tkira26's diary

吉良貴之@法哲学のブログ。

『理想』700号(2018年3月)「特集 ドイツ近世哲学――私たちにとってのドイツ観念論」

  • 全論文のランニング・コメンタリーです。 

  •  バックナンバー一覧を見た感じ、分析哲学は憎むべきブルジョワ反動哲学みたいに思われてる感があってよい。
  • 60年代ぐらいの雑誌だと「分析哲学をいかに批判するか」みたいな特集が組まれてたりするんだよね。

高山守「シェリングヘーゲルの善悪論:善と悪の無差別」

  • 「[シェリングは]私たち人間の振る舞いは、その都度、何ものにも依存しない、私たち自身の自己創造なのであり、その限りにおいて、神の創造そのものと合一するのだ、という。そうであることにおいて、私たちは、神と並びうる完璧に自由な存在なのである」4
  • 「この場合、自由は人間の属性と見なされるのではない。そうではなくて、その逆すなわち、極限すれば、人間が自由の属性と見なされるのである」(ハイデガーシェリング講義』)4
  • 横から出てきて強引にまとめるハイデガーおじさん。
  •  シェリングにおいて人間は善と悪の両方を行いうる自由な存在であるがゆえに人間なのであるそうだ。
  • 「やってはいけないことをやってこそ人間であるというのならば、私たちが人間である限り、やってはいけないことをやらなければならない。……しかも、できるだけ極悪非道なやり方でやってのければならない。」盛り上がってまいりました。5
  • 善も悪も行い「うる」という可能性(=自由)に人間の条件があるというのであれば、実際に悪いことする必要ないんじゃないかな。
  • とはいってもシェリングにおいてまったく善悪無差別かというとそうではなく、メタ原理としての神があって絶対的な善を規定する。
  •  「シェリングにおいては、善悪の差別論と無差別論とが併存している。あるいは、善悪の差別論(神論)が、その無差別論(人間論)を凌駕して君臨している。」6
  • というふうに常識的にまとめるシェリングを前座にして、善悪の彼岸を生きる極悪にして極善なヘーゲルの登場である。
  • 善とか悪とかそういう区別があるんじゃなくって、他在において統一されるのが精神ってもんですよ。はい。
  • このへんはそうですかとしか言いようがないような話なので、もうちょっとわかりやすい承認論へ。
  • 「私は他者の死に向かうことにおいて、私自身を死に曝し、私自身の生命を賭ける。……このこと[現実在の廃棄]によってのみ、私は、理性的なものとして、総体として真に承認される」(『精神現象学』6.310)11
  • しびれますね。
  • これが「普遍的な自己意識」すなわち「精神」「理性的なもの」と言い換えられる。
  • といっても現実に生きている人間は赤裸々な蛋白質の塊なのであるからして何か悪いことをすれば罰せられるし、まあ現実には善悪の区別あるけど、現実は現実で人間だものというまとめ。

山口誠一「ドイツ観念論からドイツ新古典哲学へ」

  • 西田幾多郎における「行為」とは「主観が客観を主観化することであり、客観が主観を客観化することでもある……。また、知的自己が個人であるのに対して、行為的自己は、社会的・歴史的である。……そこでは、個物(我)が個物(汝)を限定するという意味での実践の論理としての絶対弁証法が成立しているのである。」16
  • 行為は意図をつねに裏切る否定性の相において捉えられる……というのがヘーゲルっぽいわけですが。
  • ここから後はフィヒテ死後の重要人物としてヤコービを位置付け、そこからの後期シェリングヘーゲルをドイツ新古典哲学としてまとめていくわけだけど、まあ、よくわかりません。
  • これは単に私がそのへんのこと知らないだけ。すみません。

藤田正勝「日本におけるドイツ観念論の受容」

  • 東大でのフェノロサ哲学史講義が後のヘーゲル(の図式的な)理解に大きな影響を与えた、という話。
  • フェノロサは1870年代のアメリカのスペンサーブームのなかで知的な自己形成を行ったとのこと。スペンサーには前期の『社会静学』に見られる自然法的・個人主義的側面と、後期の『社会学の原理』に見られる社会有機体論的側面があるが、フェノロサはどちらかというと(当時のアメリカでの受容と同じく)後者を強調し、民権論のような形ではなく保守的な方向で紹介していったと。 
ハーバート・スペンサー コレクション (ちくま学芸文庫)

ハーバート・スペンサー コレクション (ちくま学芸文庫)

 
  • その先にあるのがヘーゲルの歴史哲学だった、というつながり。ただフェノロサ自身は専門的な哲学研究者というわけではないので、それ以上どうこうというものでもないし、その図式的な理解が、彼に学んだ三宅雪嶺清沢満之らに受け継がれて大きな影響力を持ったと。

山根雄一郎「ドイツ観念論の対岸にて:カントの「根源的獲得」論の行方」

  • カント周辺のいろんな人の論争状況。このへんは私に知識が全然ないのでうまく読めませんでした。すみません。
  • カントのア・プリオリな認識は、デカルト主義者たちの生得的な概念と原則に比べれば途方もなく邪悪ではないのか。……カントは自説を自分の恣意的な脳の幻影の上に築いた。……[この]見解は非哲学的であるだけでなく、……すべてを、理性と宗教とを、破壊するものである。」ミオッティのカント批判。

高橋克也「カントの「x」とヘリゲルの「それ」」

  • カントにとって「私 Ich」の核心は「超越論的主観x」という無内容な論理的機能である。
  • 超越論的主観xとしての私においてなされている思考は綜合であり、それは「認識の素材である感覚データを結合し、秩序を与えて意味ある対象の表象へと仕上げる機能」のことである。52
  • 綜合というのは一本の直線を引くように方向性のある思考であり、そこにおいて私は自分が何をしているのかを意識し、自己同一性を獲得するのである。52-55
  • 自己とはそうやって他律的に現象するものであるところ、さすれば自己の自由=自律は如何にして可能になるかという逆説的な問いに取り組まねばならぬ。
  • ヘリング的な「それ」が私をして芸術作品を生み出させた、みたいな主客転倒論は『判断力批判』における天才論に表れていると。
  • 経験豊富なピアノ奏者のように「活動が無意識性・不随意性を味方につけることが自由の完成であるとするような「自由」の概念を私たちはたしかに持っているのである。」ほう。59
  • それは「人為と自然の和解の上に成り立つある滞りのなさ」である。60

滝沢正之「カントの様相論」

  • 純粋理性批判』の「形而上学的演繹」「超越論的図式機能」「経験的思考一般の公準」の三箇所からカントの様相論を考える。
  • ここでの様相とは、経験的認識における可能性、現実性、必然性の三段階に分けられる。
  • ここでいう認識的様相(認識的モダリティ)は論理的様相や(自然)法則的様相とは異なり、主体の信念状態を表すものである。
  • カントにおいて可能性の数は現実性の数と一致する。これは一見したところ理解しがたいが、主体の認識的様相に限定されているからそうなるのである。……信念において可能性と現実性の数が同じというのもまだちょっと理解しがたいが、カント的にはとにかくそうなのか。
  • 経験判断に認識的様相を付加することによって知覚判断がなされる。
  • 認識的様相の可能性、現実性、必然性について、判断的様相の対応は蓋然性、実然性、確然性である。
  • 「カントは、ある状況において認識的な様相概念をどう使用するのが合理的なのかという、認識論上の規範的な議論を提示しようとしている。理想的に合理的な認識主体にかんしては、その信念状態は、認識過程のどの段階にいるかに対応するはずである。それゆえ、様相概念を認識過程の段階に結びつけることで、認識過程のかくかくの段階ではしかじかの様相概念を使用すべきである、という規範的な議論を展開しうる。」70-71
  • わくわくしてきたぞ!
  • あとは「経験的思考一般の公準」に即したあてはめ。
  • やあ。これは面白いです。
  • 法的三段論法のモデル化みたいな話にうまく使えるんじゃないかしら。

中川明才「フィヒテと異他的なもの」

  • フィヒテ自我論において(従来は消極的なものとされてきた)「異他的なもの das Fremde」の意義について。
  • フィヒテを全然知らないので、勉強になりましたというぐらいしか言えず。すみません。

幸津國生「「私たち」にとってのヘーゲル哲学」

  • 意識・理念・実在の相互関係の捉え方においてヘーゲル哲学の意義を探っていく。
  • ヘーゲルにおいて哲学することは私たちが自己と世界との関係を問う日常生活の冒険であるが、この冒険は必ず失敗し、逆に世界が私たちの基盤となっていることを見出すのである。
  • 意識から学へ。経験そのものを成り立たせるものの次元へ。自己意識の相互承認から、自己を含んだ世界という精神へ。
  • 学の体系(エンツィクロペディー)は硬直した閉じた体系ではなく、実在哲学(『精神現象学』)と論理学が相互に影響を与え合うという意味で開かれたものである。
  • 意識(と哲学の欲求)の話で終わった感じで、理念と実在の関係がよくわからないのだけど、たぶんこれはヘーゲルの体系がある程度は頭に入ってないとよくわからない書き方になっているのだろう。

山田有希子「「矛盾と無矛盾との〈矛盾〉」としての論理学:〈私たち〉にとってのヘーゲル哲学」

  • 哲学史」は「私たちの哲学の生成を叙述」するものであり、さらには「私たち自身の生成を叙述するもの」でもある。110
  • 哲学史の叙述そのものが〈私たち〉を作り上げる営為である。
  • 現代哲学はすべてヘーゲルの手のひらの上!
  • 論理学は「純粋学 die reine Wissenschaft」であり、即自的かつ対自的に自由な、学のための学である。111
  • そこでの純粋知は精神の自己知である。ヘーゲルによれば「論理的なるもの」は「[人間]固有の自然[本性]そのもの」であり、「論理的なるもの」を知ることで人間精神そのものを知ることになる。112
  • 論理的なものはそれ自体として存在するのではなく、精神との関わりにおいて理解される知であり、それは人間固有の自然本性に属する……というのはなかなか強めの存在論的主張。
  • 〈言葉(概念)――人間「本性」としての論理的なもの――存在」という三幅対の考察が「本来の形而上学 die eigentliche Metaphysik」としての論理学の第二の意味であると。112
  • 「概念」が「自我、あるいは純粋な自己意識」である(!)。112
  • カントのアンチノミー論において「思考の諸規定における内的否定性そのもの」「思考の諸規定の本性に属する矛盾の必然性」が明らかにされたことはヘーゲル的にすばらしいが、カントは物自体と現象を分けることで悟性の領域に引きこもってけしからん、ヘーゲル論理学は矛盾そのものを考え抜く思考の思考としての純粋な思弁哲学でもってさらに先に行くよ。113
  • 矛盾は解消されるようなものではなく、むしろ理性的思考の可能性の条件であると。
  • 「説明」において根拠と被根拠が非同一であること(区別設定)と、根拠と被根拠が同一であること(区別解消)とが同時に成立している。……んんん??
  • A「物体の落下」と B「重力の法則」は、B があるから A が起こると説明されると同時に( A と B の区別設定)、A という現象から B という法則が遡及的に見出されるという意味において A と B の区別解消も、説明において同時になされている、ということかな。
  • (追記)この点、著者の山田氏から教示を得た。あくまで私(吉良)の理解するところ、ある出来事 A から一般法則 B を見出す帰納が「境界設定」である。そして、そこで得られた法則 B をある出来事 A に適用する演繹においては、A は B に部分として含まれるために同語反復になり、「境界解消」がなされる。詳しくはヘーゲル精神現象学』「悟性」関係箇所を直接参照のこと。

  • この区別が撤回され、根拠と被根拠(ex. 原因と結果)が同一になってしまう理性的矛盾①がヘーゲル的矛盾では「なく」、その矛盾①と根拠と被根拠が区別されるカント的悟性的無矛盾②が精神において両立してしまうメタ矛盾③が「ヘーゲルにおける第一義的矛盾」であると。116-117
  • 無矛盾的な常識的な論理と、それを解消する矛盾許容的(?)な非常識な論理が可能性としてありえて、どちらかがどちらかに優越したり解消されたりするのではなく、無矛盾と矛盾が両立してしまうメタ矛盾(=運動?)が、思考の可能性の条件として〈すべての私たち〉の精神に存在するという感じか。
  • 〈すべての私たちの世界〉はその外部としての〈彼らの世界〉をつねにすでに含み込んでいて、精神の運動において諸〈彼らの世界〉は矛盾ととともに次々に包摂されていくのだろうけど、そうするとその精神の運動史に終わりはない、と読むのが素直な感じもするけれど、でもヘーゲル的にはどこかで打ち止めになるのかな。
  • 精神の運動はいつまでも続く、と――本特集の他のいくつかの論文と合わせてみても――読むのがよさそうな気もしますが、どうなんでしょう。

川瀬和也「ヘーゲル英語圏の現代哲学」

  • マクダウェルやブランダムのネオ・ヘーゲル主義における分析哲学ヘーゲルの接点として、「図式と内容の二元論の止揚」「倫理的プラグマティズム」「自己意識についての社会的な理解」「反科学主義」の4点があげられている。123
  • 「ブランダムとヘーゲルの接点は、ピピンによれば、観念論、全体論、承認、歴史性の四点にまとめられる。」それって全部では。123
  • ブランダムの主張可能性主義(assertabilism)は「真理や客観性を人間の言語実践の方から説明しようとする考え方」であり、「広い意味で観念論的な発想」である。124
  • 推論主義は全体論的であってヘーゲルにも全体論的発想があり、また、文を正しく用いることに関わる規範性はヘーゲル的な相互承認の産物であると。124-125
  • 著者も「大胆に再構成」(125)と述べているが、ブランダムのヘーゲル利用はちょっと強引すぎないかなあ。ヘーゲルを使ったからといって何か箔が付くようなものでもなかろうに。
  • マクダウェルの Bildung 概念はヘーゲルと結び付けられることが多いが、著者はこれとヘーゲルの結びつきはそれほどでもないだろうという。125
  • Bildung はヘーゲル特有のものというよりヘルダーやフンボルトなど17-18世紀ドイツの広範な知的文脈のもとにあるし、マクダウェルのはどちらかというとアリストテレスから直接引っ張っているのではないかと。125-126
  • 著者はマクダウェルヘーゲルの共通点は主観と客観のいずれかが認識において先行するという考え方の否定だという(126)。
  • だとすればマクダウェルはずいぶんとヘーゲルを矮小化してつまんない話にしていると思う。私はマクダウェルとか嫌いなんでつらくあたるよ。
  • 現代英語圏ヘーゲル研究の ① ポスト・カント的解釈と ② 形而上学的解釈について。
  • ピピンやセドウィックといった論者は、ヘーゲルをカントの超越論的観念論のラディカルな後継者として位置付け、すると存在論的には反実在論者ということになるとのこと。128-129
  • 他方、スターンやクラインズといった論者はヘーゲルをカントから切り離し、実在論的な形而上学の探求を行っているとのこと。128-129
  • たぶんこちらのほうが素直な読みだと思う。
  • ヘーゲルの行為論について、チャールズ・テイラーの「表現主義」的解釈などを紹介。129-130
  • その後の共同体論とか承認の政治論とか、政治哲学的な展開までは触れられていない。

久保陽一「ヘーゲルと近代化:フクヤマハンチントン歴史観との連関において」