tkira26's diary

吉良貴之@法哲学です。自己紹介はこちらから: http://jj57010.web.fc2.com

亀本洋「世代間の衡平」(論ジュリ22号、2017年)について

 標記の論考にて*1、亀本洋は「世代間衡平を損得問題として考えるかぎり、道徳問題は生じない。したがって、正義の問題も生じない」(70頁)と述べている。年金問題などにおける世代間の不公平は「正義の問題ではなく、正義と直接関係しない単なる政策問題である」(70頁)ということである。政策問題だからといって解決が容易というわけでもないだろうが、少なくともそれは法哲学的に重要な問題ではないと考えられているようだ。私の論文「年金は世代間の助け合いであるべきか?」(吉良 2016)に言及されたうえで(69頁・注18)そう述べられており、私の世代間正義論が正義論でないとすると困るので、応答しておきたいと思う。ただ、応答といっても残念ながら〈特に根拠もなく断じられているので、なぜそう言えるのかわからない〉というだけになる。

1. ロールズの貯蓄原理について

 亀本論文は全5節によって構成されている。そのうちⅠ~Ⅲ節はロールズ『正義論』における貯蓄原理(saving principle)の批判的検討である。この箇所については、亀本が従来から取り組んでいる格差原理との関係から精緻な議論がなされており、私も興味深く読んだ。亀本としてはロールズの貯蓄原理は根拠薄弱であるし、具体的な貯蓄率も指定できない以上、これといって使いようもないものとして消極的に評価されているようである(Ⅲ-3)。私もロールズの貯蓄原理については、1)原初状態における利己的な契約主体という前提が恣意的に修正されてしまう、2)当該政治共同体の存続可能性のみが念頭に置かれているため、グローバルな規模で考えるべき世代間正義の問題には無力である、などの消極的な評価を行った(吉良 2006: 397-8)

 亀本も1の点については同様に述べている(67頁)。私としてはこの評価について『正義論』第3部の正義感覚論を踏まえた修正が必要であると考えているが、ロールズ解釈の問題が残ることを認めたうえでなお、貯蓄原理が世代間正義論にとって見込みのあるものとは思えないので、ここでの議論でロールズに深入りする必要はないと思う。亀本も結局そう考えているのだろうから、このテーマでなぜこれだけの紙幅を使ってロールズ貯蓄原理について論じているのかはわからない。ロールズ貯蓄原理を世代間正義論にとって重要なものとして位置付ける有力な議論があればそれを退ける意味があろうが、管見の限りそういうものは多くないし、亀本も文献をあげていない(世代間正義論に関わる文献は、ロールズ以外には注18-19に若干の邦語文献があげられているだけであり、近年の議論は無視されているようだ)。

2. 世代間正義論は正義論か?

 Ⅳ節は「正義」「衡平」をめぐる概念的整理であり、実質的な論点は特になさそうである。経済学でどのような言葉が好んで使われるかといった事情は、法哲学の議論に影響を与えない。「世代間の衡平」について最も具体的かつ破壊的な主張がなされているのは最終のⅤ節なので、以下、そこでの議論を見ていく。

 Ⅴ節では特に根拠があげられないままに多くの強い断定がなされているため、なぜそのようなことが言えるのか理解できないところがほとんどである。たとえば「[公的年金の受給額の不公平よりも、]公的年金制度によってエッセンシャル・ミニマムまたは格差原理ミニマムの水準がどうなるかという問題のほうが社会的正義論にとってはるかに重要である」([]内補足と強調は吉良)ということだが、その根拠は明らかでない。確かに公的年金自体は偶然的に存在する制度に過ぎず(他のあり方も当然にある)、そうした社会保障制度によって実現される福利水準のあり方のほうがより根源的な問題であるということかもしれない。しかし、(日本の)公的年金制度が現に相応の歴史をもって存在し、そして現在、利益対立が深刻になっている状況をみれば、それ自体としてその問題を考察することも重要ではないだろうか。

 亀本は、「エッセンシャル・ミニマムまたは格差原理ミニマム」の同定は分配的正義論の本質的な問題であるが、公的年金制度をどうするかといったことは、その原理的な議論の後に、実現方法を具体的に・政策的に考えればよいと位置付けているのかもしれない。だとすれば二次的問題として後景に退くのも理解できなくはない。しかし、そのような位置付けは不当である。公的年金をめぐる議論にしたところで、これまで支払ってきた額との均衡をどのように評価するかとか、賦課方式が前提とする世代間協働のあり方だとか、法哲学的に原理的で、また別の豊かな問題群に開かれている。だから「社会的正義論にとって」どちらが重要であるかというのは自明でない。

 再び引用すると「公的年金問題は正義の問題ではなく、正義と直接関係しない単なる政策問題である」(70頁)ということだが、どの世代に生まれたかという、自身に責任のない要因によって公的年金の受給額に格差が生じる状況があり、それを何らかの形で是正しなければならないとすれば、そのあり方(何を指標とするかなど)や根拠が当然に問われなければならないはずである。それは正しく分配的正義の問題であると私は考える。亀本が注18で触れている私の論文[吉良 2016]でもさまざまな論点をあげたのだが、どれも論じるに値しないということだろうか。いずれにせよ、たとえ「政策問題」だとしても、どのような政策を取るべきかは何か中立的な計算によって決まるものでなく、一定の道徳的考慮が避けられないと思うのだが。

 また続けて亀本は、経済成長率が十分に高ければ「世代間不公平がことさらに問題になることもなかったであろう。このことからも、公的年金問題が正義の問題ではなく、状況に依存する単なる政策問題であることがわかる」(70頁)とも述べるのだが、これもわからない(「エッセンシャル・ミニマムまたは格差原理ミニマム」はそうでなく、何か客観的な水準があるのだろうか?)。

 社会的分配への要請が具体的場面においては切迫したものだったり、そうでもなかったりすることは事実としてある。しかし、それは分配的正義論という原理的な問題にとって無関係である。たとえば、ある格差社会において誰もがそれに満足しているからといって、それを是正すべきだとする平等主義的正義論が正義論でなくなるわけではまったくない。亀本の主張はどうも、ステレオタイプなマルクス主義の正義不要論を繰り返しているように見える。いくら現実の経済成長率が高かろうとそれ自体は原理的問題に影響を与えないし、現実にも、パイが大きくなる社会において分配をめぐる人々の争いがなくなるわけではない――むしろ豊かになったがゆえに争いが苛烈になった例さえいくらでも指摘できるだろう。この点は最後の「世代間衡平を損得問題として考えるかぎり、道徳問題は生じない。したがって、正義の問題も生じない」(70頁、強調は吉良)という記述にも表れている。「損得問題として考えるかぎり」と留保しているのだから別の問題としては道徳問題となりうる余地を認めているようにも思えるが、以上に述べた通り、損得問題として考えてもなお道徳問題となるのである。

 ほか、環境問題と世代間正義について最後(Ⅴ-2節)に述べられており、「まだ存在しない人々の現実の選好や意見を現時点で認識できないことは明らか」ということである。これは将来(に対して現在世代の行為が与える影響)の不確実性を強調することによって世代間正義の可能性に疑問符をつける種類の主張であろう。しかし、それによって「将来世代の選好とか権利とかいう概念を導入すること自体がミスリーディング」(70頁)とまでいえるかどうかは、微妙な検討が必要である。

 亀本は明示していないが、ここで念頭に置かれていると思われるパーフィットの非同一性問題を真剣に受け止めるならば*2、現在世代の行為が将来世代の遺伝的組成をいくらかなりとも変化させ、その同一性を失わせる以上、将来世代を主体とした権利論は成り立たなくなる。そのような意味であれば私も将来世代の権利論に消極的な議論を行ってきたし(吉良 2006; 吉良 2010)、現在世代の「みずからの道徳的義務――これは受益者の権利を含意しない――の問題としてそれ[世代間衡平をめぐる道徳問題]を考えるほかない」(70頁、[]補足は吉良)という亀本の主張にも賛同できるのだが、単に将来世代の選好や因果的経路の不確実性や不可知性のみによってそれを主張するのは困難ではないか。

 「現実に」まだ存在しない人々の「現実の」選好や意見を現時点で認識できないのは確かに明らかだが、何も言ったことにならない。おそらく、現時点の我々はそれを想像的に構築することさえも許されないということなのだろう。しかし、将来世代の選好や意見はそれほどまでに不確実なものだろうか。将来世代といってどれだけ遠くまでを考えるかにもよるが、せいぜい数十年の先であれば我々とさほど変わらない人々が存在する――おそらく我々のかなりの部分はまだ生きている――であろうと考えることにそれほどの不自然さはないだろう。

 そうすると結局のところ、どれだけの範囲の将来世代をどのような主体として立ち上げるかは、現在世代が不確実性を不可避的に抱え込みつつ、決めることになる。そこで登場するのはあくまで我々現在世代のみであり、将来世代(や過去世代)との関係は、現在世代がそれをどのように想像的に構築して規範的な関係を取り結ぶかという、徹底して現在の問題に還元されることになる。それは現在世代内の問題である。だとすると、それは世代「間」正義(justice between generations)ではないし、私がこれまで論じてきたものも、少なくとも将来世代(や過去世代)との関係における世代「間」正義論ではない。しかし、さして致命的な批判ではない。それは現在世代内の分配的正義論として再構成されるのであり、正義論であり続ける。亀本がいくら将来の不確実性を強調したところで、いや強調すればするほど、そこでの集合的決定の道徳的根拠が厳しく問われる。

[文献]

亀本洋(2017)「世代間の衡平」論ジュリ22号

吉良貴之(2006)「世代間正義論」国家学会雑誌119巻5-6号

吉良貴之(2010)「世代間正義と将来世代の権利論」(愛敬浩二編『人権の主体』法律文化社

吉良貴之(2016)「年金は世代間の助け合いであるべきか?」(瀧川裕英編『問いかける法哲学法律文化社

*1:以下、単にページ数だけを示した引用は、亀本(2017)のもの。

*2:真剣に受け止めない方法もいろいろある。