tkira26's diary

吉良貴之@法哲学のブログ。

木庭顕「日本国憲法9条の知的基礎」(『法学セミナー』2019年8月号)メモ

 今回の9条論は『憲法9条へのカタバシス』(みすず書房、2018年)の9条関係の部分をもとにした講演録ですが、石川健治「民主主義・立憲主義・平和主義:憲法自衛隊を明記するとはどういうことか」(『法律時報』91巻2号、2019年)など最新文献への参照が加えられています。

 相変わらず難解な部分も多いのですが、9条を直接に「占有」原理に基づかせている点が最大の特徴です。「占有という原理は、凡そ理由を切り、どんな理由であろうと現に占有している分に対して実力を行使することは認めません」(58頁)。これがそのまま9条1項の内容であるという。

  むろん、9条1項は1929年の不戦条約を踏襲するものであり、不戦条約の戦争禁止原則は自衛権留保を伴っているというのが通説ですが、ここに「占有原則の微妙な線引き」、つまり占有に含まれる線を広げて「利益線」を設定し、報復や先制攻撃を許容しようとする思考の付け入る隙がある。そうした利益線思考を断ち切るものとして9条2項があり、そこで「利益線設定禁止ではなく、内部軍事化禁止」という「天才的な短絡」が起こったという。それに比べれば、公的な軍事力の発動までの間、各国に「個別的又は集団的自衛の固有の権利」を留保している国連憲章は思想的後退であり、9条2項はむしろそれを批判しながら反軍事的な国際的制度構築の起点たりうる条文であると。

 これに続いて国際法思想史の伝統が確認される。グロティウスの無差別戦争観(=正戦論の否定)は占有原理に基づくものであるものの、報復や反撃を認めた点で不徹底であった。それに対し、ホッブズは「個々人の自由をアプリオリの優先事項と考える」(ギリシャ・ローマ以来の)知的伝統のもと、国際社会にもそれを規律する moral な法則があるとする。そして各国家が9条2項のような体制を持つことが国際平和を実現すると考え、それがカントの啓蒙主義に発展していったということです。

 9条がそれだけの分厚い知的伝統の延長にあることはなるほどそうかとも思うのですが、一方で、では現実に存在する軍事的脅威にどう対応するかという問題はどうか。これについては、さして論拠のない日常的感覚に過ぎないか、経済的行き詰まりに付け込もうとする「徒党の利益」によるものであると切って捨てられています。むしろ個人の自由を守るための「リアル・イッシュー」は「経済社会の透明性」であると。ここで急に出てくる楽観主義には少し戸惑うところでもあります。しかしおそらくそこは本質的でなく、現実には2015年以前の政府解釈のラインから、理念たる9条2項の実現に向け、たとえば石川健治がいうところの自衛隊の ① 正統性剥奪と ② 財政的資源剥奪を通じ、漸進的な努力を重ねていくべきということだろうと思います。

 

 さて、以上は私の理解した限りでの要約で、猛烈に学圧の高い文章にたじろいでしまうーーこの議論の出発点に立てないようでは「犬畜生にも劣る」といった激越な表現が頻出するのはさすがに辟易するーーのですが、問題は、平和への異なる理念のうち我々がどれを選ぶかということになりそうです。不戦条約 ‐ 国連憲章という自衛権留保、つまり複数の安全保障体制の併存による(過渡的)均衡もまた一応の説得的な理念として存する以上、占有原理に基づく個々人の自由保障のための軍事化禁止体制構築という理念はどこまで優位を主張できるのか。また、現に世界各地で起こっている武力紛争の「リアル・イッシュー」は経済的問題であるという見立てはどこまで有効なものなのか。

 ーーむろん、ここに conceptions の対立の線を引くこと自体が井上達夫の9条削除論の強い影響下にあることもまた確かで、だとすると井上の逞しきリベラリズムと木庭の共和主義との間にいかなる対立軸がありうるのか、という話にもなり、リバタリアニズムを奉じる私としては両者とも拒絶したい。そしてその成否は軍事に関わる木庭の経済的楽観主義に依存しそうなところもあって話がややこしくなります。終わり。

 

 【追記】ここで使っている「楽観主義」は、軍事問題のように見えることの「リアル・イッシュー」は経済問題であるといった種類の切り詰め方を指しており、単に (methodological) optimism の訳語です。「見込みが甘い」みたいな日常用語的な意味での評価は入っていません。

法学セミナー 2019年 08 月号 [雑誌]

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憲法9条へのカタバシス

憲法9条へのカタバシス