tkira26's diary

吉良貴之@法哲学のブログ。

綾部六郎・池田弘乃 編『クィアと法』(日本評論社、2019年6月)

 先日の日本女性学会で刊行前合評会(?)を行った、綾部六郎・池田弘乃 編『クィアと法』(日本評論社、2019年6月)が刊行された。私はそこでコメンテーターとして若干の問題提起を行ったが、以下ではそれをもとに、本書全体の意義について述べてみたいと思う。写真はそのWSの様子(左から執筆者の綾部、志田、池田、コメンテーターの松田さおりの各氏、そして私)。

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日本女性学会WS「「クィアと法」の可能性を考える」(2019.6.16、一橋大学

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ライプニッツ『モナドロジー』90節・試訳

岩波文庫の新訳『モナドジー』の最終節、どうもしっくりこないので訳し直してみた。意志と因果と倫理、三位一体の予定調和を賛美せよ。

 

90. ついにこの完全な統治のもと、よい行いは必ず報われ、悪い行いは必ず罰せられる。すべてはよい人々のよい生へと落ち着く。よい人々は、この偉大な国にあって不満をもつこともなく、自分の義務を果たしたうえで神の摂理を信じ、万物の創造者たる神をしかるべく愛し、模倣する。愛すべき人々の幸福のうちによろこびを見出すような、真正で純粋なる愛の本性によって神の完全性に思いをはせ、称賛する。だから賢明で有徳な人々は、予定されている、つまり先立つ神の意志にかなうように思われるすべてのことに力を尽くすのだ。しかしまた、神の秘められた、それ自体が結果であって決定的であるような意志によって現実にもたらされることにも満足する。というのも、もし我々が世界の秩序を十分に理解したならば、その秩序は我々のうち最も賢い者のいかなる望みさえも凌駕しており、これ以上によく作り変えることなど不可能であると思い知るからである。これは全体について一般に不可能というだけでなく、万物の創造者との正しい関係を有する限り、個体としての我々各自もそうである。正しい関係とは、創造者を単に人間存在の製作者かつ動力因とみなすのではなく、我々の支配者かつ目的因とみなすものである。創造者は我々の意志にとって完全な目的であるべき存在、そして我々を幸福にしうる唯一の存在なのである。

映画「ビリーブ 未来への大逆転(On the Basis of Sex)」

映画「ビリーブ 未来への大逆転」(2018年、アメリカ)を観てきました。脚本がネットで公開されているので(こちら:PDF)、観客はそれを7回読んでいることが当然の前提とされています。したがってネタバレには配慮しないので、そういうことを気にする方は以下読まないでください。

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映画「ビリーブ 未来への大逆転」
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「法と法学の発展」『法学入門』(北樹出版、2019年4月)参考文献 (4完)

3の続きです。

5. 「法典論争」と19世紀ドイツの法学

「法」が紙に書かれたものとして存在することは、現代日本の私たちにとっては当然のことのように思われますが、歴史的には必ずしもそうではありません。個別具体的な判断の積み重ねとしての法原理が法律家共同体になんとなく共有されているとか、各地でまったく異なった慣習法が使われているとか、そういった状況で、国全体で統一した法典を作るには多くの苦労がありました。 

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「法と法学の発展」『法学入門』(北樹出版、2019年4月)参考文献 (3)

2の続きです

4. 「近代法」のめばえ

さて、教科書の都合により、時代が1500年ぐらいすっ飛んで「近代」が始まります。そこはそういうものなのでご理解ください。すみません。

もちろん、ヨーロッパ中世の法思想にもいろいろ面白いものがあるので、いやそんなに飛ばされては困る、という方は自習してください。1つ選ぶとしたら、トマス・アクィナス神学大全』(翻訳で全45巻)かな(詳細はこちら)。

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「法と法学の発展」『法学入門』(北樹出版、2019年4月)参考文献 (2)

1の続きです。

 3. 古代ギリシャ・ローマの法思想

西洋思想の基本的なことはほとんど古代ギリシャ・ローマの時代に、萌芽的な形であれ現れているといえます。なので当時の思想から学ぶのが西洋法思想史の始まりとなりますが、なんといっても2000年以上前のことです。

2000年以上前の人々に「おまえ間違ってるぞ!」と言えてしまうのが(そしてそれが最先端の研究になってしまうのが)面白いところです。しかし、現代の価値観で過去について議論することには慎重でなければなりません。

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「法と法学の発展」『法学入門』(北樹出版、2019年4月)参考文献 (1)

稲正樹・寺田麻佑ほか『法学入門』(北樹出版、2019年4月)に、「法と法学の発展」という章を執筆しました。内容的には西洋法思想史のおおざっぱな流れですが、歴史を学ぶことの意義とか、法学において学説を学ぶことがなぜ重要かとか、そういったことにも多少触れています。また、思想史を踏まえて取り組むべき、古くて新しい問題への橋渡しといったことも意識したつもりです。

法学入門

法学入門

 

本章で触れた、法思想史に関わる参考文献を以下でいくつか紹介します。入門ということを考慮し、基本的には新書や文庫など、安価で手に入りやすいものを中心にしています。

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吉良貴之・蝶名林亮 編『世代間不均衡下の都市倫理』(第一生命財団研究助成報告書)

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吉良貴之・蝶名林亮[編]『世代間不均衡下の都市倫理』(第一生命財団研究助成報告書)ができあがりました。研究プロジェクトのページはこちらです。報告書では蝶名林さんと私の論文のほか、何名かの若い方に学術的コラムを書いてもらい、面白い仕上がりになったと思います。非売品ですが、読んでくださる方には差し上げます。

[研究メンバー](所属は執筆時)
代表:吉良 貴之(宇都宮共和大学法哲学
分担:蝶名林 亮(創価大学倫理学
協力:高木 智史(一橋大学大学院、法哲学
協力:酒井 光一(オックスフォード大学大学院、考古学)
協力:真殿 琴子(京都大学大学院、イスラーム思想研究)
協力:南部 健人(北京大学大学院、近代中国文学)
協力:高橋 慧 (ミネソタ大学博士研究員、物理学)

[目次]

 1.(報告)吉良貴之「概要と実施状況」
 2.(論文)吉良貴之「世代間不均衡下の都市倫理」
 3.(論文)蝶名林亮「都市保存についての倫理的諸問題:都市環境倫理学的な探求の一事例として」
 4.(コラム)酒井光一「都市と景観:オックスフォードの歴史の中に暮らして」
 5.(コラム)真殿琴子「アンカラという都市:諸文明の遺産と近代化政策の邂逅のなかで」
 6.(コラム)南部健人「ふたりの作家の見つめた北京:老舎とイーユン・リー」
 7.(コラム)高橋慧「科学都市の危険性?」

卒業生向けカント読書会

 最近は月に1回ぐらいで、卒業生向けの読書会をやっています。

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 読んでいるのはカントの『判断力批判』で、基本的には岩波文庫を使っていますが、必要に応じてドイツ語や英語も確認しています。1回が約70ページずつ、1年ぐらいかけて終わればいいかな、という感じのゆったりしたペースです。

 就職して数年がたっていろいろ慣れてきたところで、また知的刺激を受けたい、という思いに応えられるのは教員冥利につきることです。最近はいわゆる「リカレント教育」というのも重視されていて、18歳人口が減少するなか、大学教育のあり方も見直していかなければなりません。……というと大きな話になりますが、それはさておき、私の勉強にもなるし、同窓会的な感じで楽しいし、というところで、できる範囲で続けていければいいかなと思っています。

 これまでの配布資料はこちらに置いてあります。

『理想』700号(2018年3月)「特集 ドイツ近世哲学――私たちにとってのドイツ観念論」

  • 全論文のランニング・コメンタリーです。 

  •  バックナンバー一覧を見た感じ、分析哲学は憎むべきブルジョワ反動哲学みたいに思われてる感があってよい。
  • 60年代ぐらいの雑誌だと「分析哲学をいかに批判するか」みたいな特集が組まれてたりするんだよね。

高山守「シェリングヘーゲルの善悪論:善と悪の無差別」

  • 「[シェリングは]私たち人間の振る舞いは、その都度、何ものにも依存しない、私たち自身の自己創造なのであり、その限りにおいて、神の創造そのものと合一するのだ、という。そうであることにおいて、私たちは、神と並びうる完璧に自由な存在なのである」4
  • 「この場合、自由は人間の属性と見なされるのではない。そうではなくて、その逆すなわち、極限すれば、人間が自由の属性と見なされるのである」(ハイデガーシェリング講義』)4
  • 横から出てきて強引にまとめるハイデガーおじさん。
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てつがくカフェ@八王子「ファッションから考えるグローバルな正義」

 2017年9月2日(土)に八王子生涯学習センターで、こんなイベントを行いました。開催趣旨の詳しいことは ↓ をご覧ください。

 「服」は私たちにとって文字通り最も身近なものですが、それがどんなふうに作られているかについては案外、知らないものです。いわゆる「ファストファッション」と呼ばれるものの多くは、発展途上国に工場を作っていますが、そこでの劣悪な労働状況が問題になっています。もちろん、そういった状況で利益を得ている企業(や国家)に責任があることは確かですが、消費者としての私たちも何か考えるべきことがあるのではないか、ということで、いろんな方向から意見交換してみよう、ということで開催してみました。

 参加者は15名ほどで、学生さんが中心でしたが、それ以外にも幅広い年代の一般市民の方が集まってくださいました。進行としてはまず、問題提起として、学生サークル「ファッションレボリューション」のみなさんにお話をいただきました。

 

  f:id:tkira26:20170917114303j:plain(写真はぼかしています)

 

 「ファッションレボリューション(FR)」は、衣服に関わる労働問題を考えていく運動で、世界的な広がりを見せているものです。FR のみなさんのお話では、何はともあれ「まず知る」ことが大切であることが強調されました。そこで「トゥルー・コスト」という映画にもなった、バングラデシュでの工場倒壊事故などが紹介されました。

 

 とはいっても、私たち消費者は具体的に何をすればよいのか。ファストファッションをまったく買わないで生活をすることは現実的に難しいと思います。でも、こういった問題があるということをとにかく知れば、少しずつ行動を変えていけるかもしれません。今回のカフェでは、いま自分が着ている服の裏をちょっと見てみて、それがどこで作られているものなのか、どういった素材でできているものなのか、といったことを考えることから始めました。タグに書かれている情報は少ないですが、そこからもっと調べてみよう、という意識が出てくればよいのだと思います。

 次に、この問題を「グローバルな正義」として議論するために、蝶名林亮さん(倫理学)と吉良貴之法哲学)による問題の整理がなされました。蝶名林さんはこの問題を考えるうえで誰が「主体」であると考えるべきか、それは企業なのか、それとも私たち消費者一人一人なのかといったことを考える必要があるといったことを提起されました。私はそれを補足する形で、では企業や個々人の責任を考えていくうえで、それを実現するための(グローバルな/国家単位の)法制度の仕組みを具体的に考えていく必要がある、といったことを述べました。ついでに、昔の「24時間テレビ」では発展途上国の貧困問題も多く扱われていたものだが、最近は国内の問題がもっぱら扱われている。それがどこまで象徴的なのかはともかく、現在の日本(の若い人?)のあいだでグローバルな貧困問題などへの関心が薄れているのではないか、それを喚起するためにはどうすればよいだろうか、といったこともお話しました。

 その後、参加者全員で自由なディスカッションがなされました。たとえば、「食べ物」の問題は日本でもよく議論されますが(食品偽装の問題などを思い出してください)、そこでの「フェアトレード」のあり方などを参考に、服についても同様の取り組みを盛り上げていけないだろうかといったことが議論されました。実際、いくつかの企業などではその取り組みがなされており、その具体例を紹介してくださる方もいて、たいへん有益な情報交換がなされました。

 そうやって意識変革を促していく一方で、経済のあり方、政治のあり方にも目を向けていくべきだといった意見も出され、問題が多角的・立体的に捉えられたように思います。そうこうするなかで時間があっという間に過ぎ、みなさんそれぞれ、じっくり考えるよい機会になったと感じていただけたようです。「ファッションレボリューション」の活動はこれからも続けられる予定ということなので、今後も第2弾、第3弾の企画を考えていきたいものです。

亀本洋「世代間の衡平」(論ジュリ22号、2017年)について

 標記の論考にて*1、亀本洋は「世代間衡平を損得問題として考えるかぎり、道徳問題は生じない。したがって、正義の問題も生じない」(70頁)と述べている。年金問題などにおける世代間の不公平は「正義の問題ではなく、正義と直接関係しない単なる政策問題である」(70頁)ということである。政策問題だからといって解決が容易というわけでもないだろうが、少なくともそれは法哲学的に重要な問題ではないと考えられているようだ。私の論文「年金は世代間の助け合いであるべきか?」(吉良 2016)に言及されたうえで(69頁・注18)そう述べられており、私の世代間正義論が正義論でないとすると困るので、応答しておきたいと思う。ただ、応答といっても残念ながら〈特に根拠もなく断じられているので、なぜそう言えるのかわからない〉というだけになる。

1. ロールズの貯蓄原理について

 亀本論文は全5節によって構成されている。そのうちⅠ~Ⅲ節はロールズ『正義論』における貯蓄原理(saving principle)の批判的検討である。この箇所については、亀本が従来から取り組んでいる格差原理との関係から精緻な議論がなされており、私も興味深く読んだ。亀本としてはロールズの貯蓄原理は根拠薄弱であるし、具体的な貯蓄率も指定できない以上、これといって使いようもないものとして消極的に評価されているようである(Ⅲ-3)。私もロールズの貯蓄原理については、1)原初状態における利己的な契約主体という前提が恣意的に修正されてしまう、2)当該政治共同体の存続可能性のみが念頭に置かれているため、グローバルな規模で考えるべき世代間正義の問題には無力である、などの消極的な評価を行った(吉良 2006: 397-8)

 亀本も1の点については同様に述べている(67頁)。私としてはこの評価について『正義論』第3部の正義感覚論を踏まえた修正が必要であると考えているが、ロールズ解釈の問題が残ることを認めたうえでなお、貯蓄原理が世代間正義論にとって見込みのあるものとは思えないので、ここでの議論でロールズに深入りする必要はないと思う。亀本も結局そう考えているのだろうから、このテーマでなぜこれだけの紙幅を使ってロールズ貯蓄原理について論じているのかはわからない。ロールズ貯蓄原理を世代間正義論にとって重要なものとして位置付ける有力な議論があればそれを退ける意味があろうが、管見の限りそういうものは多くないし、亀本も文献をあげていない(世代間正義論に関わる文献は、ロールズ以外には注18-19に若干の邦語文献があげられているだけであり、近年の議論は無視されているようだ)。

2. 世代間正義論は正義論か?

 Ⅳ節は「正義」「衡平」をめぐる概念的整理であり、実質的な論点は特になさそうである。経済学でどのような言葉が好んで使われるかといった事情は、法哲学の議論に影響を与えない。「世代間の衡平」について最も具体的かつ破壊的な主張がなされているのは最終のⅤ節なので、以下、そこでの議論を見ていく。

 Ⅴ節では特に根拠があげられないままに多くの強い断定がなされているため、なぜそのようなことが言えるのか理解できないところがほとんどである。たとえば「[公的年金の受給額の不公平よりも、]公的年金制度によってエッセンシャル・ミニマムまたは格差原理ミニマムの水準がどうなるかという問題のほうが社会的正義論にとってはるかに重要である」([]内補足と強調は吉良)ということだが、その根拠は明らかでない。確かに公的年金自体は偶然的に存在する制度に過ぎず(他のあり方も当然にある)、そうした社会保障制度によって実現される福利水準のあり方のほうがより根源的な問題であるということかもしれない。しかし、(日本の)公的年金制度が現に相応の歴史をもって存在し、そして現在、利益対立が深刻になっている状況をみれば、それ自体としてその問題を考察することも重要ではないだろうか。

 亀本は、「エッセンシャル・ミニマムまたは格差原理ミニマム」の同定は分配的正義論の本質的な問題であるが、公的年金制度をどうするかといったことは、その原理的な議論の後に、実現方法を具体的に・政策的に考えればよいと位置付けているのかもしれない。だとすれば二次的問題として後景に退くのも理解できなくはない。しかし、そのような位置付けは不当である。公的年金をめぐる議論にしたところで、これまで支払ってきた額との均衡をどのように評価するかとか、賦課方式が前提とする世代間協働のあり方だとか、法哲学的に原理的で、また別の豊かな問題群に開かれている。だから「社会的正義論にとって」どちらが重要であるかというのは自明でない。

 再び引用すると「公的年金問題は正義の問題ではなく、正義と直接関係しない単なる政策問題である」(70頁)ということだが、どの世代に生まれたかという、自身に責任のない要因によって公的年金の受給額に格差が生じる状況があり、それを何らかの形で是正しなければならないとすれば、そのあり方(何を指標とするかなど)や根拠が当然に問われなければならないはずである。それは正しく分配的正義の問題であると私は考える。亀本が注18で触れている私の論文[吉良 2016]でもさまざまな論点をあげたのだが、どれも論じるに値しないということだろうか。いずれにせよ、たとえ「政策問題」だとしても、どのような政策を取るべきかは何か中立的な計算によって決まるものでなく、一定の道徳的考慮が避けられないと思うのだが。

 また続けて亀本は、経済成長率が十分に高ければ「世代間不公平がことさらに問題になることもなかったであろう。このことからも、公的年金問題が正義の問題ではなく、状況に依存する単なる政策問題であることがわかる」(70頁)とも述べるのだが、これもわからない(「エッセンシャル・ミニマムまたは格差原理ミニマム」はそうでなく、何か客観的な水準があるのだろうか?)。

 社会的分配への要請が具体的場面においては切迫したものだったり、そうでもなかったりすることは事実としてある。しかし、それは分配的正義論という原理的な問題にとって無関係である。たとえば、ある格差社会において誰もがそれに満足しているからといって、それを是正すべきだとする平等主義的正義論が正義論でなくなるわけではまったくない。亀本の主張はどうも、ステレオタイプなマルクス主義の正義不要論を繰り返しているように見える。いくら現実の経済成長率が高かろうとそれ自体は原理的問題に影響を与えないし、現実にも、パイが大きくなる社会において分配をめぐる人々の争いがなくなるわけではない――むしろ豊かになったがゆえに争いが苛烈になった例さえいくらでも指摘できるだろう。この点は最後の「世代間衡平を損得問題として考えるかぎり、道徳問題は生じない。したがって、正義の問題も生じない」(70頁、強調は吉良)という記述にも表れている。「損得問題として考えるかぎり」と留保しているのだから別の問題としては道徳問題となりうる余地を認めているようにも思えるが、以上に述べた通り、損得問題として考えてもなお道徳問題となるのである。

 ほか、環境問題と世代間正義について最後(Ⅴ-2節)に述べられており、「まだ存在しない人々の現実の選好や意見を現時点で認識できないことは明らか」ということである。これは将来(に対して現在世代の行為が与える影響)の不確実性を強調することによって世代間正義の可能性に疑問符をつける種類の主張であろう。しかし、それによって「将来世代の選好とか権利とかいう概念を導入すること自体がミスリーディング」(70頁)とまでいえるかどうかは、微妙な検討が必要である。

 亀本は明示していないが、ここで念頭に置かれていると思われるパーフィットの非同一性問題を真剣に受け止めるならば*2、現在世代の行為が将来世代の遺伝的組成をいくらかなりとも変化させ、その同一性を失わせる以上、将来世代を主体とした権利論は成り立たなくなる。そのような意味であれば私も将来世代の権利論に消極的な議論を行ってきたし(吉良 2006; 吉良 2010)、現在世代の「みずからの道徳的義務――これは受益者の権利を含意しない――の問題としてそれ[世代間衡平をめぐる道徳問題]を考えるほかない」(70頁、[]補足は吉良)という亀本の主張にも賛同できるのだが、単に将来世代の選好や因果的経路の不確実性や不可知性のみによってそれを主張するのは困難ではないか。

 「現実に」まだ存在しない人々の「現実の」選好や意見を現時点で認識できないのは確かに明らかだが、何も言ったことにならない。おそらく、現時点の我々はそれを想像的に構築することさえも許されないということなのだろう。しかし、将来世代の選好や意見はそれほどまでに不確実なものだろうか。将来世代といってどれだけ遠くまでを考えるかにもよるが、せいぜい数十年の先であれば我々とさほど変わらない人々が存在する――おそらく我々のかなりの部分はまだ生きている――であろうと考えることにそれほどの不自然さはないだろう。

 そうすると結局のところ、どれだけの範囲の将来世代をどのような主体として立ち上げるかは、現在世代が不確実性を不可避的に抱え込みつつ、決めることになる。そこで登場するのはあくまで我々現在世代のみであり、将来世代(や過去世代)との関係は、現在世代がそれをどのように想像的に構築して規範的な関係を取り結ぶかという、徹底して現在の問題に還元されることになる。それは現在世代内の問題である。だとすると、それは世代「間」正義(justice between generations)ではないし、私がこれまで論じてきたものも、少なくとも将来世代(や過去世代)との関係における世代「間」正義論ではない。しかし、さして致命的な批判ではない。それは現在世代内の分配的正義論として再構成されるのであり、正義論であり続ける。亀本がいくら将来の不確実性を強調したところで、いや強調すればするほど、そこでの集合的決定の道徳的根拠が厳しく問われる。

[文献]

亀本洋(2017)「世代間の衡平」論ジュリ22号

吉良貴之(2006)「世代間正義論」国家学会雑誌119巻5-6号

吉良貴之(2010)「世代間正義と将来世代の権利論」(愛敬浩二編『人権の主体』法律文化社

吉良貴之(2016)「年金は世代間の助け合いであるべきか?」(瀧川裕英編『問いかける法哲学法律文化社

*1:以下、単にページ数だけを示した引用は、亀本(2017)のもの。

*2:真剣に受け止めない方法もいろいろある。

「シルバー民主主義時代のポスト福祉国家」読書会

 2017年9月10日(日)に、大阪の福島区民センターで標記のような読書会を開催しました。研究合宿で関西出張だったので、どうせなら関西の方々と交流できたらと思いまして。ツイッターで協力を募ったところ、りべらびさんが手をあげてくださって、いろいろと準備をしてくださいました。心よりの感謝を申し上げます。会場の福島区民センターも、リーズナブルな価格でとても使い勝手のよい施設でした。

 内容は ↑ の案内文に書いたようなことですが、5月に話題になった経産省次官・若手ペーパー「不安な個人、立ちすくむ国家」(PDF) を課題文献にしました。少子高齢化が急速に進み、世代間の不均衡がひどい状況になっているなかで、今後の福祉国家のあり方は?といったことです。このペーパーが打ち出している、徹底的に「個人化」された福祉国家ヴィジョンや、その背景にある「シルバー民主主義」あるいは世代間の対立状況といった現状認識について意見交換がなされました。

 参加者は10名ほどで、年齢も20代から50代まで、バックグラウンドも多様な方々が集まり、いろいろな角度からの話ができ、とても有益な時間だったと感じています。こういった問題を「世代間」の枠組みで考えていくことが果たして妥当か、仮にそうだとしても具体的にどういった制度構想が可能か、といったことが多く議論されました。↓ のホワイトボードからも、当日の雰囲気を感じ取っていただけるのではないかと思います。

 12頭目のラクダはどこにいる? 

 京都アカデメイアの大窪善人さんが、ニクラス・ルーマンが用いた寓話「12頭目のラクダ」をご紹介くださりました(大窪さんのブログは ↓ です)。世代間の利益対立(のように見える)状況を緩和する「また別の価値観(=12頭目のラクダ?)」を見つけることは可能でしょうか。非常に興味深い考え方だと思いました。

 もちろん、そこには(細野氏の提案に見られるように)一定の危うさがないわけでもありません。おそらく、選択肢は多様にありうるでしょう。民主的連帯の基礎(としての平等)を維持するため、福祉国家的再分配をしっかり行ったり、若年世代の声を代表できるような形の議会改革を行ったりしていくべきかもしれません。

 私自身はリバタリアンとして経産省ペーパーのヴィジョンにおおむね賛成ですし、人と資本と情報のグローバリゼーションによって達成される均衡が最も公正なものだろうと考えています。とはいってももちろん、それぞれは必ずしも排他的なものではありませんし、少なくとも過渡的には、各種政策のほどよいバランスが必要になるでしょう。それを考えていくために、こういった会で多様な視点を出していくことの大切さを改めて感じた次第です。

当日配布メモ(手書きの味)

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ちゃんと読んでくださる方は ↓ のPDFでどうぞ。

http://jj57010.web.fc2.com/writings/20170910_silverdemocracy.pdf

関連スライド

参考文献:

憲法のこれから 新・総合特集シリーズ (別冊法学セミナー)

憲法のこれから 新・総合特集シリーズ (別冊法学セミナー)

 
問いかける法哲学

問いかける法哲学

 

 

カスタマイズできる世界とオプションとしての世界

 わたしはインターネットに詳しい。

 などというとさっそく、なんだか困った人になるのだが、私個人はともかく、世代的にはそう間違いではない。今回の「とちぎ消費者カレッジ*1」にお招きした先生方と私はおおむね同世代の「アラサー」だが*2、インターネットを日常的に使うようになった、かなり最初期の人々になるだろう。

*1:2013年7月に宇都宮市内で開催した、学生向け消費者啓発イベント。横田明美(千葉大学行政法)、松尾剛行(弁護士)、梅山哲也(弁護士)の各先生にお話をいただいた。

*2:私はもう厳しくなった。

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永田カビ『さびしすぎてレズ風俗に行きましたレポ』

永田カビ『さびしすぎてレズ風俗に行きましたレポ』(イースト・プレス、2016年6月)、話題になっていたので読んでみた。以下、いくつかのメモ。

  • 作品としては全体的にちょっときれいに描きすぎている感じもあるので(まあそこがいいのだろうが)、続編を読みたいところ。もうあるのかな。
  • レズビアン風俗のおねえさんがずいぶんとやさしすぎるのが気になるところで、娼婦=聖母みたいなステレオタイプとのあやういところにある。
  • でも母親との身体接触願望は印象的に描かれる一方で、風俗のおねえさんの身体に触れることに強いためらいがあるあたり、このステレオタイプをちょっとずらすものがあるといえるかどうか。
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