tkira26's diary

吉良貴之@法哲学です。自己紹介はこちらから: http://jj57010.web.fc2.com

てつがくカフェ@八王子「ファッションから考えるグローバルな正義」

 2017年9月2日(土)に八王子生涯学習センターで、こんなイベントを行いました。開催趣旨の詳しいことは ↓ をご覧ください。

 「服」は私たちにとって文字通り最も身近なものですが、それがどんなふうに作られているかについては案外、知らないものです。いわゆる「ファストファッション」と呼ばれるものの多くは、発展途上国に工場を作っていますが、そこでの劣悪な労働状況が問題になっています。もちろん、そういった状況で利益を得ている企業(や国家)に責任があることは確かですが、消費者としての私たちも何か考えるべきことがあるのではないか、ということで、いろんな方向から意見交換してみよう、ということで開催してみました。

 参加者は15名ほどで、学生さんが中心でしたが、それ以外にも幅広い年代の一般市民の方が集まってくださいました。進行としてはまず、問題提起として、学生サークル「ファッションレボリューション」のみなさんにお話をいただきました。

 

  f:id:tkira26:20170917114303j:plain(写真はぼかしています)

 

 「ファッションレボリューション(FR)」は、衣服に関わる労働問題を考えていく運動で、世界的な広がりを見せているものです。FR のみなさんのお話では、何はともあれ「まず知る」ことが大切であることが強調されました。そこで「トゥルー・コスト」という映画にもなった、バングラデシュでの工場倒壊事故などが紹介されました。

 

 とはいっても、私たち消費者は具体的に何をすればよいのか。ファストファッションをまったく買わないで生活をすることは現実的に難しいと思います。でも、こういった問題があるということをとにかく知れば、少しずつ行動を変えていけるかもしれません。今回のカフェでは、いま自分が着ている服の裏をちょっと見てみて、それがどこで作られているものなのか、どういった素材でできているものなのか、といったことを考えることから始めました。タグに書かれている情報は少ないですが、そこからもっと調べてみよう、という意識が出てくればよいのだと思います。

 次に、この問題を「グローバルな正義」として議論するために、蝶名林亮さん(倫理学)と吉良貴之法哲学)による問題の整理がなされました。蝶名林さんはこの問題を考えるうえで誰が「主体」であると考えるべきか、それは企業なのか、それとも私たち消費者一人一人なのかといったことを考える必要があるといったことを提起されました。私はそれを補足する形で、では企業や個々人の責任を考えていくうえで、それを実現するための(グローバルな/国家単位の)法制度の仕組みを具体的に考えていく必要がある、といったことを述べました。ついでに、昔の「24時間テレビ」では発展途上国の貧困問題も多く扱われていたものだが、最近は国内の問題がもっぱら扱われている。それがどこまで象徴的なのかはともかく、現在の日本(の若い人?)のあいだでグローバルな貧困問題などへの関心が薄れているのではないか、それを喚起するためにはどうすればよいだろうか、といったこともお話しました。

 その後、参加者全員で自由なディスカッションがなされました。たとえば、「食べ物」の問題は日本でもよく議論されますが(食品偽装の問題などを思い出してください)、そこでの「フェアトレード」のあり方などを参考に、服についても同様の取り組みを盛り上げていけないだろうかといったことが議論されました。実際、いくつかの企業などではその取り組みがなされており、その具体例を紹介してくださる方もいて、たいへん有益な情報交換がなされました。

 そうやって意識変革を促していく一方で、経済のあり方、政治のあり方にも目を向けていくべきだといった意見も出され、問題が多角的・立体的に捉えられたように思います。そうこうするなかで時間があっという間に過ぎ、みなさんそれぞれ、じっくり考えるよい機会になったと感じていただけたようです。「ファッションレボリューション」の活動はこれからも続けられる予定ということなので、今後も第2弾、第3弾の企画を考えていきたいものです。

亀本洋「世代間の衡平」(論ジュリ22号、2017年)について

 標記の論考にて*1、亀本洋は「世代間衡平を損得問題として考えるかぎり、道徳問題は生じない。したがって、正義の問題も生じない」(70頁)と述べている。年金問題などにおける世代間の不公平は「正義の問題ではなく、正義と直接関係しない単なる政策問題である」(70頁)ということである。政策問題だからといって解決が容易というわけでもないだろうが、少なくともそれは法哲学的に重要な問題ではないと考えられているようだ。私の論文「年金は世代間の助け合いであるべきか?」(吉良 2016)に言及されたうえで(69頁・注18)そう述べられており、私の世代間正義論が正義論でないとすると困るので、応答しておきたいと思う。ただ、応答といっても残念ながら〈特に根拠もなく断じられているので、なぜそう言えるのかわからない〉というだけになる。

1. ロールズの貯蓄原理について

 亀本論文は全5節によって構成されている。そのうちⅠ~Ⅲ節はロールズ『正義論』における貯蓄原理(saving principle)の批判的検討である。この箇所については、亀本が従来から取り組んでいる格差原理との関係から精緻な議論がなされており、私も興味深く読んだ。亀本としてはロールズの貯蓄原理は根拠薄弱であるし、具体的な貯蓄率も指定できない以上、これといって使いようもないものとして消極的に評価されているようである(Ⅲ-3)。私もロールズの貯蓄原理については、1)原初状態における利己的な契約主体という前提が恣意的に修正されてしまう、2)当該政治共同体の存続可能性のみが念頭に置かれているため、グローバルな規模で考えるべき世代間正義の問題には無力である、などの消極的な評価を行った(吉良 2006: 397-8)

 亀本も1の点については同様に述べている(67頁)。私としてはこの評価について『正義論』第3部の正義感覚論を踏まえた修正が必要であると考えているが、ロールズ解釈の問題が残ることを認めたうえでなお、貯蓄原理が世代間正義論にとって見込みのあるものとは思えないので、ここでの議論でロールズに深入りする必要はないと思う。亀本も結局そう考えているのだろうから、このテーマでなぜこれだけの紙幅を使ってロールズ貯蓄原理について論じているのかはわからない。ロールズ貯蓄原理を世代間正義論にとって重要なものとして位置付ける有力な議論があればそれを退ける意味があろうが、管見の限りそういうものは多くないし、亀本も文献をあげていない(世代間正義論に関わる文献は、ロールズ以外には注18-19に若干の邦語文献があげられているだけであり、近年の議論は無視されているようだ)。

2. 世代間正義論は正義論か?

 Ⅳ節は「正義」「衡平」をめぐる概念的整理であり、実質的な論点は特になさそうである。経済学でどのような言葉が好んで使われるかといった事情は、法哲学の議論に影響を与えない。「世代間の衡平」について最も具体的かつ破壊的な主張がなされているのは最終のⅤ節なので、以下、そこでの議論を見ていく。

 Ⅴ節では特に根拠があげられないままに多くの強い断定がなされているため、なぜそのようなことが言えるのか理解できないところがほとんどである。たとえば「[公的年金の受給額の不公平よりも、]公的年金制度によってエッセンシャル・ミニマムまたは格差原理ミニマムの水準がどうなるかという問題のほうが社会的正義論にとってはるかに重要である」([]内補足と強調は吉良)ということだが、その根拠は明らかでない。確かに公的年金自体は偶然的に存在する制度に過ぎず(他のあり方も当然にある)、そうした社会保障制度によって実現される福利水準のあり方のほうがより根源的な問題であるということかもしれない。しかし、(日本の)公的年金制度が現に相応の歴史をもって存在し、そして現在、利益対立が深刻になっている状況をみれば、それ自体としてその問題を考察することも重要ではないだろうか。

 亀本は、「エッセンシャル・ミニマムまたは格差原理ミニマム」の同定は分配的正義論の本質的な問題であるが、公的年金制度をどうするかといったことは、その原理的な議論の後に、実現方法を具体的に・政策的に考えればよいと位置付けているのかもしれない。だとすれば二次的問題として後景に退くのも理解できなくはない。しかし、そのような位置付けは不当である。公的年金をめぐる議論にしたところで、これまで支払ってきた額との均衡をどのように評価するかとか、賦課方式が前提とする世代間協働のあり方だとか、法哲学的に原理的で、また別の豊かな問題群に開かれている。だから「社会的正義論にとって」どちらが重要であるかというのは自明でない。

 再び引用すると「公的年金問題は正義の問題ではなく、正義と直接関係しない単なる政策問題である」(70頁)ということだが、どの世代に生まれたかという、自身に責任のない要因によって公的年金の受給額に格差が生じる状況があり、それを何らかの形で是正しなければならないとすれば、そのあり方(何を指標とするかなど)や根拠が当然に問われなければならないはずである。それは正しく分配的正義の問題であると私は考える。亀本が注18で触れている私の論文[吉良 2016]でもさまざまな論点をあげたのだが、どれも論じるに値しないということだろうか。いずれにせよ、たとえ「政策問題」だとしても、どのような政策を取るべきかは何か中立的な計算によって決まるものでなく、一定の道徳的考慮が避けられないと思うのだが。

 また続けて亀本は、経済成長率が十分に高ければ「世代間不公平がことさらに問題になることもなかったであろう。このことからも、公的年金問題が正義の問題ではなく、状況に依存する単なる政策問題であることがわかる」(70頁)とも述べるのだが、これもわからない(「エッセンシャル・ミニマムまたは格差原理ミニマム」はそうでなく、何か客観的な水準があるのだろうか?)。

 社会的分配への要請が具体的場面においては切迫したものだったり、そうでもなかったりすることは事実としてある。しかし、それは分配的正義論という原理的な問題にとって無関係である。たとえば、ある格差社会において誰もがそれに満足しているからといって、それを是正すべきだとする平等主義的正義論が正義論でなくなるわけではまったくない。亀本の主張はどうも、ステレオタイプなマルクス主義の正義不要論を繰り返しているように見える。いくら現実の経済成長率が高かろうとそれ自体は原理的問題に影響を与えないし、現実にも、パイが大きくなる社会において分配をめぐる人々の争いがなくなるわけではない――むしろ豊かになったがゆえに争いが苛烈になった例さえいくらでも指摘できるだろう。この点は最後の「世代間衡平を損得問題として考えるかぎり、道徳問題は生じない。したがって、正義の問題も生じない」(70頁、強調は吉良)という記述にも表れている。「損得問題として考えるかぎり」と留保しているのだから別の問題としては道徳問題となりうる余地を認めているようにも思えるが、以上に述べた通り、損得問題として考えてもなお道徳問題となるのである。

 ほか、環境問題と世代間正義について最後(Ⅴ-2節)に述べられており、「まだ存在しない人々の現実の選好や意見を現時点で認識できないことは明らか」ということである。これは将来(に対して現在世代の行為が与える影響)の不確実性を強調することによって世代間正義の可能性に疑問符をつける種類の主張であろう。しかし、それによって「将来世代の選好とか権利とかいう概念を導入すること自体がミスリーディング」(70頁)とまでいえるかどうかは、微妙な検討が必要である。

 亀本は明示していないが、ここで念頭に置かれていると思われるパーフィットの非同一性問題を真剣に受け止めるならば*2、現在世代の行為が将来世代の遺伝的組成をいくらかなりとも変化させ、その同一性を失わせる以上、将来世代を主体とした権利論は成り立たなくなる。そのような意味であれば私も将来世代の権利論に消極的な議論を行ってきたし(吉良 2006; 吉良 2010)、現在世代の「みずからの道徳的義務――これは受益者の権利を含意しない――の問題としてそれ[世代間衡平をめぐる道徳問題]を考えるほかない」(70頁、[]補足は吉良)という亀本の主張にも賛同できるのだが、単に将来世代の選好や因果的経路の不確実性や不可知性のみによってそれを主張するのは困難ではないか。

 「現実に」まだ存在しない人々の「現実の」選好や意見を現時点で認識できないのは確かに明らかだが、何も言ったことにならない。おそらく、現時点の我々はそれを想像的に構築することさえも許されないということなのだろう。しかし、将来世代の選好や意見はそれほどまでに不確実なものだろうか。将来世代といってどれだけ遠くまでを考えるかにもよるが、せいぜい数十年の先であれば我々とさほど変わらない人々が存在する――おそらく我々のかなりの部分はまだ生きている――であろうと考えることにそれほどの不自然さはないだろう。

 そうすると結局のところ、どれだけの範囲の将来世代をどのような主体として立ち上げるかは、現在世代が不確実性を不可避的に抱え込みつつ、決めることになる。そこで登場するのはあくまで我々現在世代のみであり、将来世代(や過去世代)との関係は、現在世代がそれをどのように想像的に構築して規範的な関係を取り結ぶかという、徹底して現在の問題に還元されることになる。それは現在世代内の問題である。だとすると、それは世代「間」正義(justice between generations)ではないし、私がこれまで論じてきたものも、少なくとも将来世代(や過去世代)との関係における世代「間」正義論ではない。しかし、さして致命的な批判ではない。それは現在世代内の分配的正義論として再構成されるのであり、正義論であり続ける。亀本がいくら将来の不確実性を強調したところで、いや強調すればするほど、そこでの集合的決定の道徳的根拠が厳しく問われる。

[文献]

亀本洋(2017)「世代間の衡平」論ジュリ22号

吉良貴之(2006)「世代間正義論」国家学会雑誌119巻5-6号

吉良貴之(2010)「世代間正義と将来世代の権利論」(愛敬浩二編『人権の主体』法律文化社

吉良貴之(2016)「年金は世代間の助け合いであるべきか?」(瀧川裕英編『問いかける法哲学法律文化社

*1:以下、単にページ数だけを示した引用は、亀本(2017)のもの。

*2:真剣に受け止めない方法もいろいろある。

「シルバー民主主義時代のポスト福祉国家」読書会

 2017年9月10日(日)に、大阪の福島区民センターで標記のような読書会を開催しました。研究合宿で関西出張だったので、どうせなら関西の方々と交流できたらと思いまして。ツイッターで協力を募ったところ、りべらびさんが手をあげてくださって、いろいろと準備をしてくださいました。心よりの感謝を申し上げます。会場の福島区民センターも、リーズナブルな価格でとても使い勝手のよい施設でした。

 内容は ↑ の案内文に書いたようなことですが、5月に話題になった経産省次官・若手ペーパー「不安な個人、立ちすくむ国家」(PDF) を課題文献にしました。少子高齢化が急速に進み、世代間の不均衡がひどい状況になっているなかで、今後の福祉国家のあり方は?といったことです。このペーパーが打ち出している、徹底的に「個人化」された福祉国家ヴィジョンや、その背景にある「シルバー民主主義」あるいは世代間の対立状況といった現状認識について意見交換がなされました。

 参加者は10名ほどで、年齢も20代から50代まで、バックグラウンドも多様な方々が集まり、いろいろな角度からの話ができ、とても有益な時間だったと感じています。こういった問題を「世代間」の枠組みで考えていくことが果たして妥当か、仮にそうだとしても具体的にどういった制度構想が可能か、といったことが多く議論されました。↓ のホワイトボードからも、当日の雰囲気を感じ取っていただけるのではないかと思います。

 12頭目のラクダはどこにいる? 

 京都アカデメイアの大窪善人さんが、ニクラス・ルーマンが用いた寓話「12頭目のラクダ」をご紹介くださりました(大窪さんのブログは ↓ です)。世代間の利益対立(のように見える)状況を緩和する「また別の価値観(=12頭目のラクダ?)」を見つけることは可能でしょうか。非常に興味深い考え方だと思いました。

 もちろん、そこには(細野氏の提案に見られるように)一定の危うさがないわけでもありません。おそらく、選択肢は多様にありうるでしょう。民主的連帯の基礎(としての平等)を維持するため、福祉国家的再分配をしっかり行ったり、若年世代の声を代表できるような形の議会改革を行ったりしていくべきかもしれません。

 私自身はリバタリアンとして経産省ペーパーのヴィジョンにおおむね賛成ですし、人と資本と情報のグローバリゼーションによって達成される均衡が最も公正なものだろうと考えています。とはいってももちろん、それぞれは必ずしも排他的なものではありませんし、少なくとも過渡的には、各種政策のほどよいバランスが必要になるでしょう。それを考えていくために、こういった会で多様な視点を出していくことの大切さを改めて感じた次第です。

当日配布メモ(手書きの味)

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ちゃんと読んでくださる方は ↓ のPDFでどうぞ。

http://jj57010.web.fc2.com/writings/20170910_silverdemocracy.pdf

関連スライド

参考文献:

憲法のこれから 新・総合特集シリーズ (別冊法学セミナー)

憲法のこれから 新・総合特集シリーズ (別冊法学セミナー)

 
問いかける法哲学

問いかける法哲学

 

 

花鳥風月

長い間(キロロ)放置していると広告が表示されるようなので、てきとうなことを書きます。最近は塩分控えめの食事をするように心がけています。外食すると一発で10グラムとかいってしまうので、気をつけないと極悪です。

カスタマイズできる世界とオプションとしての世界

 わたしはインターネットに詳しい。

 などというとさっそく、なんだか困った人になるのだが、私個人はともかく、世代的にはそう間違いではない。今回の「とちぎ消費者カレッジ*1」にお招きした先生方と私はおおむね同世代の「アラサー」だが*2、インターネットを日常的に使うようになった、かなり最初期の人々になるだろう。

*1:2013年7月に宇都宮市内で開催した、学生向け消費者啓発イベント。横田明美(千葉大学行政法)、松尾剛行(弁護士)、梅山哲也(弁護士)の各先生にお話をいただいた。

*2:私はもう厳しくなった。

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永田カビ『さびしすぎてレズ風俗に行きましたレポ』

永田カビ『さびしすぎてレズ風俗に行きましたレポ』(イースト・プレス、2016年6月)、話題になっていたので読んでみた。以下、いくつかのメモ。

  • 作品としては全体的にちょっときれいに描きすぎている感じもあるので(まあそこがいいのだろうが)、続編を読みたいところ。もうあるのかな。
  • レズビアン風俗のおねえさんがずいぶんとやさしすぎるのが気になるところで、娼婦=聖母みたいなステレオタイプとのあやういところにある。
  • でも母親との身体接触願望は印象的に描かれる一方で、風俗のおねえさんの身体に触れることに強いためらいがあるあたり、このステレオタイプをちょっとずらすものがあるといえるかどうか。
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法哲学講義「自由の概念分析」(2)

第1回はこちら

自由の時間的な幅

 ではちょっと戻りながら、重要そうなところを確認していきましょう。1番、「強盗に銃を突きつけられているので、動けない」。たぶんこれ、みなさんとしては典型的な自由・不自由の問題と考えたんじゃないかなと思います。つまり、この状況だとAさんは「不自由」であるし、それは言葉の使い方としてまったくおかしくない。……でも、どんなふうな意味でそういえるのか、もう少し細かく考えてみましょう。たとえばこのAさん、強盗に銃を突きつけられていても、動けることは動けますよね。「だから自由でしょ」って言われたら、これはどうでしょう? 何かがこんがらがっていそうですが、誰か説明できる人います?

 学生A「たしかにその瞬間は自由なんですけど、その後の自由が守られていないなあと思いました。ごく短期的な自由しか守られなくて、結果としては、その後あるはずだった自由を失うことになっているので。よろしくないんじゃないかなと思います。」

 ああ、それは面白いかもしれませんね。自由っていうのは、銃を突きつけられている一時点のことではないというわけね。「その後の自由」っていうのがあって、動いたら撃たれる、そうすると死んじゃうわけだね。自由がなくなっちゃう。とすると、自由という概念は、ある程度時間的な幅っていうのを考えざるをえないんじゃないかということか。なるほど、これ、かなり面白い論点だと思います。時間的な幅を入れたら、1番から5番あたりも、けっこう◯×があやしくなってくるのもありそうな気がしますね。

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井上達夫「批判者たちへの「逞しきリベラリスト」の応答」に思うこと

1. はじめに

 井上達夫先生より、『法と哲学』第2号をご恵投いただいた。今号には多くの興味深い論考が掲載されているが、圧巻は井上先生による、瀧川・大屋・谷口編『逞しきリベラリストとその批判者たちーー井上達夫法哲学』(ナカニシヤ出版、2015年、以下『批判者』と略記)への約70ページに及ぶ「応答的書評」だろう。『批判者』は門下生たちが井上先生のこれまでの研究について、それぞれの問題関心から批判的考察を行った論文集である。井上先生の今回の「応答的書評」は同書の17本(+α)の論考すべてについて詳細な反論を行うものであり、一般的な「還暦記念論集」の儀礼的やり取りとはまったく異なった、緊張感に満ちた知的応酬となっている。

 私も『批判者』に「時間ーー入れ違いの交換可能性のもとで」(209-221頁)という論考を掲載した。内容的には特に強い批判を行うというよりも、井上法哲学の「時間的再構成」を試みたものである。これは井上先生が必ずしも明示していない前提を明らかにする点で一定の意味のある試みであると信じるが、外在的な議論であるため、特に触れられなくとも仕方ないと思っていた。が、本稿にも3ページにわたる応答をいただいたことは望外の喜びであり、心よりの感謝を申し上げたいと思う。

 ただ、その応答の大部分は私の議論と噛み合ったものとはいえず、なぜこのようなズレが生じたのか、困惑しているというのが正直な思いである。もちろん、私の論考自体、文章が散漫で議論を十分に深められていなかった部分もあったことは率直に認めざるをえない。実際、議論が始まる前に終わってしまった印象がする、という批判を他の方からいただいた。この点は反省する必要があるが、まずは井上先生の応答と私の議論とのあいだにどのようなズレがあると私が考えているかを整理しておくことにも一定の意義があると思うため、以下でそれを行う。今回は断片的な整理にとどまるが、今後の私の論考(特に出版予定の著書『世代間正義論』)ではさらなる拡充を行う予定である。

 以下、敬称を略す。参照にあたっては、私の元の『批判者』論考は「時間」と略記し、井上の応答は「応答」と略記する。

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法哲学講義「自由の概念分析」(1)

1. 法概念論に向けて

 では、始めます。今回で8回目で、ちょうど折り返し地点という感じですね。これまで扱ってきたのは「正義論」と呼ばれる分野で、たくさんの立場、たとえばリベラリズムとかリバタニアリズムとか功利主義とか、いろいろ紹介してきました。嫌いにならないでください。今回からはそれとはちょっと趣向が変わった話になります。これからやるのは「法概念論」と呼ばれる分野、要するに「法とは何か」を問うものです。

 「法とは何か」というのは法哲学にとって根本的な問題ですが、これだけだと問いがぼんやりしすぎていて、どう答えればよいかよくわからないですよね。なのでこの授業では、まずは法に関係するさまざまな言葉の実際の使われ方に着目していってみたいと思います。これは哲学的な言い方をすると「概念分析」と呼ばれるやり方です。で、今回は「自由」とは一体なんだろうか、という問題を扱います。

 自由っていうのは、法的にたいへん重要な概念であることは確かですけれども、案外、意味がはっきりしていない。もしかしたら私たちは同じ言葉でまったく別のことを言ってるのかもしれません。だとするとあんまりいいことではないですよね。みんなが合意できる定義はないかもしれないけど、少なくとも主要な対立点というか、ズレを整理して意識することはできると思います。今回の授業ではそれを目標にします。

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キャンパス・ハラスメント防止啓発委員会より――大学1年生に向けて

 こんにちは、法律学担当の吉良です。これから10分ぐらい、キャンパス・ハラスメント防止委員会からのお話をします。お配りの資料のなかにパンフレットが入っていますので、それを見ながらちょっと聞いてください。

キャンパス・ハラスメントとは何か?

 キャンパス・ハラスメントというのは、聞いたことない言葉かもしれませんが、大学のなかで、あるいは大学内じゃなくても、大学の人間関係をもとにして起きるいやがらせ、いじめのことです

 たとえばみなさん、セクシュアル・ハラスメント、セクハラという言葉は聞いたことありますよね。その「ハラスメント」と同じ言葉です。セクシュアル・ハラスメントは「性」に関わることですが、キャンパス・ハラスメントはもっと広く、大学に関わるいやがらせ、もっというと「なんだかいやなこと」全般です。これは先生と学生の関係でもそうですし、みなさんこれからサークルに入ったりバイトしたりすると思いますが、そこでの上下関係、もっというと「断りにくい」関係で起こりがちなことです。もちろんそれだけでなく、同級生のあいだでもなんだか「断りにくい」関係はあると思いますので、要するに誰とでも起こることだと思ってください。

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尾高朝雄の著作一覧

 f:id:tkira26:20160331165535j:plain同年に複数の著作がある場合、単著書については[尾高 1947A][尾高 1947B]と大文字アルファベットで区別し、論文等については[尾高 1947a][尾高 1947b]と小文字で区別している。旧字は適宜、新字に改めている。右の写真は追悼論文集より。

 

【単著書】

[Otaka 1932]Tomoo Otaka, Grundlegung der Lehre vom sozialen Verband, Wien
Verlag von Julius Springer: am

[尾高 1934]尾高朝雄『原始信仰の社会統制作用』[謄写版

[尾高 1935]尾高朝雄『法哲学』(日本評論社

[尾高 1936]尾高朝雄『国家構造論』(岩波書店am, NDL

[尾高 1937]尾高朝雄『改訂 法哲学(現代哲学全集第十七巻)』(日本評論社NDL

[尾高 1941]尾高朝雄『國體の本義と内鮮一體』(國民總力朝鮮聯盟防衛指導部)[講演録]

[尾高 1942]尾高朝雄『実定法秩序論』(岩波書店am, NDL

[尾高 1943]尾高朝雄『法理学講義』[?]

[尾高 1947A]尾高朝雄『法の窮極に在るもの』(有斐閣NDL

[尾高 1947B]尾高朝雄『国民主権天皇制』(国立書院:NDL

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尾高朝雄と民主主義のためのノート (1)

 1948年から49年にかけて出版された文部省教科書『民主主義』は、平易な文体ながら、現代の民主主義理論にとっても示唆に満ちた記述があふれる書である。1995年には径書房から復刻版が出されている。復刻版で400ページ近いこの本は「教科書」ということで一般に思われるようなものとは程遠く重厚であり(初版時は上下二分冊であった)、形式さえ整えれば立派な学術書ともなりえたであろう。だから通読するにはそれなりにたいへんだが(もちろんその価値はあるのだが)、読みやすくエッセンスをまとめた新書も先日、出版されている

 日本国憲法が施行されてまだ間もないころ、これだけの民主主義理論が「日本発」のものとしてまとめられたのは銘記に値することである。また「民主主義」のあり方がきびしく問題になっている昨今、立ち返るべき原点としての重要性も高まっているといえるだろう。

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荒木優太「反偶然の共生空間」へのランニング・コメンタリー

 2016年1月10日の若手法哲学研究会にお呼びしてお話いただく荒木優太さんの「反偶然の共生空間――愛と正義のジョン・ロールズ」(群像新人評論賞優秀作、群像2015年11月号)の感想です。本作はロールズ『正義論』の意欲的な読み方を示すものであるとともに、ご専門の近代日本文学への応用可能性も感じさせ、いわば〈法と文学〉の実践例としてとても興味深く拝読しました。ここでは第一コメントとして、できるだけ本文に内在的に、思ったことをつらつらと書いてみます。ページ数は『群像』のもの。

72:序文

  • 「生には〈一度〉しかないが、思考には〈何度も〉がある。ここはロードスではない」。反照的均衡ってそういうものかな*1。どうだろう。

73-75:光と闇の光学的コード

  • 高橋たか子「共生空間」(1971)を導入とシメに。
  • 知らない作品だったけど、これがどこまで全体に効いてくるか。
  • 「あの人と私は目鼻立ちこそ違ってはいるが、魂は同じもの。あの人がいるかぎり、私は取り換えのきく存在でしかない」という「交換可能で想像的な共生空間」。
  • 古井由吉「杳子」芥川賞を受賞したのもほぼ同じ1970年。ユング的な共同主観性をいうならばこっちのほうがよさそうにも思えるが、言及なし。何もかも薄明のなかに溶融する古井よりは、高橋の「光と闇の光学的コード」の排除の中途半端さ――愛せる偶然と愛せない偶然のコード?――のほうがロールズ正義論と共振するという読みか?

*1:本論文が反照的均衡に触れているわけではない。本論文はロールズ正義論の方法論的特徴として取り上げるのは無知のヴェールだが、一方で正義と愛の反照的均衡(?)の可能性といったテーマもこの枠組では興味深いものと思われる。ロールズ論としての体系性は筆者が目指すところのものでは必ずしもないだろうが、今後の加筆においては期待したい点である。

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森村進「還元主義的人格観とリバタリアニズム――吉良貴之会員への応答」への応答

 森村進先生(一橋大学)から、前年に先生の著書『リバタリアンはこう考える』(信山社出版、2013年)について私が書いた書評「リバタリアニズムにおける時間と人格」(『法哲学年報2013』2014年10月、以下「書評」とする)への応答をいただいた(森村進「還元主義的人格観とリバタリアニズム」『法哲学年報2014』2015年10月)。

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 私の書評は自分の問題関心に強く引きつけた批判的内容であったため、森村先生の中心的主張を外したものになっていたのではないかと怖れていた。しかし、今回の応答ではそれも含め、議論を全体として好意的に受け止めてくださっているように思う。いろいろと生意気な批判をしたにも関わらず真摯な応答をいただいたことに、心よりの感謝を申し上げたい。

 本稿は再反論というほどのものではないが、私の当初の問題関心をさらに明確化して述べたほうが論点がはっきりするのではないかと感じたため、若干の補足をしてみたいと思う。以下、敬称を略す。

  私の書評は、まず方法論的特徴として (1) 森村のリバタリアニズム思想の正当化における多元主義的道具立てを確認し、次に (2) 森村における時間と人格観の関わりについて、(2-1) 自己奴隷化契約と還元主義的人格観、(2-2) 他者としての将来、(2-3) 死と人格、というふうにテーマを分けて論じた。森村の応答もその順番に応じたものになっているため、本稿でも再度、その順に述べていく。

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法哲学/分析美学読書会のお知らせ

創価大学法学部・文学部ほかのみなさんへ】
今週金曜(9月25日)から、法哲学読書会を再開します。文献は『分析美学基本論文集』です。場所は【中央教育棟AW1128か1129の空いてるほう】、時間は4限~5限です。出入り自由のゆるい会なので、つまみ食い参加OKです。

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