4つに分けて述べている。以下でもその順番に従うこととする。

  1. 論理性と静態性の混同

  2. 時間論の哲学的意義

  3. 世代間正義と普遍化要請

  4. 批判的民主主義における時間

2.1 論理性と静態性の混同

 この部分は、井上の議論の時間構造を明らかにするという本稿の目的を示すための導入的なもので、中島義道による井上への批判的言及を紹介した。井上の整然たる論の運びに中島が「法学部秀才」的なものをかぎとったことが、「論理性と静態性の混同」あるいは「無能な研究者のひがみ」()と批判されるべきことかどうかについては留保する。いずれにせよ私はそのような印象は妥当でないと(どれだけ明快であったかはともかく)退けている。

 本節では井上法哲学の「時間」的要素はどのようなものだろうか、という問題提起を行ったのであり、それは井上の議論の論理性が凝り固まっていて発展性がないといった批判的含意をともなうものではまったくない。井上は「私の立場を明確にする機会として、利用させていただいた」(応答:225)ということなので、よくある誤解に対する反論を述べたに過ぎず、私の議論への直接的批判を行っているものではないと解する。しかしその直前に「まじめな検討に値するかのように扱うこと自体が問題だと思うが」(応答:225)といったミスリーディングな記述がなされているため、私の論考の導入部分がそのような趣旨のものでないことは確認しておきたい。

2.2 時間論の哲学的意義

 ここでは井上の時間論的立場が示されている。「時間とは何か」という問いを扱わないのは、その問いが曖昧すぎて何を問題にしているかわからないからだ、ということである。たとえば「過去は実在するか」「未来は確定しているか」という問いであれば理解できるとし、井上が「過去:実在/未来:反実在」という立場であることが述べられている。もっとも、「文学部の哲学者」が議論している「時間とは何か」という問題も、多くの場合、結局のところそういう問いに分解されるのであるから、井上の応答はどうも過剰に攻撃的であるように思われる。

 それはともかく井上としては、哲学的な時間論は、たとえば内的時間意識と外的時間との緊張関係が社会問題として明るみに出されたときに初めて法哲学的課題となると考えていることが示されている。そして、残念ながらそうした試みはあまりないと考えているようだ。もっとも、それについて私は『法哲学年報2008』に掲載した「法時間論」という論考[吉良 2009]で、法には各人によってさまざまに異なりうる時間意識を共通の社会的時間秩序に服させる役割があり、そのために法に一定の内在的時間的構造がある、という議論を行ったことがある。

 この論考自体は1万字程度の素描でしかなく、井上の要求に答える水準のものではまったくないのだが、今後の拡充にあたっては今回の応答を意識したいと思う。私のそうした議論に対し、井上としてはおそらく、私の立論は結局のところ、さまざまに異なった善の構想をもった諸個人の共生の原理たる正義をいかに構想するか、そしてそれにあたって法のあるべき姿とは、といった一般的問題に回収されるのであって、ことさらに「時間」という哲学的難問を取り上げる必要はない、と批判するのだろう。

 それに対し、私は個人と社会の双方の「時間秩序」の調整が法(哲学)の根本問題であると考えており、そこに「法時間論*1」の独自の哲学的意義があると思っている。これは、より個別的とされるであろう問題をより根本的であると主張する私の側に立証責任があるため、いずれにせよ全面的な展開は他日を期すこととしたい。

2.3 世代間正義と普遍化要請

 本節では、私の論考に付した副題にある「入れ違いの反転可能性*2」という、動物解放論においてロバート・ノージックが示したアイデアを応用することによって、井上の議論を「時間的に」普遍化できるかどうかが問題になっている。ここで私が例に出したのは世代間正義論、とりわけいまだ生まれざる将来世代への配慮責務の正当化根拠である。私は「現在世代は将来世代を「生み出さない」という選択肢を論理的にもつ以上、入れ違いの反転可能性を現在世代と同様に考えることはできない」(時間:216)と述べたが(次段落②の論点)、井上はそれについて、論理的可能性と規範的許容性は別であるとする。過去世代が生存可能な環境を残してくれたがゆえに我々はこうして生きているのだから、このまま生き続けていたいと願う以上、我々は「入れ違いの反転可能性」によって将来世代を配慮する責務を負うとする。集団自殺をするわけでもないにもかかわらず将来世代の福利に配慮する必要がないとするのは欺瞞的な主張であるとして退けられている*3

 ここで私は①「将来世代の範囲の非確定性」と②「将来世代の存在の依存性」の「2点を主な理由として」「さらなる議論が必要である」という書き方をしている(時間:217)。①②を並べて書いているにもかかわらず、井上は②だけを取り上げて私が通時的な普遍主義を否定しているかのように描き出しており、残念ながら、私の議論の紹介・批判としてきわめてミスリーディングなものになっている。

 ここでの議論は[吉良 2006]ほかで既に詳述したのだが、①の将来世代の範囲確定問題を先に解決しないことには、「当為は可能を含意する」の原則によって「規範的許容性」そのものを脅かす、というのが私の元々の趣旨であった。というのも、無限の将来世代を配慮することは不可能である以上、どこかで「範囲を切る」ことが論理的にも規範的にも実践的にも要請されると考えるからである。したがってこれは単に「論理的可能性」の問題ではない。過去世代が我々に生存可能な環境を残してくれたとして、ではその過去世代は (1) 事実問題として、または (2) 道徳問題として、「縦横の」いかなる範囲の存在であるか、そしてそれを「入れ違いに反転」することによって配慮対象として立ち現れる将来世代は同様に「縦横」のいかなる範囲の存在であるか、そうした「規範的」議論を避けて通ることはできないであろう*4

 こうした問題について井上は触れていないため、どのような立場なのか、正確なところはわからない。もし、生存可能性保障の世代的連鎖を事実問題として捉えるならば、ロールズ貯蓄原理的な一国平和主義に容易に堕してしまいかねない。過去世代と現在世代とでは、地球環境に与える影響力がまったく異なっているからである――過去世代は端的に無力だったのであり、それを「入れ違いに反転」したところでたいした規範的含意は生じない。したがってこれは道徳問題として考察されなければならない。

 井上の再応答を想像するに、現実には無限の将来世代を配慮することは不可能だが、しかしその不完全な現実の実践を批判する規制理念として通時的普遍主義は独自の意義をもつ、というところだろうか。そうすると①の範囲問題はテクニカルに解決すべき問題であって哲学的に重要ではなく、あえて取り上げる必要はないと判断されたのかもしれない。しかし、私は世代間正義についてそのような分け方はそもそも成り立たず、正義が通時的にどこまで及ぶのかということそのものが、肝心の(世代間)正義理念の重要な要素を構成する、と主張したのであった。共時的分配はその対象範囲の「全体」を観念しうるがゆえに正しく分配的正義の問題であるが、通時的分配はその対象範囲が規範的に画定されないことには分配的正義の問題としての前提を欠く。この点、「横」の共時的な世界正義の問題について井上は詳細に述べているけれども、「縦」の通時的な正義(とりわけ将来世代に関わるもの)の問題についてはこれまで多くを述べていない。私としては、世代間正義は通時的範囲が不確定であること、そしてその対象を生み出すかどうかが我々現在世代の選択に左右されることなどによって、また独自の哲学的意義を有しており、その点を飛ばして普遍主義を通時化することはできないと考えている。そのため、井上の応答は理念的に重要な前提①を欠いていると評さざるをえない。範囲問題は単なる実践的困難ではないのだ。

2.4 批判的民主主義における時間

 井上は「人間は誰も愚かさから免れていないからこそ、己の愚行から学ぶことを可能にする政治システムとして立憲民主主義が要請されるというのが、私の批判的民主主義の基本的モチーフである」(応答:227)と述べている。己の愚行という過去の失敗から学ぶという点で井上の批判的民主主義構想を――正義への企てという未来志向的な面と合わせて――過去志向的なものとしても捉えうるという私の指摘を井上は受け入れているものの、「過去志向性と未来志向性の関係については、私は吉良とは異なった理解をもっている」(応答:227)とのことである。しかし、私が行った議論とここで井上が述べていることとの間に、特に異なったものがあるようには私には思えない。

 井上は、今村仁司の「未来を先取りし、飼いならす」という「近代的時間意識」論を私が「援用」していると述べたうえで、それが「きわめて皮相的」なものであると批判している。井上によれば「「企て」とは、我々の「先取り」をすり抜けて創発する予測不可能な未来の自己変容の可能性と危険性を引き受ける営為である」(応答:227)とのことである。そして私への応答の最終段落では「入れ違いの反転」の連鎖として、過去の失敗から学びつつそうした「企て」を繰り返していく時間構造が述べられている。

 しかし、私は今村が描き出した「近代時間意識」は「ともすれば現在を特権化し、過去の意味付けと将来の先取りをまったく自由に行えるかのような幻想をも生み出してきた」(時間:218)と批判し、過去と将来の根源的不確実性をふまえ、現在の特権化を防ぐ時間構造をもった政治制度としての批判的民主主義構想の特徴を218-220ページにかけて述べている。率直にいって、最終段落での井上の論述は私のその部分の要約のように思える。そうであれば私の分析を単に受け入れればよいと思うのだが、井上と私とで批判的民主主義構想の時間構造(過去志向性と未来志向性の関係)について、どのような「異なった理解」があるのか、今回の井上の論述からはどうもよくわからない。その点については井上の批判的民主主義構想のさらなる詳述を期待する。しかし、井上の書き方では私が「皮相的」な議論を援用したままそれ以上の論述を行っていないかのようにミスリードされかねないため、少なくともそうでないことは確認しておきたい。

2.5 他者への自由から、未来への自由へ

 なお、ここでの私の議論は、批判的民主主義構想の時間構造を分析するものであるが、それにとどまるものではない。私の論述を引用すると、

過去と将来について「他でもありうる」という可能性が排除された現在の全能性の傲慢こそ、あまりにも多くの暴力を生み出してきた(Cornell 2007)。これは井上がレヴィナスの倫理思想の危険な面として留保をつけた、無限の他者を歓待する責任意識が「自己の他者に対する超越」、すなわちとめどなき自己力能化と他者支配の欲望へと転化する事態(他者、230頁)と、時間的に同型のものである。(時間:218-219、「他者」は[井上 1998])

というふうに、井上の批判的民主主義構想を「他者への自由」論と同型のものとして理解する試みでもあった。『他者への自由』での主体性論は井上の多くの議論のなかでもきわめて独自性が強く、魅力的な箇所であるのだが、後の議論にどのように発展していったのかがわかりにくいように思える。私はその統一的な理解として、いわば「他者への自由」を「未来への自由」へと接続・発展させるものとして批判的民主主義構想の時間構造を分析し、その鍵として「入れ違いの反転可能性」概念を用いたのだが、そういった問題意識について井上の言及はなかった。『批判者』では瀧川裕英と大江洋がさらに詳細に『他者への自由』を読み解き、井上の議論全体との関係を問うているが[瀧川 2015][大江 2015]、主体性論に対する井上の応答は、他者接遇を正義の義務とするという、ごくあっさりとしたものであり(応答:188、202)、井上の議論全体における主体性論がさらに「浮いた」ものとなった印象を受けた。井上としては他者との関係において正義が課す義務がいかなるものであるかという問題のほうが本質的であり、そこでの主体像は二次的問題にすぎないと考えているのかもしれない。しかし、この点は『共生の作法』最終章での「会話的社交体」構想の展開とも関わるため(批判者:253、谷口発言も参考)、今後の議論展開に期待したいと思っている。

 

● 参照文献(本文中で言及したもの)

井上達夫(1998)『他者への自由』創文社

大江洋(2015)「正義に基づく『自由論』」(『批判者』所収)

吉良貴之(2006)「世代間正義論――将来世代配慮責務の根拠と範囲」、国家学会雑誌119巻5-6号

吉良貴之(2009)「法時間論――法による時間的秩序、法に内在する時間構造」、『法哲学年報2008 法と経済』有斐閣

瀧川裕英(2015)「『他者への自由』と共和主義の自由」(『批判者』所収)

*1:井上は「法時間」と書いているが、私がその表現を用いたことはない。

*2:staggered reversibilityという井上の造語を私が訳したもの。ノージックの元の議論では、仮に知性の優劣によって人間の動物に対する支配を正当化するのであれば、人間よりも知性の高い異星人が現れたときにその支配に服従するのか、という問いが立てられる。つまり、一方的な関係に見えるものであっても三者関係を考えれば反転可能性のテストを受けざるをえない、ということである。なお、私の元の論考では「入れ違いの交換可能性」という訳も用いているが、私の不注意による統一ミスであって、両者は同じ意味である。

*3:「私は生まれてきた以上、このひどい世界でこれからも生きていくが、このひどい世界に子孫を生み出したくない」というのは、自殺しないことには欺瞞的とまで評されるほど奇妙な言明だろうか。少なくとも私はそこまでは思わない。ここには、存在することはしないことよりも価値があるといえるかどうか、という根本的な問題が潜んでいる。

*4:私自身は、現在世代がこれから生存していくうえで依存せざるをえない「近い将来世代」について現在世代内部のフェアネスの問題として配慮責務が正当化され、それ以上の「遠い将来世代」については責任論の問題として「望むならば、その限りで」の限定的正当化がなされるにすぎないと論じた[吉良 2006]。この議論の妥当性については読者の判断に委ねるが、将来世代の「切り方」のひとつの試論として理解されたい。