tkira26's diary

吉良貴之@法哲学のブログ。

綾部六郎・池田弘乃 編『クィアと法』(日本評論社、2019年6月)

 先日の日本女性学会で刊行前合評会(?)を行った、綾部六郎・池田弘乃 編『クィアと法』(日本評論社、2019年6月)が刊行された。私はそこでコメンテーターとして若干の問題提起を行ったが、以下ではそれをもとに、本書全体の意義について述べてみたいと思う。写真はそのWSの様子(左から執筆者の綾部、志田、池田、コメンテーターの松田さおりの各氏、そして私)。

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日本女性学会WS「「クィアと法」の可能性を考える」(2019.6.16、一橋大学

1. 本書の構成

 本書の構成は以下の通りである。詳細は出版社ページを参照のこと。

序文……綾部六郎

【第1部 周縁化されたセクシュアリティ
第1章 ケーキがあるのになんでセックスなんかするの?……池田弘
    ーー「アセクシュアルと法」を考えるために

第2章 シェレールフーコー……関 修
    ーーフランス現代思想史における一挿話としてのペドフィリア

第3章 オープン・リレーションシップの可能性……志田哲之


【第2部 新たな性/生の実践】
第4章 ハッテン場……石田仁
第5章 コミュニティ……金田智之
第6章 トランスジェンダーと法……三橋順子


【第3部 異性愛規範との交錯】
第7章 カミングアウトしやすいのは「誰」なのか……三部倫子
    ーー「LGB」へのインタビューをジェンダーから読み解く

第8章 セクシュアリティ化されるマスキュリニティ……岡田桂
    ーーフィジカル・カルチャー雑誌における男性身体表象の変遷と
    ホモソーシャル連続体

第9章 ハイスミス映画のクィアと逸脱……菅野優香
    ーー冷戦下のホモセクシュアリティ

 同じく綾部・池田が編者になっている、谷口洋幸・綾部六郎・池田弘乃 編『セクシュアリティと法』(法律文化社、2017年)や、『法学セミナー』2017年10月号特集「LGBTと法」と密接な関係にある書であり、題名の通り「クィアと法」の関係を明確にテーマとしている。セクシュアリティと法が関わる多様な問題を踏まえるならば本書の目的や独自性がより明確になると思われるため、以上の書と合わせてご覧になることを強くおすすめする(もちろん、本書の後に以上の一般的な問題の考察に進むことも有益であろう)。 

セクシュアリティと法: 身体・社会・言説との交錯

セクシュアリティと法: 身体・社会・言説との交錯

 
法学セミナー 2017年10月号 LGBTと法

法学セミナー 2017年10月号 LGBTと法

 

 2. 「クィア」とは?

 「クィアqueer)」というのは英語で「変態」「奇妙な」といった意味だが、そういったネガティヴな言葉を「あえて」自身のセクシュアリティに関わるものとして引き受けることによって、異性愛中心主義的な性に関わる規範的意味秩序に「ズレ」を生じさせる、そういう実践または状態を指す用語である。

 クィア理論は歴史的に、1980年代以降のセクシュアル・マイノリティ解放の動きのなかで、ゲイ&レズビアン運動がともすれば本質主義的な戦略ーーそれぞれに「固有の」アイデンティティや文化があるというようなーーをとってきたことに対抗し(いわば「戦略は必ず戦略以上のものになってしまう」というバトラー的な問題意識でもって)、徹底的にミクロな場面において規範的な意味の撹乱を行っていくラディカルな運動として特徴づけることができる。それは理論的には、1990年代以降にジュディス・バトラーらを中心にして一気に精緻化されるポストモダンフェミニズムの源流のひとつとみなせる。

 むろん、ここにはセクシュアル・マイノリティ解放運動内部における緊張関係があり、その緊張は本書の諸論考のなかにも伏在している。そして、その対立軸自体がさらに錯綜しているーーそれは各論者が「クィア」の一面的な理解を拒み、錯綜に向けて意図的にドライブをかけている結果でもあり、本書の記述を魅力的なものにしているともいえる。

 とはいっても、一定の問題関心の共有は当然にあるし、本書を読み進めていく上での一応の手がかりは示されるべきだろう。それは綾部六郎による序文で述べられている通りだが、以下では私の問題関心に引きつける形での整理も多少、行っておきたいと思う。

3. 「法をクィアする」とは?

 クィア理論的な問題関心と、フェミニズム運動あるいはセクシュアル・マイノリティ解放運動、そして「法」との関係には実際のところ、かなりの緊張がある。あくまで例示することしかできないのだが、たとえば、バトラーらのポストモダンフェミニズムはそれ以前のラディカル・フェミニズム(キャサリン・マッキノンやアンドレア・ドゥオーキン)の法改革運動に厳しい批判を加え、より「社会的な」領域における意味実践に焦点をあてる議論を行ったーーここでの「社会」とは、国家や法といった制度構造から区別される非定形な領域である。しかし、こうした姿勢は、異性愛規範的な意味の最大規模の供給源である「法」制度に向き合うことに消極的になり、結局のところミクロな意味実践を活発にする一方でマクロな社会的枠組みを温存するかもしれない。要するに、マッキノンやドゥオーキンの反ポルノ運動が保守派に逆用されたのと同様に、クィア理論は政治的には保守的な言説として機能してしまうのではないか?

 こうした批判は既におなじみのものであり、クィアと「法」を明示的にタイトルに並べる本書の執筆者たちには当然に意識されている。したがって、本書の諸論考は性的意味の供給源たる「法」に正面から向かい合い、そこにいかなる意味のダイナミズムがあるのかをつぶさに分析し、そしてその変容可能性まで積極的に示そうとしている。

 おそらく最も理論的関心が強いと思われる池田論文(第1章)は、他者と関わる性行為への志向性の不在としての「アセクシュアル」、あるいは他者とのロマンティックな性愛関係への志向性の不在としての「アロマンティック」を取り上げる。それによって、性愛の価値自体は異性愛と共有している他のマイナーな性のあり方よりも根本的に批判的な視角となりうる「不在 a-」の意義を示す。いわばゼロベースからの思考によって、性愛を前提としない親密な関係のあり方(池田の重視するところでは「ケア関係」に基づくものなど)の可能性を開いている。

4. 法がクィアされるとき

 ほか、本書は狭義の法学だけでなく、歴史学的・社会学的関心の強い論者による多様な論考を収録している。たとえば「ペドフィリア」をめぐる概念史を滋味豊かに描き出す関論文(第2章)は、現代フランス思想において現れたエピソードをもとに、ペドフィリアを単に犯罪的なものとしてではなく、非定形な性的指向性として概念的に再定位することで、これからの性の豊かさに開く可能性を示す。アメリカのスポーツ雑誌の表紙に描かれる男性身体、とりわけ家族的な関係における表象のあり方の変遷を追った岡田論文(第8章)や、パトリシア・ハイスミス原作の映画作品(最新のものは2015年の『キャロル』)における性的意味のクィアな揺らぎを分析する菅野論文(第9章)のように、文化的表象におけるクィアネスを示す論考も興味深い。

 むろん、本書では日本の状況にも十分に目配りがなされている。現代日本の「ハッテン場」の歴史をたどる石田論文(第4章)や、「女装者」(とりわけ女装男娼)への法的対応史をめぐる三橋論文(第6章)は、異性愛規範秩序を維持しようとする法の論理がいかにして、それと異なる性のあり方を抑圧するものへと「横滑り」する形で利用されているかを詳細に描き出す。それらは正面からの規制というよりは、いわば例外的な性のあり方に対応しようとして苦しくこしらえられた論理であるが、例外に対処しようとする苦しさにおいて異性愛規範的な法の本質が露呈する瞬間を見事に捉えている。

5. 現代日本の「制度化志向」運動の困難と可能性

 現代日本の「LGBTブーム」、とりわけ同性パートナーシップ制度などに象徴的な「制度化志向」の運動における困難もいくつかの論考で示されている。「カミングアウト」における「語りにくさ」を当事者への聞き取り調査のもと丁寧に分析する三部論文(第7章)や、「制度化」を目指す運動のなかにある「アイデンティティの政治」の困難(そしてそこにおける「クィア」論の緊張)をフーコーやギデンズ、ルーマンの議論を参照しながら分析する金田論文(第5章)は、現在の日本の「LGBT」をめぐって展開されている言説や運動を考察するうえで不可欠の分析視角を示している。

 また志田論文(第2章)は、制度化志向の運動が「性の多様性」を標榜しながらも結局のところ、異性愛カップルをモデルにすることによってかえって大きな枠組みとしての異性愛規範性を温存してしまうーーそれは2015年に同性婚禁止の違憲判断を行ったアメリカ連邦最高裁 Obergefell 判決が保守派への説得のために意識的にとった「戦略」であるがーーという問題を指摘し、親密な関係性をより「開かれた」ものにする意義を示す。現代日本のセクシュアル・マイノリティ解放運動の困難さを踏まえつつ、具体的な方向性を示している点できわめて興味深い。

6. 「法」への向き合い方そのもののクィアネス

 各論者が取り上げている題材は何かしらの形で「法」と関係している、つまり異性愛規範的なものによって規制の対象とみなされうるものであるが、各論考がそこから引き出そうとする含意はそれぞれである。異性愛規範性が充満する「法」の概念そのものを「クィア」が組み替える可能性を示す論考もあれば(それを最も意識しているのは池田論文(第1章)であろう)、そうした規範的な一般化に慎重であり、まずはミクロな意味実践の分析においてまだ行うべき作業が残っているではないかと主張する論考もある(こちらを最も明示的にとっているのは石田論文(第5章)であろう)。

 本書のうちの、こうした対立軸そのものの錯綜は、そもそもミクロな意味実践の撹乱として始まったクィアが「法」というマクロな制度に取り組むときの距離のとり方の難しさを、それ自体として示しているといえる。それはもしかしたら、クィアな問題関心にもとづく法改革運動の具体的なあり方を提示しにくいーーそれ自体が意味の固定化につながることが危惧されるためーーという問題にもつながるかもしれない。

 しかし、そうした問題をことさらに強調するよりもまず、「性」をめぐる規範的意味の変容のダイナミズムがこれまでどのようなものであったか、そして今後どのようなものでありうるかを見ておくことが、「クィアと法」を始めるための重要な作業となるだろう。本書に、その第一歩として重要な議論が多く含まれていることには疑いがない。