tkira26's diary

吉良貴之@法哲学のブログ。

「法思想史」資料置き場

  • 全30回の通史的な授業です。資料を置いときます(徐々に)。

 

 

 

 

Rawls' just savings principle

  • Rawls, J. (1999). A Theory of Justice, reveised edition [1st in 1971].  Harvard University Press
  • Just savings principle: §44: 251–258; motivation assumption for, 111, 121, 254–
    256; needed to determine social minimum, 251–252; and time preference,
    253, 259–262; in classical utilitarianism, 253, 262; construction of in contract theory, 253–258; relation to difference principle, 253–254; public
    savings policies and democratic principles, 260–262; and priority questions,
    263–264; in final statement of two principles, 266–267; and principle of political settlement, 318. See also Time preference
  • Just Savings: as problem of extension, 20, 244, 274; fairness between generations, 273. 
  • Just savings principle: 145–147; presupposed by difference principle, 145; how determined, 146; and reciprocity, 146; chosen in original position, 147; maximin criterion (difference principle) inappropriate for deciding, 226; target of, 275–276; revision of account of, 418
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法理論辞典リンク集

法理論辞典というブログがとても有益なので、リンク集を作ってみた。20年ぐらい前から書かれているが、最近の文献も頻繁にアップデートされている。内容としてはおおむね、憲法を学ぶ学生が押さえておくべき社会科学や哲学の基本用語の解説だが、法・政治哲学全般に広がる内容といってよいだろう。

001: Ex Ante & Ex Post 事前/事後

002: The Coase Theorem コースの定理

003: Hypotheticals 仮定

004: The Reasonable Person 合理人

005: Holdings 判示

006: The Veil of Ignorance 無知のヴェール

007: The Prisoners' Dilemma 囚人のジレンマ

008: Utilitarianism 功利主義

009: Public Reason 公共的理由・理性

010: Deontology 義務論

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「将来を適切に切り分けること ――エーデルマンの再生産的未来主義批判を念頭に」『現代思想』2019年9月号

本稿は『現代思想』2019年9月号に執筆した論文の転載である(許可済)。掲載時のままであり、修正は行っていない。ただし、ブログの仕様上、ルビの削除など、表記に若干の変更が生じた箇所がある。

 

1. はじめに:将来は必要か?

 私たちは次世代を生み育てなければならないのか。もしかしたらその必要はないのではないか。だとすると、将来世代との規範的関係をめぐる議論はどのように変わるだろうか。本稿はこの問いを念頭に置きながら、いまだ生まれざる将来世代との関係における「世代間正義(intergenerational justice)」論を考察する。

 世代間正義論の基本的な問題設定は、私たち現在世代はいまだ存在せざる将来世代(ときにもはや存在しない過去世代)に対し、いかなる正義の関係にありうるか、というものである。地球環境問題が切迫したものとして叫ばれ始めた1960年代以降、この問題は日増しに強まる実践的重要性のもと盛んに議論されるようになった。もっとも、いまだ存在しない人々との通時的な規範的関係を問う世代間正義論は単なる「応用問題」ではなく、共時的な規範的関係に尽くされない固有の哲学的意義を有する。それは1970年代以降「復権」したとされる実践哲学の諸理論に重大な課題を与えることになった。本稿でもその取り組みの一部を検討するが、むしろ問い直したいのはそこにある「分配問題」の前提、つまり将来世代が存続することを前提として私たちが残すべきものを考える問題設定そのものである。左派と右派に共有されているこの前提をリー・エーデルマンは「再生産的未来主義(reproductive futurism)」と名付けて批判したが、本稿はエーデルマンらの「クィア時間論queer temporality theory)」を導きの糸としつつ、将来世代問題をいわばゼロベースから考えることがむしろ穏当な議論となりうることを示したい。

 なお、世代間正義というとき、現在世代内部で年齢によって区切られる集団の規範的関係を扱うこともあり(具体的には公的年金の維持可能性や、「シルバー民主主義」状況など)、上述のinter-generational問題に対し「世代内(intra-generational)」問題として区別されることもある。両者は連続的な部分もあるものの、より直接的な検討については、別稿の参照を乞う(吉良2016、吉良2017など)

 

2. 正義と倫理、あるいは京都とパリ

 世代間の規範的問題についての日本での議論は、1990年代の加藤尚武による精力的な紹介(加藤 1991など)の影響もあり、主として応用倫理学(とりわけ環境倫理学)の一分野として世代間「倫理(ethics)」の名のもと蓄積がなされてきた。ほか、厚生経済学などでは世代間の「衡平(equity)」という語が好んで用いられる。それに対し、1971年のジョン・ロールズの『正義論』(Rawls 1971=1999)以降の(主として英語圏の)法・政治哲学では、世代間の「正義(justice)」の語が一般的に用いられる。そうした議論の対象は実質的にはほとんど重なっており、互換的に用いられることも多い。

 「正義」は「各人に彼のものを(suum cuique)」という古くからの定式のように、正しい「分配(distribution)」のあり方として捉えられてきた。むろん、その分配物は物理的な資源や財には限定されず、抽象的な権利も含みうるし、その主体も個人に限られることなく共同体など集団であってよい。したがって問われるべきことはこの定式に充填すべき内容であるが、少なくともそこで「誰」に「何か」をどう分配すべきかという「分配問題」が意識されることになる。実際、ロールズ以降の正義論の中心的課題はまさに正しい分配であった。世代間正義が論じられる場面においても、将来世代の「取り分」がどのようなものであるべきかが念頭に置かれる。

 ここで現実の地球環境問題に関わる国際的取り組みの変遷も確認しておこう。1997年に採択された「京都議定書」体制では、温室効果ガスの排出規制を主張する先進国と、発展の必要を主張する途上国との間での対立が先鋭化した。この対立を緩和しようとした試みは複数あるが、最も特徴的なものは排出量取引(emission trading)であった。排出量の枠の金銭的取引を認めるこの制度は妥協の産物ではあるものの、将来世代にわたって影響のある地球環境問題が単に通時的な問題ではなく、現に共時的に存在する人々のグローバルな分配的正義の問題でもあることを示した。通時的な正義と共時的な正義という「縦横の」正義は、一方が他方を抑圧することのない関係が模索される必要がある。

 他方、そこから20年近くを経て2015年に採択された「パリ協定」は、気候変動に対する2020年以降の国際的枠組みとなるものである。各締約国の事情や能力に応じた一定の配慮はあるものの、気候変動対策を分配問題としてではなく、普遍的な義務として捉えている点が特徴的である。もっとも、2017年のトランプ大統領によるアメリカ合衆国の脱退宣言によってその実効性には早速の暗雲が立ち込めているが、それに対するフランスのマクロン大統領の批判「私たちの惑星を再び偉大にしよう("Make Our Planet Great Again")」は今後の気候変動対策の普遍的な義務の特徴を端的に表している。

 むろん、こうした動きは気候変動がより切迫した問題になったことの表れであり、そこに将来世代問題をめぐる道徳的原理の転換を読み込むことには慎重にならなければならない。ここで確認したことはあくまで、将来世代問題を各主体間の分配問題として構成するか、それともそれを超えた普遍的な問題として構成するかという、二つの捉え方がありうるということである。

 

3. 将来世代の権利論、あるいは取り替え子の同一性

 こうした取り組みは、これから生まれてくる将来世代が陰惨な環境のもとで苦しむことがあってはならないという道徳的直観に根ざしている。それ自体は穏当なものであろうし、その義務をまったく否定する規範理論は説得力を欠くことになりかねない。しかし、いまだ存在しない将来世代に対して現在世代が何らかの義務を負うとはどういうことだろうか。その正当化は世代間正義論の最大の課題の一つである。

 たとえば〈将来世代の権利論〉アプローチを取り上げてみよう。将来世代には良好な環境を享受する権利があり、現在世代はそれに対応する義務を負うというシンプルなものであり、「権利」という語の道徳的アピールも強いことから一定の支持がある(包括的な検討として、吉良 2010)。もっとも、こうした論法にはデレク・パーフィット『理由と人格』が示した非同一性問題(non-identity problem)が難題となる(Parfit 1983, chap.16)。これは、ある将来世代Fの権利要求に応じて現在世代が環境に配慮した行動をとったならばそこで出会う人々が変わり、そして生まれてくる子どもも別人になる以上、後に出現する将来世代は当初のFではなくなり、権利の実現それ自体が当初の権利主体を消去してしまうために権利論アプローチが論理的に不可能になる、という問題である。

 むろん、このいかにも反直観的な議論は、主体の同一性を遺伝的因果経路に依存させることによって狭く捉えた結果である(非同一性問題の包括的検討として、Boonin 2014)。たとえば、① 権利主体の同一性を緩く捉える(構成員の変化に左右されない「将来世代」という権利主体を考えるなど)か、② 因果経路を緩く捉える(遺伝的同一性に依存させない)かのいずれかの方向での回避が有力である――実際、人類の存続や生命の危機がかかっている場合に同一性や因果性の理解が緩められる傾向にあるのは興味深い事実である。

 もっとも、そのようにして〈構成員の同一性に左右されない集合的主体としての将来世代の権利〉を考える場合、その権利内容がいかなるものであれ、そもそもその権利主体が存在することが前提となる。小林和之(1999)はそれについて、権利があるというためには権利主体が必要であり、そうすると〈将来世代の権利〉は〈将来世代が生まれてくる権利〉を含意するとまとめている。その権利に対応する義務が現在世代の各個人に課されるならば、再生産の権利(reproductive rights)に大きな制約がもたらされる。これは権利論アプローチに限らず、将来世代の福利に配慮する義務を認める限り生じそうな問題であるが、どう対応すべきだろうか。

 

4. 再生産の義務は存在するか

4.1 クィア時間論の視角

 私たちは子どもを生み育てなければならないのだろうか。この問いは、ジェンダーセクシュアリティに関わる規範秩序のあり方に直接につながる。1960年代の「第二波」以降のフェミニズムの特徴の一つに、ジェンダーセクシュアリティの社会的意味が構築されるミクロなあり方を問題にしたことがあげられるが、以下ではその批判的後継者であるクィア理論の議論を念頭に置きながら再生産の義務について考えていく。

 クィア理論queer theory)は1980~90年代のセクシュアリティ論において、従来の gay & lesbian 論の(ともすれば)本質主義的な見方に対し、① ジェンダーセクシュアリティの社会構築主義的な見方を強調した。さらに、② ミクロな場面における意味の撹乱(「クィア=変態」という言葉を積極的な意味として反転させて用いるなど)によってジェンダーセクシュアリティの意味、とりわけ異性愛カップルとその子からなる家族を親密な関係性の典型として称揚し、それ以外の親密な関係性を格下げするような異性愛規範性(heteronormativity)を「ずらす」実践を重視してきた(cf. Pickett 2015: sec.4)

 そして本稿の関心にとって重要な、2000年代以降に発展しているクィア時間論queer temporality theory)は、人々の社会的な時間意識における意味秩序に着目する。特に、大部分の社会におけるそれは再生産(生殖と育児)にとって最も効率的な形で未来志向的に最適化されていることを問題視する。その代表的な論客であるリー・エーデルマンは、それを「再生産的未来主義(reproductive futurism)」と呼び、左派と右派の両方が共有している時間性であるとする(Edelman 1988; 2004)

4.2 再生産の個人的義務

 そうした規範性が最も露骨な形で現れるのは共同体の再生産においてであるが、それを見る前に個人レベルでの再生産義務について見ておこう。〈個人は生殖・育児という再生産を行う直接の義務を負っている〉という主張は、おそらくきわめて反直観的だが、どうすれば否定できるだろうか。または、否定する必要があるだろうか。

 ジャン・ナーヴソンはリバタリアニズム自由至上主義)の代表的論客だが、以前には功利主義的な立場から個人の再生産義務について論じている(Nerveson 1967など)功利主義が目指す効用の最大化は、その社会の効用の総計の最大化(総計功利主義)か、それとも平均の最大化(平均功利主義)かという問題があるが、ナーヴソンによると生殖の場面において総計功利主義には不都合があるという。仮に、ある子が生まれてくることが世界の効用を(たとえどんなに悲惨な生であろうとも)少しでも増大させるのであれば、個人道徳としての総計功利主義の義務を課された個々人には子を一人でも多く生む義務があり、そうすると効用の総計は最大化されても悲惨な生を送る人々が増え、効用の平均が下がる(後にパーフィットが指摘した「厭わしき結論(repugnant conclusion):Parfit 1983, chap.17)。こうした事態を防ぐためには、現に存在する人々の効用を最大化する(つまり平均功利主義の)義務のみを考えればよく、新しい生を生み出すかどうかについては中立的でなければならない。

 この議論は、① 悲惨な生を送る膨大な人口が存在するに至るような人々の選好変容の経路は考えにくいので実践的に問題にならないと一蹴されそうでもあるし(安藤 2007, 121-2)、② ピーター・シンガー流の〈存在先行説(prior existence view)+総計功利主義〉なり(Singer 2011, chap.7)パーフィットのように人格影響原理(person-affective principle)のほうを弱めるなり、効用水準に(理論的一貫性を多少犠牲にして)閾値を設定するなり、様々な回避方法がある。もっとも、ある生を生み出すことが世界の効用を少しでも増大させるという前提のもとでは、正確に効用計算がなされる限り(つまり親の負担をカウントする限り)、個人の生殖義務を直接に否定するのは困難であるように思われる(し、大抵の場面では反直観的な事態になりそうもない)。

4.3 再生産の集合的義務

 とはいっても、生殖の個人的義務はいかにも反直観的であるし、代替手段さえ認められないような状況は考えにくい。ではそれに対し、〈共同体は自身を再生産する集合的義務を負っている〉と集合的に考える方向はどうだろうか。その場合、個々人は直接の再生産義務は負わないものの、共同体の次世代再生産に寄与する間接的義務を負うことになる。なお、ここでの「共同体」は一定の人間集団を指し、「人類」といった大きな集合的主体も含まれる。

 ほとんどの人間社会にとって、自身の存続は最大限に重視される課題である。そのあり方を問題にする規範理論には、エーデルマンのいうところの「再生産的未来主義」が様々な形で現れる。代表的な議論を三点ほど確認しておこう。

 

ヨナスの定言命法

 ハンス・ヨナスによれば、人類が存在することそのものに内在的価値があり、人類にとっては存続そのものが定言命法的な義務である。ヨナスはそうした前提のもと、いまだ生まれざる将来世代は絶対的に脆弱(vulnerable)な存在であり、それに対して一方的な影響力を有する現在世代は、親が子に対して有するのと同様の一方的な責任を追う(Jonas 1979)。ここでは将来世代の存続への責任が端的に、親子関係という未来志向的な時間性のイメージのもとに捉えられている。

 

ロールズの貯蓄原理

 ロールズ『正義論』は現代の法・政治哲学において「世代間正義」を明確に主題化する嚆矢となったが、ロールズ自身の主張は、各政治共同体は次世代の存続に必要な資源を残すものとする「貯蓄原理(saving principle)」という慎ましいものである(Rawls 1999, sec.44)。これは格差原理の中に組み込まれるが、それがどのように基礎づけられているのかはそれほどはっきりしない。合理的主体像のアドホックな修正というよりは、(1) 正義感覚を備えた各人は無知のヴェール下でも一定の将来志向的な利他性をもって選択する、(2) いまだ存在せざる将来世代は時間軸上の「最も恵まれない人々」であって格差原理が通時的に適用される、といったことが、よりロールズ内在的な説明であると考えられる。ここにはロールズの「転回」をめぐるキーワードの一つであり、後期になって明示的に強調されることになる(通時的)「安定性(stability)」の要請がある(安定性について、宮本 2018)

 

民主的正統性からの議論

 多くの先進諸国で見られる、いわゆる「シルバー民主主義」「老年支配(gerontocracy)」状況は、人口の世代間不均衡が原因である場合が多い。民主的正統性を政治的責務の問題として捉えた場合、極端な人口の不均衡のもと若年世代が十分に政治的に代表されていない状況では、若年世代はそこでの集合的決定に従う理由(=正統性)に乏しい。そうすると、たとえば賦課式の公的年金などによって世代間扶助の仕組みを作る場合のように、将来を見据えた全世代的な民主的正統性が要請されるのであれば、各世代は極端な人口不均衡が生じないように再生産を行う集合的義務を負う(安藤 2017)。そうした義務を怠った世代の老後は悲惨なイメージで描かれるし、ここでの「自業自得」は人口感応的(demo-sensitive)なものとして規範的に正当化されうる(Gossries 2009, 141-3)

 

5. the view from no future

 性に関わる社会規範や法制度はほとんどの場合、異性愛中心主義的に、かつ一時の熱情に左右されない安定的な関係を後押しする。そして、そうでない多様な、開かれた性のあり方を「異常」なものという烙印を押して格下げ(degrade)する。そうするのは上記のいくつかの例に示したような共同体的再生産を最も効率的に進めるため、というのが第二波以降のフェミニズムクィア理論の指摘によって指摘されてきたことである。

 こうしたやり方は周縁化される人々にとっては抑圧的なものであり、たとえば婚姻制度廃止論(パートナーシップ契約への解消)によって異性愛規範の解体を図ろうとする議論がなされる。しかし、それに対しては共同体的再生産の必要から(あるいはフェアネスの観点から)批判がなされうる。すなわち:〈共同体の存続による恩恵を自身も受けていながら、それを下支えする異性愛規範性およびそれを具体化する法制度を批判するのはフェアネスに反する、もしくは自己破壊的な主張ではないか?〉

 こうした批判に対する応答には、大きく分けて2種類ある。

 ① 穏当な応答: 再生産に関わる不正は(おそらく多くの場合において異性愛規範によって推進される)男女の負担のアンバランスにあり、異性愛規範を強化しない形でその負担の適正な分配を行うことが必要である。

 ② 過激な応答: 異性愛規範によって生じる不正はきわめて悪質なものであり、その是正は共同体再生産の必要を上回るものである。

 エーデルマンの「ノー・フューチャー」宣言は明示的に2の方向をとるものである。「未来を存続させなければならない」という「再生産的未来主義」に左派も右派も縛られた保守的な営みが政治であり、そこからたとえば「生産性」によって人を評価する呪縛が生じる。そこに未来を拒否する死の欲動でもって対立を持ち込む実践がクィアである。

 エーデルマンの方針は、再生産と結びついた未来志向性の放棄というラディカルなものであり、およそ現実的なものとはいえないが、重要なのはその批判的視点である。トマス・ネーゲルの有名な著書のタイトルをもじれば、その ”the view from no future” は、いまだ生まれざる将来世代が当然に存続すべきものではないことを主張するが、それは必ずしも破壊的な帰結をともなうものではない。世代間問題について未来を見すぎることなく、共時的な問題とのバランスを取りながら、いわばゼロベースからの思考の積み上げを可能にするものである。それはたとえば、人類の存続がかかった場面における世代間〈倫理〉と、各種の問題に応じた分配問題として構成する世代間〈正義〉の、両者を適切に使い分けることでもある。また短期的な次世代再生産、中期的な資源保存、そして長期的な気候変動対策といったように将来世代問題はその時間的スパンによって異なった規範的特徴を有しており、それに適した世代主体性(generational agencies)を切り分ける議論がなされなければならない。通時的に普遍的な視点はあくまでその一つとして捉え直される。そして本稿で検討したいくつかの議論にもその射程に応じた位置づけがなされることになろう。

 

付記

 本稿は科学研究費補助金(若手研究)「世代間正義と世代内正義の接続可能性」(課題番号18K12616)の成果の一部である。

 

文献

  • 安藤馨(2007)『統治と功利』勁草書房
  • 安藤馨(2017)「世代間正義における価値と当為」、杉田敦編『講座 現代(4) グローバル化のなかの政治』岩波書店
  • 加藤尚武(1991)『環境倫理学のすすめ』丸善
  • 吉良貴之(2010)「世代間正義と将来世代の権利論」、愛敬浩二編『人権の主体』法律文化社
  • 吉良貴之(2016)「年金は世代間の助け合いであるべきか?」、瀧川裕英編『問いかける法哲学法律文化社
  • 吉良貴之(2017)「シルバー民主主義の憲法問題」、片桐直人・松尾陽・岡田順太編『憲法のこれから』日本評論社
  • 小林和之(1999)「未来は値するか?」、井上達夫・松浦好治・嶋津格編『法の臨界〈3〉法実践への提言』東京大学出版会
  • 宮本雅也(2018)「安定性から読み解くロールズの転回問題」、井上彰編『ロールズを読む』ナカニシヤ出版
  • David Boonin (2014) The Non-Identity Problem and the Ethics of Future People, Oxford University Press
  • Lee Edelman (1988) “The Future is Kid Stuff: Queer Theory, Disidentification, and the Death Drive,” Narrative, Vol.6, No.1(藤高和輝訳「未来は子供騙し:クィア理論、非同一化、そして死の欲動」『思想』2019年5月号)。
  • Lee Edelman (2004) No Future: Queer Theory and the Death Drive, Duke University Press Books
  • Hans Jonas (1979) Das Prinzip Verantwortung: Versuch einer Ethik für die technologische Zivilisation, Frankfurt am Main: Insel-Verlag(加藤尚武監訳『責任という原理』東信堂、2000年)
  • Jan Nerveson (1967) “Utilitarianism and New Generations,” Mind 76/301
  • Derek Parfit (1984) Reasons and Persons, Oxford University Press森村進訳『理由と人格』勁草書房、1998年)
  • Ernest Partridge (1990) “On the Rights of Future Generations,” in Upstream/Downstream: Issues in Environmental Ethics, ed., D. Sherer, Temple University Press(本論文も含め、関連する論考がウェブサイトで閲覧可能。http://gadfly.igc.org/
  • Axel Gosseries (2009) “Three Models of Intergenerational Reciprocity,” in Intergenerational Justice, eds., A. Gosseries, and L. H. Mayer, Oxford University Press
  • Brent Pickett (2015) “Homosexuality,” Stanford Encyclopedia of Philosophy, https://plato.stanford.edu/entries/homosexuality/
  • John Rawls (1999) A Theory of Justice, revised edition, Harvard University Press (first edition in 1971)(川本隆史・福間聡・神島裕子訳『正義論(改訂版)』紀伊國屋書店、二〇一〇年)
  • Peter Singer (2011) Practical Ethics, 3rd edition, Cambridge University Press(山内友三郎・塚崎智『実践の倫理(新版)』昭和堂、1999年)

 

時刻表

個人的なメモです。

 

15時: 06西 09山 24山 27六 39山 54山

16時: 09山 16西 19六 24山 39山 54山

17時: 02六 09山 18西 24山 39山 39六 54山

18時: 09山 12西 19六 24山 39山 47西 54山

19時: 02六 09山 24山 36西 39山 54山 56六

20時: 09山 24山 39山 43西 49六 54山

21時: 09山 24山 39山 42西 54山

22時: 06山 09山 10六 24山 35山 37山 52山

23時: 05山 10山 21山 37山 43山 01山

 

15時: 00さ 15さ 30さ 45さ

16時: 00さ 15さ 30さ 45さ

17時: 00さ 10さ 20さ 30さ 40さ 50さ

18時: 00さ 10さ 20さ 30さ 40さ 50さ

19時: 00さ 10さ 20さ 30さ 40さ 50さ

20時: 00さ 15さ 30さ 45さ

21時: 00さ 15さ 30さ 45さ

22時: 00さ 18さ 40さ 57さ

23時: 17さ 36さ 57さ

法哲学関連の国際ジャーナル

 法哲学を専門にしている、英語の国際ジャーナルには以下のようなものがある。ひとまずこれらが、いわゆる「トップジャーナル」(少なくともそれに類するもの)といってよいものだろう。

 これはそのまま、私がよく読んでいるジャーナルの順番になっている(太字にしているものは法哲学分野の「四大ジャーナル」と呼ばれることもある。ジャーナルにはそれぞれ、だいたいの特徴がある。

各ジャーナルの特徴

  • Ratio Juris 法哲学法思想史全般を扱っており、掲載されている論文も20ページ前後と短いものが多い。英語ではあるが、ドイツ語圏の議論をテーマにする論文も多いことは特色だろう。この分野の世界的なトレンドをざっと押さえておくのに便利なジャーナルといえる。ただ、短いこともあってか、論文の水準はさまざまである。
  • Oxford Journal of Legal Studies は、私の見るところ、現在、法哲学分野で最も水準の高いジャーナルだと思う。ただ、テーマはある程度絞られていて、いわゆる法概念論とか一般法理学といったもの、もっと特定的にいえば H. L. A. ハートの議論を何らかの形で受け継ぐものが多いように見受けられる。しかしその一方、実定法の基礎理論であることを目指した論文が多く載っていることも大きな特色である。
  • Law and Philosophy 法哲学分野を広くカバーするジャーナルであり、一論文あたりの分量も多いことから、しっかりした内容のものが載っているように思う。このジャーナルで「はずれ」の論文を見ることはあまりない。ときどきなされている特集も充実しているものが多い。また、書評を多めに載せているので、重要な新刊書籍をチェックするのにもよい。
  • Legal Theory かつて最も高水準といわれていたが、最近はかなり雑多に広がっているように思われる。正直なところ、現在では面白そうな論文があればつまみ食いで読むぐらいでよいと思う。どのジャーナルでもそうだが、編集委員会のメンバーの移り変わりなどによって、同じジャーナルでも性格がかなり異なってくる
  • ARSP: Archiv für Rechts- und Sozialphilosophie は、法哲学分野の国際学会である「法哲学・社会哲学国際学会連合(IVR: The International Association for the Philosophy of Law and Social Philosophy)」のジャーナル。英語だけでなく、ドイツ語ほか、いくつかの言語の論文が載っている。世界レベルでの法哲学の多様性がよくわかる。
  • JurisprudenceCanadian Journal of Law and JurisprudenceJournal of Legal Philosophy あたりは、私としては毎号の目次を見て、気になるものがあれば読むという程度である。どういう傾向や特色があるのか、それほどはっきりしないという印象をもっている(だからいけないというわけでもない)。

 大学院の修士課程の院生や、これから大学院入試で何か専門的なテーマを決めたいけれど何を手がかりにすればよいかわからない、という方には、上記のうちだと Law and Philosophy  Legal Theory あたりはわりと具体的というか実践的なテーマの論文が多いので、参考になるだろう(英語の勉強も兼ねて)。ピンときた言葉があれば Stanford Encyclopedia of Philosophy でどんな議論があるかを概観して、そこに載っている文献をたどっていけば(そして下記の隣接分野も含めて各ジャーナル内でその言葉を検索して読んでいけば)論じるべきことが見えてくると思う。

 私のときは少なくとも院試レベルで英語文献をがんがん読むことは求められていなかったし、今でもたぶんそこまでではない。まあでもだんだんそういうのがスタンダードになってくるのは確実なので、できるだけ慣れておくのがよいです。

 この他にもいろいろなジャーナルがあるが、私がある程度以上に定期的にチェックしているのはこれぐらいである。この他、Law & Literature などのように、より特化したテーマのジャーナルもたくさんある。またもちろん、ドイツ語やフランス語にも重要なジャーナルがあるが、私はときどき眺める程度である(フランス語だとたとえば、Revue interdisciplinaire d'études juridiques など)。

アメリカのロージャーナル

 重要なこととして、アメリカのロージャーナルにももちろん、法哲学分野の重要な論文が多く掲載されている。ただ、こちらはジャーナルの数が多すぎて、法哲学関連は埋もれがちなので、私はあまりチェックできていない。

 アメリカのロージャーナルの特徴的な査読システム(異様に細かい参照が要求される)の結果なのだろうが、長い論文になりがちということもある。これは判例分析が必要な実定法分野の論文では重要かもしれないが、法哲学分野の論文に適したあり方かどうかというとよくわからない(公平のために、ロナルド・ドゥオーキンの論文はアメリカのロージャーナルによく載っていたことを付け加えておこう)。少なくとも私は、読むのがものすごくしんどい。他の論文の参考文献からたどったり、著者名などから判断して、重要そうなものを読んでいくぐらいになっている。

ジャーナル論文の位置付け

 参考になるものとして、Brian Leiter のブログ記事 "Legal Philosophy Journals"(2006年10月)がある。相場観としてはだいたい、私が上に書いたようなこととそれほど変わらないと思う。ただ、十数年が経過して、事情が変わったところも多いだろう。おそらくかなり多くの学問分野に共通することだが、この20年ぐらいで、国際ジャーナル論文の研究上の重要性が飛躍的に高まっている。各ジャーナルもそれに応じて変わっている最中である。仲間内の水準の低い論文を載せているものはすぐに読まれなくなる。

 かつてであれば、優れた論文はやがて書籍にまとめられるだろうから「最新の流行」をそうそう追いかけるものではない、といったことも言われていた。しかし、もはやそれはあてはまらなくなりつつある。もちろん、書籍としてまとまったものをじっくり読むことも大事だが、それだけでは下手したら十年単位のタイムラグが生じてしまう。流行を追うのは哲学的な態度ではない、などといっていると致命的な見落としが生じかねない。最先端の熾烈な競争も一応はチェックするのがよいだろう。

書籍

 書籍として出版されるものでは、Oxford University Press が頭一つ抜けている。次に、Cambridge University Press、Harvard Universty Press というところ。Springer もたくさん出しているが、特に論文集はかなり雑多なものも多い。

 このあたりの新刊案内をチェックし、あと Law and Philosophy の書評を見ておけばそうそう取りこぼしはないと思う。

近年は Oxford Handbook、Cambridge Companion、Routledge Handbook といったシリーズものがたくさん出ており、法哲学分野もある。そのトピックでどんなことが問題になっているか、目次だけでも見て概観するのもよいだろう。内容的にも、自身の主張を押し出すというより、サーヴェイ的なものが多いようである。ただ、だいたい分厚いので、通読するようなものでもない。

隣接分野のジャーナル

 ここで紹介したジャーナルは法哲学分野といっても、とりわけ法概念論・一般法理学、および実定法基礎理論が中心となっている。法哲学にはもちろん、正義論・法価値論というもう一つの大きな分野がある*1。そうした論文も今回のジャーナルにある程度は載っているが、研究を進めるうえでは当然、政治哲学、道徳哲学、倫理学といった分野を見ていく必要がある。

 私が定期的にチェックしているジャーナルは Philosophy and Public AffairsEthicsUtilitasEuropean Journal of Political Theory といったあたりになるが、隣接分野も含めると膨大な数になってくる。同じく Brian Leiter のブログ記事 "Specialist journals that publish the best articles in moral and/or political philosophy: the results"(2022年8月) に便利な一覧が載っているので、そちらを参照してもらうのがよいだろう。こちらは定期的に更新されている。

オンラインデータベースの格差

 今回紹介したジャーナルはほとんどオンラインで読むことになる。その場合、所属大学にどのデータベースの契約があるかによって、論文へのアクセスが大きく変わってくる。上述のジャーナルはおおむね、Wiley や Springer、および Oxford と Cambridge の大学出版会のデータベースで読むことができる。このあたりは比較的多くの大学で契約があると思われる。しかし、たとえば SAGE、Taylor & Francis、また Chicago 大学出版会といったデータベースになると、日本の大学での契約数は少なくなってくる(JSTOR で読むことができるが数年遅れ、といったこともある)。法学系だと Hein は重要だが、契約している大学はあまり多くない。

 こういったデータベースの格差は今後、より厳しいものになってくるだろう。大学を超えた契約のあり方を考えるなど、早急の対策が必要である。

 

*1:法学方法論を入れて三大分野にすべきだという人もいるのだが、出てくる文献の量が圧倒的に違う。内容的にも、法概念論・一般法理学に入れて考えるのがよさそうに思う――といっても、そういうジャンル分けにたいした意味はない。

井田良『死刑制度と刑罰理論』(岩波書店、2022年)

 本書をゼミで読んでいる。いわゆる死刑存廃論の頻出の論点はさほど扱われず(最後の補論で多少の言及がある程度)、メインの内容は、① 刑罰は何のためにあるのかという根本的な問題の考察と、② 近年の日本での重罰化・厳罰化、そして「被害感情」の重視といったことがなぜ起こっているかということの分析である。

 著者の立場は、② についてはおおむねオーソドックスな犯罪社会学をなぞるものといえる。しかし随所に刑法の具体的な話(日独の理論動向や、制度のあり方)が補われるので、それが類書にないオリジナリティを本書に与えている。他方、① は著者独自の立場、つまり新ヘーゲル主義的な「応報刑ルネサンス」をふまえた「規範保護型応報刑論」といったものである。これは慎重な検討を要する主張である。

 私の率直な感想としては、②についてはさらなる議論はもちろん可能なものの、大きな異論はない。①については、一貫した理論ではあるものの、かなり特異な規範存在論をとっているため、にわかに賛成はできない。とはいっても私は刑法を専門的に勉強したことはないので、以下、いくつかの外在的な疑問を述べるにとどまる。本書は少なくとも値段から判断するに、ある程度は一般読書人向けの内容でもあるから、外在的なコメントを述べることにも一定の意義があるだろう。しかしもちろん、私が刑法学について誤解をしているのであれば、専門外だと言い訳するつもりはまったくない。

1. 規範保護型応報刑論:「被害者」とは誰なのか?

 本書は通説的な(?)「実害対応型応報刑論」を批判し、新ヘーゲル主義的な「規範保護型応報刑論」を刑罰論の基礎に据える。この議論のドイツにおける展開を私はほとんど追えていないが、飯島暢『自由の普遍的保障と哲学的刑法理論』(成文堂、2016年)が見事に整理しているので、私の理解ももっぱらそれに基づく。

 近年のドイツ刑法学での「応報刑ルネサンス」にはカント派とヘーゲル派の流れがあり、一般的にいわれる「応報刑論」はカント派の厳格主義に近いものといえるだろう。それに対し、著者が好意的に援用するヘーゲル派の議論はかなり直観に反するものである。以下、乱暴を承知でまとめる。「応報」というからにはその前に何らかの加害があり、その被害者がいる。その回復として応報がある。そこで「被害者」とは誰か。カント派的にはもちろん加害を受けた当人、本書の主題である「死刑」が問題になるような場面についてより正確にいえば、当人の「人格」ということになる。応報とは人格への加害に対するものであり、とりわけ殺人は殺人者本人の人格によってのみ、つまり死刑によってしか釣り合わせることができない。人格は人格としか釣り合わない。他の刑罰による代替は殺人によって失われた人格を何か別のものと釣り合わせることであり、それは人格の手段化という、カント的倫理への重大な違反である。カントの評判の悪い死刑肯定論はこういう筋道になっている。

 それに対しヘーゲル派の場合、「被害者」は誰なのか。これもわかりにくいが、現実の犯罪被害者ではないし、カント的に措定されるような人格でもない。端的にいえば「法規範」である。法規範の否定が犯罪であり、それを国家権力がさらに否定し返す否定の否定が刑罰、つまり応報刑である。犯罪者は具体的な誰かに対して罪を犯したから罰せられるのではない。法規範を否定したから罰せられるのである。それによって現実の被害者が救済されることもあるが、それはあくまで偶然的な、反射的利益にすぎない。いわゆる「被害者なき犯罪」であっても、また天涯孤独の者の殺人であっても、そうした事情はヘーゲル的刑罰論にあっては無関係である。「被害者」はあくまで国家の法規範なのだ。この点ではカント風の「世界が滅ぶとも正義をしてなさしめよ」という厳格主義と――カントでは「人格」、ヘーゲルでは「規範」というように「被害者」は異なるが――外形的には接近してくる。

 さて、こうしたヘーゲル主義的な「規範保護型応報刑論」は、かなり特異な規範存在論であるといわざるをえないが、確かに理論的な一貫性はある。ただ、本書がかなりの紙幅をとって論じている「被害感情」について、その充足が偶然的な「反射的利益」にすぎないとされてしまうと、ここ20年程度の「被害感情」の充足に向けた制度改革被害者参加制度など)は一体どのように位置づけられるのかという疑問を抱かざるをえない。著者はかつての「被害者不在」の刑罰理論を支持するのだろうか?

 もちろんそんなことはないだろう。たとえば106-107頁で印象深く述べられている「二重評価の禁止」の箇所では、刑罰には「平均化された被害感情」があらかじめカウントされているのだという。なので、個別の被害感情を具体的な量刑判断において考慮に入れるとしたら、それは同じものを二重に評価することになって許されない。個別の被害感情が考慮に入ってくるのは、平均から大きく逸脱するような特殊な事情がある場合だけである。ここで「平均」という言葉を用いると、たとえばまったく被害感情(とりわけ処罰感情)を持たない被害者がいた場合に刑罰を軽くすべきだといった話になってしまいそうだが、おそらくそれは意図されていないはずだ。だから「抽象化された被害感情」というほうがより的確な表現であるように私には思われる。ヘーゲル的刑罰論において考慮される被害感情は、当該法規範体系において重要なものと位置づけられた抽象的な考慮要素であって、現実の被害者の被害感情の程度から直接の影響を受けるわけではない。規範に組み込まれる形で抽象化された被害感情に大きな影響を与えうるような例外的な場合のみ、具体的な被害感情が考慮要素として入ってくる。本書であげられている例だと、光市母子殺害事件での苛烈な処罰感情とそれに対する社会的支持の広がりがそれにあたる。

2. ヘーゲル的「規範」は現実をどのように取り込むのか?

 こうした読み方が正しいとすれば、法規範と現実との接点が見えてくる。本書で詳細に述べられている、近年の重罰化・厳罰化志向の高まりは、少なくとも犯罪類型によっては、予防という観点からの科学的根拠を有するものでは必ずしもないのだが、そこで異質な他者や「リスク」要因を問答無用に排除するための「切り札」として「被害感情」がせり上がってきた。社会が複雑化し、犯罪の原因をたとえば経済状況のような理解しやすいものに還元できなくなった時代に、人々がリスク要因の排除のために頼るようになったのが、一方で犯人の「自己責任」、他方で「被害感情」だったのである(死刑存廃論でも「被害感情」が「存置派」の最大の根拠となったのはここ20~30年のことだろう)。社会意識のこうした変化はヘーゲル的な意味で実在する「規範」にも組み込まれていく。(筆者の言葉でいう)「平均化された被害感情」が刑罰の根拠としてカウントされるというのは、そうした「規範化」のダイナミズムとして理解するのが整合的であるだろう。

 そうすると、現実の被害感情の充足が「規範保護型応報刑」においては偶然的な「反射的利益」であるという著者の記述は、いささか整合性を欠くもののように思われる。被害感情は社会意識の変化を通じて「規範」へと包摂されていく。なので、その規範を保護する応報刑は、現実の被害感情を間接的にではあるが実際に保護していると考えるべきではないかと思われる。

 こうした読み方は、あくまで本書を整合的に読むならばそうなるのではないか、ということであり、新ヘーゲル主義の応報刑論とどこまで整合的かという問題は別途考えるべき問題だろうと思われる(それを検討する能力は私にはない)。本書にあえて注文をつけるとすれば、そうした社会意識の変化がヘーゲル的な意味での規範へとどのようにして包摂されていくのか、ということの記述がもっとなされれば、本書全体がより有機的に、また穏当な結論を導くものとなるのではないか、と思う。

3. 死刑は他の刑罰とどれだけ異なるのか?

 なお、本書の題名となっている「死刑」については、本書でもある程度の紙幅をとって現状の制度のあり方が述べられているし、勉強になる箇所も多かった。ただ、本書の理論的な核となっている「規範保護型応報刑論」にとって、死刑が何か特別な意味付けを与えられるようには思えなかった。死刑も含む、刑罰一般の根拠論として展開されているように思われたからである。ここから「死刑存廃論」について具体的な示唆を得ることは困難だろう。もちろん、本書の目的はそこにはない。我々の社会が保護しようとしている「規範」とはどのようなものか、そこに「被害感情」などはどのように入ってくるか、ということを考えるための視点をもたらしたという点で、本書の功績は十分にある。ただ、『死刑制度と刑罰理論』という題名を冠する以上、他の刑罰に比べての死刑の「規範的」特殊性について論じる箇所がもっと多くてもよかったのではないかということは、決して不当な要望ではないだろう。問いを明確にすると、ヘーゲル的な「規範」において死刑の占めるべき位置はあるのか、それは社会の意識変化によってどのように変わったり変わらなかったりするのか、ということである。

 正確を期すと、167頁前後に多少の記述があり、ここはむしろヘーゲル的というよりはカント的であるようだ。もちろん両者の理論には一定の関係があるし、ヘーゲル的刑罰理論だけで一貫させなければならないというわけではもちろんない。本書に混淆的な性格があるとすればそれは著者のオリジナリティにもなりうる。今後の理論展開をおおいに期待する。

通常の3倍で法学部を楽しもう

 私は映画が好きでよく観ています。本学(愛知大学名古屋キャンパス)はお隣に映画館があるという最高の立地なので、そこも楽しみです。

 映画というのは「コスパのいい」趣味で、1000本ぐらい観れば評論家みたいなことがすぐ語れるようになります。ここで「1000本」というのは私がいま考えた適当な数字ですが、昔だったらたった1000本でえらそうなこと言うな、1万本ぐらい観てから出直してこい、みたいにマウンティングする「シネフィル」という怖い人もいました。本数勝負になるとヒマな人が勝つので、あまり面白くないですね。とりあえず1000本で十分でしょうが、それでも多すぎると思われるかもしれません。映画館で全部観ていたら1回1500円としても150万円もかかってしまいます。もちろん、そこまでする必要はなく、今では Netflix とか Hulu の配信サービスで安く観ることができます。ネット配信のよいところは、倍速再生ができることです。私はだいたい3倍速で観ているので、映画1本が30分ぐらいです。そうすると1日3本ぐらい観ることもそんなに難しくないので、1年で1000本がすぐに達成できます。

 何をおかしなことを言ってるんだ?と思われた方も多いかもしれません。せっかくの作品をそんなふうに猛スピードで消費するとか、それで本当に鑑賞したといえるのかと。しかし、名作は3倍速でも十分面白いと思いますし、どうしても気になるところがあれば戻ってゆっくり観ればいいのです。みんな同じスピードで観るほうがなんだか同調圧力みたいで気持ち悪いのであって、それぞれ好きなスピードで観ればいいではないですか。私だって、映画館で観るときにはマナーを守って他の観客と同じスピードで観ているんですよ。1人で観るときぐらい自由でいいでしょう!

 この話で何が言いたいかというと、現代はそれぐらい、情報を処理するスピードが上がっているということです。私は将棋も好きなんですが、かつての大名人である羽生善治さんは、現代の将棋界では三段までは「高速道路」があると述べています。三段というのは「プロのちょっと手前」です。そこまでであれば、最新の情報をAIとか使いながら猛烈に摂取すれば、案外すぐ到達できてしまうということです。映画評論だってそうだし、似たような状況はいろんな分野で起こっています。現代は「プロのちょっと手前」に行くのがわりと簡単な時代になっています*1

 学生のみなさんは、大学では好きなことを自由にやれとよく言われていることでしょう。好きなことがある方はそうしてください。でもたぶん、好きなことなんてよくわからない、という方のほうが多いと思います。そういう方は、映画でもなんでもいいので情報を猛スピードで摂取してみてください。どんなことでも3倍速で1年やれば相当なものだし、何が好きなのかもわかってくるでしょう。

 これは勉強でもそうです。岩波文庫の分厚い古典にいきなりチャレンジして、1日に数ページしか読めなくて、ああ深いなあ~、と思っても後には何も残りません。そんな時間があったら、新書を猛烈に読むほうがずっとマシです。今だったら、世界中の学術論文がインターネットで読めるので、それをがんがん読んでいくのもいいでしょう。いやいや外国語でそんなの読めないよ、と思われるかもしれませんが、最近は DeepL など、いい翻訳ソフトがあるので、おおいに利用するとよいです。――もちろん、そんな勉強の仕方では細かいところがすっ飛ばされてしまうので、正確な理解には至りません。それでも、量は質に転化します。「プロのちょっと手前」には到達できてしまうのです。

 本当にそんなんでいいのか?と不安に思われた方も多いことでしょう。でも、この方法で到達できるのはあくまで「プロのちょっと手前」です。仕事としてその知識を使いこなせる「プロ」になるには、あと一歩が必要です。「ちょっと手前」まで来て初めて、その一歩が果てしなく大きいことに気づきます。というか、そこがスタート地点です。そこで大学の授業を見つめ直してもらえると、その次の一歩を踏み出すための、案外よくできた材料がたくさん提供されていることがわかります。卒業して仕事していくなかで大学の便利さがよくわかった、と言ってくれる方は多いんですが、それではもったいない。みなさんは3倍速で走って、在学中に気づいてもらいたいと思います。

 

<研究の一般的内容、学問的性格>

 「法哲学」を研究しています。サンデル先生の「白熱教室」とかで有名になった分野で、「正義とは?」「法とは?」などと本気で問いかけています。変なことを考えるのが仕事なので、↑↑ みたいなことを平気で言います。授業もこんな感じです。

 でもあくまで「法」哲学ですので、着地点は「法」だと思っています。いくら面白おかしいことを考えても、法学部での勉強に役立たなければ仕方ありません。法律学で出てくるいろんな論点について、ちょっと変わった角度からゆさぶってみます。それによって、まだまだ考えることがあるんだなあ、法ってすごいなあ、と思ってもらうのが法哲学の役割です。

 

 関連する文章にこんなのがあります。法律家を目指す人以外にも、法哲学とか何の役に立つの?と思ったことのある方向けです。ぜひどうぞ。

*1:いやもちろん将棋の奨励会三段なんてむちゃくちゃ難しいですが。

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女性映画は何から離反するのか?――アニエス・ヴァルダとケリー・ライカート

一、映画史が排除した起源

 映画には明確な起源があるらしい。一八九五年、フランスのリュミエール兄弟が初めて複数の観客に向けて動く映像の公開を行った。伝統的な映画史の記述はそこから始まる。それに先立つ一八九三年のトーマス・エジソンのキネトスコープ(一人で覗き込むもの)はまだしも、リュミエール兄弟よりも一ヶ月ほど早くベルリンで映画上映をスクラダノウスキー兄弟の功績はもはや忘れられている。

 黎明期の重要な人物としてもう一人、フランスのアリス・ギイ(一八七三~一九六八)がいる。単なる記録映像ではなく、何らかの演出によって物語を与えられた「劇映画」の始まりはリュミエール兄弟の「水をかけられた散水夫」(一八九五年)であるという公式の歴史があるが、しかし同時期にアリス・ギイの監督による「キャベツの妖精」という作品も制作された。ギイはその後、一九二〇年頃までに約七〇〇本の作品を監督し、複雑な物語を表現する劇映画というジャンルの先駆者となった。ここで劇映画監督の本当の最初が誰であったかということは大きな問題ではない。リュミエール兄弟、あるいはその後のジョルジュ・メリエスを先駆者とする、つまりギイという女性を排除した映画史が語られたことが罪深いといえる。ギイは一九五五年、八〇歳でフランス・レジオンドヌール勲章を受賞したものの、その映画史上の功績が論じられるようになったのはせいぜい一九九〇年代以降のことであった。しかし現在でもその扱いは不当に小さい。二〇二一年時点では、日本語版ウィキペディアにはギイの項目さえない。

 

二、ヴァルダ、「女性映画」の多様性

 第二次世界大戦後の重要人物として外せないのは、フランスのアニエス・ヴァルダ(一九二八~二〇一九)である。ヴァルダの長編デビュー作『ラ・ポワント・クールト』(仏、一九五五年)はフランス南部の小さな港町の人々を描いた小品である。下層の人々の生活を映し出すイタリア・ネオレアリズモ風のパートと、不毛な会話を繰り返す夫婦を描いたヌーヴォー・ロマン風のパートが無関係に同時進行する奇妙な構成は、現在では映画運動「ヌーヴェル・ヴァーグ」の始まりとみなされている。

 もっとも、ヌーヴェル・ヴァーグの正史では一九五九年のジャン=リュック・ゴダール勝手にしやがれ』やフランソワ・トリュフォー大人は判ってくれない』が画期的な作品とされ、『ラ・ポワント・クールト』の位置付けは後の評価による。ギイと同様、女性を排除した映画史が語られたことになる。しかしヴァルダは『5時から7時までのクレオ』(仏、一九六一年)、『幸福』(仏、一九六五年)といった重要作品を発表したこともあって、ヌーヴェル・ヴァーグのうち、理知的なドキュメンタリー風作品を特徴とする「セーヌ左岸派」の重要人物としての地位を確固たるものとした――さらに、後に「ヌーヴェル・ヴァーグの祖母」という、いくぶん問題のある呼称もつけられた。

 ヴァルダは『歌う女・歌わない女』(仏、一九七七年)のような戦闘的なフェミニスト映画も撮ってはいるが、自身が「フェミニスト」あるいは「女性監督」として一括りにされることには戸惑いを表明している[1]。女性監督たちの作品はそれぞれに多様な魅力にあふれている。それはヴァルダ自身の多彩な作品が何よりも表している。「女性映画」を語るとき「女性ならではの繊細な感性」といったものを持ち出すのは陳腐であるのみならず、男性中心に作られてきた映画の作法から女性を周辺化することにほかならない

 二〇一七年、アメリカの著名映画プロデューサー、ハーヴェイ・ワインスタインが女優たちに対して長年行ってきた性暴力が告発されたことをきっかけに、全世界的な「#MeToo」運動が起こった。映画業界がそれだけ男性中心の性差別的なシステムであることはアメリカだけでなく、フランスでも問題になった。二〇一八年のカンヌ映画祭でヴァルダは「女性監督」としての象徴的役割を引き受け、映画制作における男女の格差是正を訴えるデモの先頭に立った。この映画祭の最高賞パルム・ドールを受賞した女性監督はジェーン・カンピオン(『ピアノ・レッスン』、一九九三年)、そしてヴァルダの二人しかいなかった。カンピオンは陳凱歌との共同受賞、ヴァルダは長年の功績が称えられた名誉賞である。二〇二一年になってやっと、ジュリア・デュクルノー監督が『チタン』で単独受賞を果たす。

 

三、ライカートは『スター・ウォーズ』を観ない

 この数十年、女性の映画監督は世界中で活躍している[2]。本稿では最後に、近年の重要監督としてケリー・ライカート(米、一九六四~)を取り上げたい。ライカートは『リバー・オブ・グラス』(米、一九九四年)でデビューし、その後『オールド・ジョイ』(米、二〇〇六年)、『ウェンディ&ルーシー』(米、二〇〇八年)、『ミークス・カットオフ』(米、二〇一〇年)などの傑作を世に送り出してきた。

 ライカートの作品はその徹底したミニマリズムが特徴である。何気なく撮られているような横移動があまりにもしっかりと「決まって」いることに、構図のアートとしての映画の快楽がある。しかし逆にいえばそれだけだ。たいした事件はまったく起きない。ジャンルとしてはアメリカ映画に典型的な、そして「男性的」とみなされてきたクライム・アクション、ロードムービー、そして西部劇だが、それにふさわしい物語をまったく作らないという「失敗」によって、ジャンルの骨格だけを浮き彫りにしてみせる。

 こうしたライカートの映画の「女性的なもの」がどのようなものか、即断はできない。ただ、注目すべき事情が一点ある。デビュー作『リバー・オブ・グラス』ではいまだ雑多な要素がその世界を彩っていたが、十二年のブランク(原因は女性監督であるがゆえの資金集めの難しさだったという)を経た後の『オールド・ジョイ』以降、徹底的に無駄が削ぎ落とされた映画になっていく。それは予算的な制約のためであり、またもちろん、映画的な洗練でもあるだろう。しかしライカートは各種のインタビューで[3]、興味深いことをほのめかしている。初期の映画を作る過程では、多くの男性スタッフが年若き女性監督にあれこれと「映画の作法」を講釈してきたようだ。その煩わしさから、信頼できる少数のスタッフのみに絞り込んでいったと。ライカートのミニマリズムはその結果でもある。

 男性が若い女性にあれこれ「教えたがる」ことを「マンスプレイニング」というが、それは単に知識を利用した支配欲の表れではない。何が教える価値のある知識なのかを男性が構築する行為である。ライカートは『スター・ウォーズ』を観たことがないというが、それは権威的で男性的な映画作法の象徴として捉えられている。ライカートがそれを拒否していったことは、男性的に構築された知の組み換えであった。多彩な「女性映画」に何か共通のものがあるとすれば、まずはそうした知のあり方からの離反にあるだろう。

 

本稿は宇都宮市を中心とする映画サークル『映画好包』第1号(2021年10月)に掲載したものである(転載許諾済)。

 

[1] アニエス・ヴァルダ(相川千尋訳)「トロントについての覚え書き」『シモーヌ vol.4』(現代書館、二〇二一年[原著は一九七四年])

[2] 二〇二一年五月、うさぎやTSUTAYA宇都宮駅東口店にて、筆者は最近の世界の女性監督作品十本のセレクションを行った。次のブログ記事を参照。

https://tkira26.hateblo.jp/entry/2021/05/03/173711

[3] 例として、”Kelly Reichardt: the quiet American,” Sight & Sounds, 25 May 2021

https://www.bfi.org.uk/sight-and-sound/interviews/kelly-reichardt-first-cow

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オンライン授業は大学を社会に開く

 『下野教育』767号に書いた文章の転載です(許可済)。

 PDF版はこちら

 

一、アフター・コロナ時代の大学教育へ

 新型コロナウイルスの世界的パンデミックは、人々の生活を大きく変えた。本稿執筆時点(2020年4月)でも感染終息の目処は立っていないが、今後、ワクチンの普及によりこの騒ぎが収まったとしても、私たちはそれ以前と同じ生活を取り戻すことはないだろう。「アフター・コロナ」の世界は、この延長に考えられなければならない。

 私は大学の法律学担当教員だが、本稿では、大学教育を中心に、新しい生活様式の可能性をできるだけ積極的に考えてみたいと思う。なお、本稿の一部は既発表の論考「「現在」の大学に触れよう」(『下野新聞』2020年11月8日朝刊)を利用している。 

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世界の女性映画DVDセレクション @TSUTAYA 宇都宮駅東口店

うさぎやTSUTAYA宇都宮駅東口店 にて、2021年5~6月にレンタルDVDセレクションコーナーを作っていただきました。世界の女性映画監督特集!ということで10本選んでいます。できればみなさん、現地でご覧になってレンタルしていただければと思いますが、紹介文をこちらにも載せておきます。

  ※ レンタルDVD在庫ありのものからの一般向けセレクトです。

 

 

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家族から社会を構想する

 下野新聞「日曜論壇」に書いた小文です(転載許諾済)。

 夫婦別姓や同性パートナーシップ制の動きに触れつつ、家族法のあり方について考えました。選択的「なのに」反発されるのはおかしい、ではなく、選択的「だから」反発されるという面を踏まえないと話は進まないのではないか、と思います。

 画像の下にテキストと補足もあります

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下野新聞2020年12月13日朝刊・日曜論壇「家族から社会を構想する」
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「現在」の大学に触れよう

 下野新聞「日曜論壇」に書いた小文です(転載許諾済)。

 オンライン化で大学の知は世界に開かれるという理念的な話と、それを機に社会の潜在的ニーズを探ってリカレント教育を進めていこうという実践的な話です。

  なお、画像の下にテキストと補足もあります

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下野新聞2020年11月8日・日曜論壇「「現在」の大学に触れよう」
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