tkira26's diary

吉良貴之@法哲学のブログ。

独学の限界について

 来年度、青山学院大学キリスト教法思想史(科目名は「キリスト教と法思想」前期・金曜4限)を担当する予定なのですが(なんていうと無謀に思われるかもしれませんが、基本的には普通の法思想史で、随所でキリスト教との関係を学生と一緒に考えていく、という感じになります)、それにはキリスト者であることが必要とのこと。で、その証拠に受洗時の心境を書いたもの(「救いの証」)を提出したのですが、せっかくなのでここにも置いときます(吉良貴之「独学の限界について」、日本基督教団・池袋西教会『復活の朝』、2015年2月号)。

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 私は大学で「法哲学」という科目を教えています。日本の法律は欧米のものを受け継いでいることもあり、根本を理解するには欧米の哲学が必要です。なので、研究者を志したころから聖書を読み、力強い言葉の数々に感銘を受けてきました。しかし、教会に通い始めて痛感したのは、まず何よりも「独学の限界」でした。

 私は国際基督教大学ほか、いくつかの宗教系大学で教えていますが、学生たちはみんなまじめです。同僚の先生方の熱意と優しさにも日々、心を打たれています。その理由を考えてみると、確かな信仰心が中心にあることに気付きました。そして、自分もそれに近付きたく思い、教会に通い始めました。池袋西教会の松本隆寛神学生・有希子夫人は年齢が近いこともあり、またご夫妻のオープンな性格からすぐにうちとけ、一緒に聖書を勉強する会を開いてもらいました。そこで「独学の限界」に気付いたのです。これまで自分なりに聖書を読んできましたが、それはとても断片的で、全体を理解するものではまったくなかった。神の御言葉は、どんなに細かいところでもすべてつながっている。私はその大きな世界のなかでなんと小さな存在であることか。礼拝や聖書勉強会を通じてその思いを深めるにつれ、「限界」の自覚から生じる謙虚さこそ、熱意や優しさにつながっていると感じました。そして自分もまた教育者としてそうありたいと心から願い、信仰の道に入ることを決意した次第です。

 せっかくですから、私が専門とする法哲学の話もしましょう。私が研究しているアメリカの法哲学者にドゥルシラ・コーネルという方がいます。彼女はキリスト教思想を前面に押し出してはいないのですが、その中心にある「限界の哲学」は私の体験と重なるものです。彼女は映画評論を通じて自身の哲学を展開するというユニークな試みを行っているので(吉良貴之ほか訳『イーストウッドの男たち』御茶の水書房、二〇一一年)、そこから例を紹介します。

 クリント・イーストウッドは現代アメリカを代表する映画監督で、『パーフェクト・ワールド』という作品があります。ケビン・コスナー演じるブッチという強盗が少年を誘拐するのですが、二人は親の愛を十分に受けられなかった「似たもの同士」であり、次第にうちとけていきます。ここでブッチは少年の「父」になろうと奮闘します。「パパは何でも知っている」とばかりに優しく、そして厳しく少年に接していく、その姿は涙を誘うものがあります。しかしそれはかつて自分が親から見放されたトラウマのせいで、過剰に追い求められた「パーフェクトな」父親像であり、一人で背負いきれるものではなかったのです。やがてそこからひずみが生じ、ちょっとしたことで暴力的になってしまったブッチはその愛する「子」から銃で撃たれる悲劇に見舞われます。しかしそれは単なる暴力ではなく、「パーフェクトな」父親像を無理に演じる必要はない、むしろそんな傲慢こそが本当の愛を妨げているのだと気付かせる一撃だったのですね。生身の人間が現実に生きられるのは「父」としてのごく一部で、それでよかったのです。ブッチは命を落としますが、少年との劇的な和解を果たし、肩の荷を下ろしたその死に顔はとても安らかです。

 このドラマからコーネルは、そうした「限界」の自覚があってこそ自由で豊かな関係が開かれることを読み解いていきます。それは信仰と言い換えてもよいものでしょう。私の体験はここまでドラマチックなものではありませんが、特に意識していなかった自身の研究との意外な重なりに気付き、そこにすべてをつなげる大いなる優しさを感じたのでした。

 

イーストウッドの男たち―マスキュリニティの表象分析

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印刷が潰れて人相が悪くなっていますが、サングラスかけているわけではありません。