tkira26's diary

吉良貴之@法哲学のブログ。

カスタマイズできる世界とオプションとしての世界

 わたしはインターネットに詳しい。

 などというとさっそく、なんだか困った人になるのだが、私個人はともかく、世代的にはそう間違いではない。今回の「とちぎ消費者カレッジ*1」にお招きした先生方と私はおおむね同世代の「アラサー」だが*2、インターネットを日常的に使うようになった、かなり最初期の人々になるだろう。

  大学の情報処理センターに行けばパソコンがぎっしりとそろえられていた。これがまた使いにくかった*3。もう少し正確にいうならば「ほどよく」使いにくかった。それ以前の本気で使いにくいパソコンであればあきらめていたかもしれないのだが、そこそこいろいろできる程度には使えるものだったので、見よう見まねの手探りで、インターネットの広大な空間を徘徊したり、ホームページや掲示板を作ってみたり、ちょっとしたプログラミングの真似事をやったりもした。

 それはとても楽しかった。おかげでけっこうな時間を無駄にしたし、痛い目にもあった。しかし、そうした経験のおかげで、ネット関係の危ないところと便利なところを見分ける力はそれなりについたように思える。なので今回扱われた「ネットトラブル」の新しい消費者問題も、そういう危険があることは十分にわかるのだが、しかしなぜそれに「若者」があっさり引っかかるのか、という点ではいささかの違和感もある。本稿はこの違和感の原因を考えるものである。

 パソコンやネット関係の知識とかリテラシーは、「若い人ほど詳しい」が常識だった。わたしが何十時間もかけてどうにか習得した知識も、ほんの数歳若い人であれば一瞬で身につける。悔しいけれども、そういうものである。しかし、インターネット利用法の主流がパソコンから携帯(スマホ)に移るにつれ、そうした常識が成り立たなくなった。現在の大学生ぐらいだと基本的に、ネットやメールは携帯でするものだ。しかし、携帯だけでできることはとても限られている――少なくとも「旧世代」にはそう見える。それで身につけた程度の知識では、ネット上の「悪徳業者」を軽くあしらったり、「炎上」を避けつつ SNSを使いこなすのは難しいのではないかと不安になる。

 ここで「カスタマイズできる世界」と「オプションとしての世界」というふうに、ネット世界の捉え方に強引な世代間断絶を持ち込んでみよう。私たちにとってパソコンやネットの世界は、細かく「カスタマイズ」できるものだった。何かやりたいことがあれば相応のハードを秋葉原で買ってきたり、あるいは乏しいプログラミング知識でどうにか、環境を自分にとって使いやすいものに整えていった。自分だけではできなくても、そういったことに青春を捧げる人がネット上にはたくさんいたので、その恩恵を受けていろいろするのが普通、という人々は多かっただろう。世界は自分好みにカスタマイズできるものだった。正確には、その幻想が持てるものだった。

 携帯やスマホを通して見るとき、世界はずっと狭いもののように思えてくる。もちろん、スマホでは自分好みのアプリをたくさん入れていろんな楽しいことができる。そこでできるようになったことは、私たち旧世代が幻想の全能感にひたりながらちまちまとやっていたことよりもはるかに多い。そういう意味での便利さは、いまでも時代とともに格段に進化しているし、これからもするだろう。だが、それを使う側が向き合っている世界は、これまでとはどうも異なった質のもののように思えてくる。

 というのは、携帯やスマホで使われるアプリは、使いやすいように自分勝手に「カスタマイズ」できるようなものでは、ほとんどの場合、ないからである。もちろん、自分用にいろいろと「設定」できるのだが、それはあらかじめ用意されている「オプション」の範囲にとどまっている。この設定をオンにし、この設定はオフにする。そうした積み重ねを経た結果としてできることは、おそらくかつてのそれよりもはるかに「オーダーメイド」なものになった。しかし、あらかじめ与えられたオプションのオン・オフを繰り返すのと、そもそもそのオプション自体をカスタマイズする――少なくともそれが「できる」と思い込む――のとでは、ネット世界に対する向き合い方は大きく変わってくる。ここでの問題は、できることの数自体ではなく、その前提そのものを変えることに思いが至るかどうかなのである。

 「オプションとしての世界」において、そのオプションはエンドユーザーにとって所与のものとなる。もちろん、こうした機能がほしいといった要望をアプリ提供会社に出し、それがサービス改善につながることはあるのだが(とはいっても、そんな要望をする人の大部分は環境を「カスタマイズ」してきた旧世代ユーザーではないだろうか)。この所与のオプションというものは、私の専門の法哲学では「選択アーキテクチャ」などというのだが、所与のオプション以外の可能性が「ありうる」という感覚そのものを失わせるという特徴がある。ごく卑近で象徴的な言い方をするならば、カレーライスとラーメンしかメニューにない食堂にいつまでも通っていると、それ以外にメニューがありうるという感覚が失われるとか、あるいは食堂に行かずに自分でおいしい料理を作るとかいった発想が出てこなくなるといったことだ。

 ……などというといかにも些細なことに思えるかもしれないが、「オプションとしての世界」で起こっている事態は、それが少しだけ複雑になったものにすぎない。言うまでもないことだが、そうしたオプションは誰かが「カスタマイズ」して提供しているものである。そこにときに相応の悪意がこめられることは今回のネットトラブル事例からも明らかだろう。そしてその悪意は、ときにカスタマイズした誰かの意思さえも超え、無数の設定のオン・オフの繰り返しの中で増幅されていく。そして最終的な「被害」を拡大してしまう。「オプションとしての世界」には、そこに思い至る可能性そのものが少しずつ摘み取られていくという構造がある――それはもしかしたら、世界を自分でカスタマイズできると信じ込んでいる人々においてこそ実際は深刻なものであるかもしれない。そして、別様の可能性があらかじめ閉じられているこの構造から抜け出すことは難しい。せいぜいまた別の世界、おそらくは「リアル」と呼ばれるものとの接触の中にしかその契機はないだろう、といういささか説教めいたそそのかしのみで本稿は閉じられる。(初出:『都市経済研究年報』13号、2013年11月)

*1:2013年7月に宇都宮市内で開催した、学生向け消費者啓発イベント。横田明美(千葉大学行政法)、松尾剛行(弁護士)、梅山哲也(弁護士)の各先生にお話をいただいた。

*2:私はもう厳しくなった。

*3:OS は UNIX で、何かよくわからないコマンドを打ち込んで使っていた。