tkira26's diary

吉良貴之@法哲学です。自己紹介はこちらから: http://jj57010.web.fc2.com

イドリース「肉の家」

 中東政治研究の池内恵先生がツイッターで、ユースフ・イドリース「肉の家」という小説を紹介されていた(Yusuf Idris, Bait min Lahm, 1971。イドリースは現代エジプトを代表する作家である。翻訳が入っているのはこちらの『集英社ギャラリー 世界の文学 (20) 中国・アジア・アフリカ』(集英社、1991年)ぐらいのようなので、とりあえず購入してみた。魯迅クッツェーのような有名な作家の代表作から、現代朝鮮の多様な作家のものまで、いろいろ収録されていてお得である(「中国・アジア・アフリカ」なんて詰め込めすぎだが、それはそれとして)。

 それで「肉の家」を読んでみたのだが、わりあい面白かったので以下に感想を書いてみる。なお、池内先生が紹介されていた文脈とはズレがあるように思ったし、他の方への批判的内容も含まれているのでツイートへのリンクは貼らない。

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集英社ギャラリー 世界の文学 (20) 中国・アジア・アフリカ 明文・ほか/狂人日記、阿Q正伝・ほか/憩園/寒い夜/子夜/夷狄を待ちながら/マルグディに来た虎/黒い警官・ほか/花婿・ほか

集英社ギャラリー 世界の文学 (20) 中国・アジア・アフリカ 明文・ほか/狂人日記、阿Q正伝・ほか/憩園/寒い夜/子夜/夷狄を待ちながら/マルグディに来た虎/黒い警官・ほか/花婿・ほか

 

 「肉の家」は数ページ程度の掌篇だが、静謐な印象のすぐれた作品である。奴田原睦明氏による翻訳も読みやすい。

 この小説は、ある村の母娘四人が住む家が舞台である。夫はすでに亡くなっており、母娘だけで生活している。唯一、そこに出入りする男性は、この家族のためにときどきクルアーンを読みに来てくれる若い盲人だけである。 文章そのものは三人称で客観的に書かれているものの、その静謐な筆致はこの盲人による語りであるかのようにも思えてくる。世界は沈黙に包まれており、視覚的に特徴となるような描写もほとんどない。たまに聞こえてくる衣擦れのようなミニマルな文章だけで物語は進んでいく。

 母娘四人は、新しい夫=父を迎えたいと思うようになる。そうでないと、この閉鎖的な共同体で家族として認められないのだろう。そこでこの盲人男性が選ばれたのだが、それは男性との接点が彼女たちにとって彼しかいなかったという消極的な事情にすぎない。いずれにせよ、彼は立派な、どこに出しても恥ずかしくない主人としてこの家に迎え入れられた。

 夫となった若き盲人男性は、新しい妻と関係を持つようになる。これ自体は特になんということもないが、やがて三人の娘たちの心に小さなざわめきが起き始める。母が再婚したとはいえ、いまだこの家にとって男性的なものとの接点はこの若き盲人男性だけなのである。娘たちもいつまでも「断食」を続けているわけにはいかない。

 ある日、若き盲人男性は、自分が抱いている女性の指に結婚指輪がないことに気づく。なけなしの金をはたいて買った結婚指輪をはずすとはどういうことか。男性は翌日、妻にその理由を尋ねる。そこで妻は事情に気づいた。つまり、三人の娘のうちの誰かがこの若き盲人男性と関係をもったということである。男性のほうは目が見えないのだから気づかない。ただ指輪の有無だけで違和感をもったのである。

 母は狼狽した。そして煩悶した。この家にとって男性は目の前の盲人だけである。娘たちもまた、男性を必要としているのである。にもかかわらず、自分だけが「妻」の名のもとにそれを独り占めしてもいいのだろうか。その「妻」の座にしたところで、少なくとも相手からすれば結婚指輪の有無によって判断される、はかないものにすぎない。

娘たちが飢えている時、自分の口の中の食べ物を出して食べさせてきたのは、この自分[=母]ではなかったか? たとえ自分がひもじくても、娘たちに食べさせるのが、自分の、母としての、真っ先にすべきことではなかったか?(1251頁)

 その後、行為のたびに指輪を母娘で四人で回して使うようになった。指輪をしている者が正式な妻であり、その肉体が誰のものであるかは関係のないことである。

 むろん、男性の側も同衾の相手が毎回異なっていることには当然に気づいた。しかし、妻でない女性、まして自分の義理の娘とそうした行為に及ぶことはあってはならない。自分はそもそもの最初、クルアーンを読む男としてこの家に来たのだ。にもかかわらず、宗教的禁忌を犯すことは考えられない。相手はあくまで妻であり、それは指輪の感触によって証明される。盲人の自分にとっては、自身の手によって触れられる以上の現実は規範でしかありえない。規範によって構築されるものが絶対的な現実なのだ。それ以上の証明は自分の責任ではない。

彼は同衾の相手はいつも、自分の妻、大義名分の立った相手であり、結婚指輪をはめた女なのだと自分に言い聞かせた。女は時に娘になり、時に年増になり、滑らかになり、ささくれだち、痩せ、そして肥満した。だが、これは女の方の問題だ。いや、これは目明きの問題であり、彼ら、ものを確証する能力に恵まれた者たちのみに責任のあることなのだ。(1252頁)

 ここには、目が見えないという物理的条件(=相手が誰かわからない)と、宗教的禁忌という規範的条件(=結婚相手以外とそうした行為に及ぶことはありえない)の、両方を利用した共犯関係 がある。男性も、女性たちも、それぞれの側からそれを犯している。これは閉じた「家」の自己欺瞞的な肯定なのか。それとも、禁忌を突き破る生命力の狡猾な横溢なのか。この物語はおそらく宗教的共同体の隠喩として描かれているし、実際にそう読まれてきた。そしていずれの解釈も成り立つだろう。むろん、特に宗教的背景を読み込まなくても十分に成り立つ物語であるが。

 しかし、この道具立てや理由づけはいかにも形式的である。静謐でミニマルな文体とも相まって、その印象はさらに強化される。さて、この淫靡な共犯関係に宗教的禁忌や性的欲望からはみ出る何かがあるといえるだろうか。たとえば、ここでの閉塞的な規範なり、登場人物たちの性欲をグロテスクなものに変えるような何かである。どこかにそういうものがないと、頭の中でこしらえた非現実的な物語になってしまうかもしれない。いや、そうした「はみ出る何か」がないと落ち着かないと感じることが、西洋的な物語作法の伝統にとらわれた貧しい読みにすぎないと、この小説は告発しているのだろうか。

 もちろん、非現実的だから悪いわけではない。盲人男性が同衾相手の変化を指輪の有無で気づいたという設定自体、物語のためにうまく作ったものではあるけれど、まったく現実的には思えない――それぐらいは最初に気づくだろう。もともとリアリティどうこうという小説でもないのだから、そうするとこの物語は最初から、すべて盲人男性の側の幻想を描いたものとしても読めるかもしれない。視覚的描写を排した語りはそれを裏打ちするだろう。それはそれでまた別の読みへと物語を開くことになる。

 だがいずれにせよ、その後、あやうい均衡のもとにある家族がどうなったかが示唆されることもなく、淡白な筆致のままにこの短い物語は終わる。

 

 映画もあり。予告編だけど話の筋はこれでだいたいわかります。音楽がずっと鳴り響いているのは小説の雰囲気とはだいぶ違うけれども。

www.youtube.com

  日本文学で比較するならば有名どころで安部公房砂の女』かしら。

砂の女 (新潮文庫)

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