tkira26's diary

吉良貴之@法哲学です。自己紹介はこちらから: http://jj57010.web.fc2.com

森村進「還元主義的人格観とリバタリアニズム――吉良貴之会員への応答」への応答

 森村進先生(一橋大学)から、前年に先生の著書『リバタリアンはこう考える』(信山社出版、2013年)について私が書いた書評「リバタリアニズムにおける時間と人格」(『法哲学年報2013』2014年10月、以下「書評」とする)への応答をいただいた(森村進「還元主義的人格観とリバタリアニズム」『法哲学年報2014』2015年10月)。

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 私の書評は自分の問題関心に強く引きつけた批判的内容であったため、森村先生の中心的主張を外したものになっていたのではないかと怖れていた。しかし、今回の応答ではそれも含め、議論を全体として好意的に受け止めてくださっているように思う。いろいろと生意気な批判をしたにも関わらず真摯な応答をいただいたことに、心よりの感謝を申し上げたい。

 本稿は再反論というほどのものではないが、私の当初の問題関心をさらに明確化して述べたほうが論点がはっきりするのではないかと感じたため、若干の補足をしてみたいと思う。以下、敬称を略す。

  私の書評は、まず方法論的特徴として (1) 森村のリバタリアニズム思想の正当化における多元主義的道具立てを確認し、次に (2) 森村における時間と人格観の関わりについて、(2-1) 自己奴隷化契約と還元主義的人格観、(2-2) 他者としての将来、(2-3) 死と人格、というふうにテーマを分けて論じた。森村の応答もその順番に応じたものになっているため、本稿でも再度、その順に述べていく。

 1. 正当化と多元主義

 まず、森村のリバタリアニズム思想の正当化が多元主義的になされている点、すなわち ① 自己所有権テーゼからの演繹的導出、② 功利主義的なものを中心とする、日常的な道徳的直観の参照、③ パーフィット的な還元主義的人格観、などが絡みあうような形でなされていることについて、森村は「わが意を得たりと感ずる指摘」(145頁)と述べている。さらに続けて、森村がロールズ的「反射的均衡(reflective equilibrium)」に近い方法論的立場をとっていることも明示されている。森村のメタ倫理学的立場は近著『法哲学講義』(筑摩選書、2015年)で詳しく述べられているが、ここではそれぞれの関係について森村の立場が確認されたことにより、今後の議論に向けた意義があったものと考える。

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 「規範的議論における不確定性を許容」する森村の議論は、「何でもあり(anything goes)」の危険と隣り合わせでありつつ、豊かな包容力をもっている。その一方、規範倫理学的議論の行為ガイド性を重視する立場からは不満もあるだろう。私も、森村の議論は本人が思うよりももっと確定的な主張をなしうるものであると考えている。この点については評価が分かれるだろうし、私も書評では両義的な評価をなした。しかし今回の応答ではその点は主要な論点にはなっていないので、本稿では繰り返さない。

2. 時間と人格

2.1 自己奴隷化契約と還元主義的人格観

 森村が援用しているパーフィット流の還元主義的な人格同一性論に基づくならば、自己の法的人格を他者に譲渡する「自己奴隷化契約」は、人格的同一性が失われた後の将来の自分(=他者)の基本権行使可能性を不可逆的に奪うものである。したがってそれが禁止されるのは、同じ主体の福利を根拠とするパターナリズムとしてではなく、異なった主体についての危害原理の問題としてである。つまり、心理的な同一化ができないほどに遠い将来(または過去)の自分は人格の連続性(パーフィットの言葉を用いればR関係)が途切れている以上、端的に他者なのである。したがって、人格の連続性が途切れた後の自分への危害は、もはや自分ではなく他者への危害として禁止される。

 私としては、リバタリアン自己所有権は(おそらくロックなどには反し)自己の生命身体の最終的処分権まで含めて初めて十全なものとなると考える。したがってパターナリズムであれ危害原理であれ根拠はともかく、自己奴隷化契約の禁止は現在の私の消極的自由の侵害であって魅力的なものではない。

 だが森村は「いかなる時点における人格も自己所有権の主体だから、行為者が将来の自己所有権を侵害する行為も有効でないとすべきだと考える」(146頁、強調は原文)。ここで森村は、人々の心理的状態は時間のうちに根本的に、つまり自分が他者になるまでに変化するものであり、そのことが自己奴隷化契約を他者危害の問題として禁止する根拠となると考えているようだ。ここでは単に多くの人々が事実としてそういった非連続的な心理状態にあるというだけでなく、この還元主義的人格観を規範的に望ましいものとして想定しているように思われる。なぜなら、そうでなければ還元的でない人格の持ち主に対して自己奴隷化契約の禁止を正当化しえないからである。しかしこれは、

おそらく私が主張するようなリバタリアニズムは「あるべき人間像」については中立的でも、「現実の人間像」については特定の立場[還元主義的人格観]をとらざるをえないだろう。(146頁)

という記述と正反対ではないだろうか? 森村は「現実の人間像」については還元的でない持続的な人格の持ち主が存在することを認めつつ、「あるべき人間像」として還元主義的人格観をとっているように思われる。だからこそ自己奴隷化契約を他者危害の問題として無効にできるのである。むろん、還元主義的でない人格を持っている人はきわめて例外的な存在であり、そういう人がごく稀にいるからといってこの議論に大きな影響はない、と森村は答えるかもしれない。だが、それが例外といえるほど少数なのか、私としては疑問に思う。やはり現実の多くの人々は、還元主義的人格観を魅力的に思いつつも、誕生から死までおおまかに連続する人格観を妥当なものだと思っているのではないか? また、仮に非還元主義的な人格の持ち主が数のうえで例外的な存在だとしても、少数であることが規範的に無視してよい根拠にはならないだろう。

2.2 他者としての将来

 ここでの私の議論は、現在に存在する個別具体的な他者に対する尊重(自己所有権や消極的自由の尊重、十分主義による分配)と、将来の自分および将来世代に対する人道的配慮(他者危害の禁止、基本権行使可能性の維持)は結局のところほとんど同様の内容であり、だとすると、他者の尊重のあり方として個別具体的な人格を想定するか、抽象的な存在を想定するかという区別は特に意味がない、というものであった。森村はこれについて簡潔に、

今存在する人格は個別具体的なものだからそのようなものとして尊重すべきだが、将来の人格や未来世代の人々は(程度の差はあれ)まだ具体的な特徴を持たないから、彼らに対しては単に抽象的な人道的義務を負う、と解するのは決しておかしな発想ではない。(147頁)

と答え、この点は森村の議論にとって特に短所にはならないとしている。

 もちろん、配慮の内容が結果的に同じになったからといって、その対象を同じものと考える必要はまったくない(たとえば私が二匹の猫をまったく同じように世話したからといって、その二匹の猫が私にとって同じ存在になるわけではない)。この点、私のもともとの書き方があまり明瞭でなかったのだが、私が問題にしたかったのは、現在の個別具体的な他者は将来の自分および将来世代と同様の形で構成せざるをえない存在ではないか、ということである。

 というのも、まず常識的な事実として、個別具体的な他者をありのままに尊重することは難しい。たとえまさに目の前にいる存在であったとしても、彼/彼女を人格として尊重するあり方は、人間とはこういう性質をもった存在であってこういうふうに尊重されるべきである、という私たちの思い込みによってかなりの程度に構成されている。目の前の相手でさえそうなのだから、リバタリアンな法や道徳が対象とする現在の人々の人格はさらに抽象的・一般的なものとして構成されざるをえない。したがって現在の個別具体的な他者であろうが将来の自分や将来世代であろうが、もちろん程度問題はあるにせよ、配慮対象としての人格はつねに何らかの一般的性質(たとえば自己所有権主体性)によって構成されるし、それは特に悪いことではない。

 実際、もし上記2.1の議論が正しいとすれば、森村もまた、現実にはさまざまな時間的幅をもって存在しているはずの人々の人格を、事実に反してでも規範的に・還元主義的に構成しつつ配慮対象としているのである。したがって、森村がなぜ現在の人々の個別具体性を強調するのか、また本稿の最後に述べることであるが、さまざまな人格観の規範的な使い分けになぜ消極的なのか、という問題は残されたままである。

2.3 死と人格

 最後に、死はなぜ・誰にとって悪いのかという「死の害」の問題について。私が書評でこの問題を取り上げたのは、自己奴隷化契約などよりも「死」はいっそう、というよりも絶対的に不可逆なものだからであり、2.1の議論をさらに深化させるテーマだと考えたからである。森村は他者危害の禁止によって自己奴隷化契約を無効にするが、そうすると「自殺も同じように将来の他者の殺人として批難されることになる」(147頁)。だが、森村は「一般的に自殺がそんな道徳的悪事だとは考えていない」とのことであり、「批難されるべき自殺と正当化できる自殺を区別すべきだろう」としている。具体的には、

たとえば将来まで続く、あるいは長い間続く、苦痛や本人にとって無意味な生を避けるため、あるいは現在の耐えがたい苦痛を避けるためならば、自殺は正当化可能だが、一時的で軽微な苦痛を避けるために自殺することは、将来の(生活の質が低くないであろう)本人を殺すことになるから不正なのである。(147-148頁)

ということである。こういった見解自体はおそらく、常識的な道徳的直観にかなりの程度にかなうものであろう(そして、この議論によるならば批難されるべき自己奴隷化契約と正当化できる自己奴隷化契約も区別できるのではないかと思われるが、森村はそれについては述べていない。自己奴隷化契約は相手方があることによって道徳的意味が変わってくるのだろうか?――元の著書では解約可能性によって分けられているが、自殺は取り返しがつかないのでここでの議論とは関係しない)。

 この自殺論は、それ自体として穏当なものであると私も考えるが、これが還元主義的人格観と合わさったとき、いくぶん技巧的な説明が必要になる。というのも、現在の自分にとって耐えがたい苦痛の存在や無意味な生が将来の自分の生を奪うことの正当化理由たりうるとされているわけであるが、注意すべきは、ここで生を奪われる将来の自分は他者であるということだ。そうするとこの論法は、現在の自分にとって耐えがたい苦痛の存在や無意味な生を避けるためであれば、将来の自分のみならず、現在の他者を殺害することをも正当化してしまう

 むろん、現実にこれが正当化されうるのは、その他者の命を奪うこと以外に自身の生命の危機や致死的な苦痛を取り除く手段がないといった、正当防衛や緊急避難の場合に限られるだろうから、特段の危険な帰結は生じないかもしれない。いずれにせよ、この還元主義的人格観における自殺は、緊急避難的状況下においてのみ、将来の自分(=他者)の生を奪うことが正当化されることになる。したがって自殺は、現在の他者の生命を奪うことが許されるのと同等の緊急避難要件が求められるが、それは当然ながら、先に引用した穏当な自殺論が想定するよりもずっと厳格なものとなるだろう。これは自殺の道徳的正当化にとって不利な事情となるが、森村はこれを受け入れるだろうか。私はリバタリアンとして自己の処分権たる自殺を道徳的により広範に認めるべきだと考えているため、この点でも還元主義的人格観との組み合わせはあまり魅力的でない。

2.4 規範的な人格観の多様性

 もっとも、私自身は単純に「還元主義的人格観を批判」(148頁)しているわけではない。それは現実の人間心理のあり方としてかなりの程度に妥当なものであろうし、規範的にも魅力的な帰結を生む場合が多いと思っている。リバタリアニズムの最も魅力的な形態は、一生持続するような強い自律的主体を想定するのではなく、さまざまな形で弱くありうる人々の自由を尊重するものであると、森村と同様に私も考えている。だから書評で述べたことは、還元主義的人格観の否定ではなく、それ「だけ」では不都合な帰結が生じる場合もあるということだ。

 ごく素朴な例を出すならば、刑事責任の追及にあたって還元主義的人格観を全面的に採用することはできない――「そんな昔のことは私の行為ではない」という抗弁を受け入れるわけにもいかない。むろん、還元主義的人格観を維持しつつ、たとえば社会正義の要求といった別の規範的考慮を持ち出して遠い過去の行為について刑事責任を問うといった議論も可能だろうし、森村の多元主義的道具立てはそれを許すかもしれない。しかしそれは、社会正義の要求のためであれば犯人以外の他者を八つ当たり的に罰することも許されるという、相当に反直観的な主張を導くし、それがリバタリアン的に正当化可能であるとは考えにくい。私たちはこと刑事責任にあたっては相当程度の長期間にわたる統一的な人格を想定している。これは現実の人々の心理的なあり方とはまた別の、規範的な想定である。

 以上をふまえ、私が昨年の書評の最後で述べたことを引用する。

……R関係による還元主義的人格観では足りず、いかなる道徳的要請にいかなる人格観が必要になるかという方向の議論が必要になる。そこでは、道徳的考慮の対象を抽象的性質によって構成することは避けられないし、さして怖れるべきことでもないように思われる。本稿[書評]第二節末尾で両義的に評価した「生活の豊かさ」の内実も、それがいかなる人格とその長さによって評価されるのかが明らかにされないかぎり、不確定なものとならざるをえない。(書評88頁) 

これまで見てきたように、森村の想定する人格観は、おそらくその自己認識とは異なり、相当程度に規範的な要請を含み込んでいる。だとすれば還元主義的人格観の記述的な妥当性にとどまるのではなく、各種の規範的要請と整合的な人格観を規範的に構成することも特に怖れるべきことではないように思われる。

 私は森村の人間観について「雑多な人間観がアドホックに使い分けられている」とし、それが具体的な分配的正義のあり方にも影響を及ぼしていると評したが(書評184頁)、森村の多元主義的な道具立てに鑑みれば、そうした使い分け自体は必ずしも否定的に解されるべきではない。森村はリバタリアンな政治道徳的主張と還元主義的人格観を必要以上に独立の議論として考えているために本稿で述べたような不都合が生じているのであり、森村の多元主義的な正当化、もしくは反射的均衡においてなされるべきは、人格観のよりラディカルなアドホックであるように思われる。