荒木優太「反偶然の共生空間」へのランニング・コメンタリー
2016年1月10日の若手法哲学研究会にお呼びしてお話いただく荒木優太さんの「反偶然の共生空間――愛と正義のジョン・ロールズ」(群像新人評論賞優秀作、群像2015年11月号)の感想です。本作はロールズ『正義論』の意欲的な読み方を示すものであるとともに、ご専門の近代日本文学への応用可能性も感じさせ、いわば〈法と文学〉の実践例としてとても興味深く拝読しました。ここでは第一コメントとして、できるだけ本文に内在的に、思ったことをつらつらと書いてみます。ページ数は『群像』のもの。
72:序文
- 「生には〈一度〉しかないが、思考には〈何度も〉がある。ここはロードスではない」。反照的均衡ってそういうものかな*1。どうだろう。
73-75:光と闇の光学的コード
- 高橋たか子「共生空間」(1971)を導入とシメに。
- 知らない作品だったけど、これがどこまで全体に効いてくるか。
- 「あの人と私は目鼻立ちこそ違ってはいるが、魂は同じもの。あの人がいるかぎり、私は取り換えのきく存在でしかない」という「交換可能で想像的な共生空間」。
- 古井由吉「杳子」が芥川賞を受賞したのもほぼ同じ1970年。ユング的な共同主観性をいうならばこっちのほうがよさそうにも思えるが、言及なし。何もかも薄明のなかに溶融する古井よりは、高橋の「光と闇の光学的コード」の排除の中途半端さ――愛せる偶然と愛せない偶然のコード?――のほうがロールズ正義論と共振するという読みか?
*1:本論文が反照的均衡に触れているわけではない。本論文はロールズ正義論の方法論的特徴として取り上げるのは無知のヴェールだが、一方で正義と愛の反照的均衡(?)の可能性といったテーマもこの枠組では興味深いものと思われる。ロールズ論としての体系性は筆者が目指すところのものでは必ずしもないだろうが、今後の加筆においては期待したい点である。
森村進「還元主義的人格観とリバタリアニズム――吉良貴之会員への応答」への応答
森村進先生(一橋大学)から、前年に先生の著書『リバタリアンはこう考える』(信山社出版、2013年)について私が書いた書評「リバタリアニズムにおける時間と人格」(『法哲学年報2013』2014年10月、以下「書評」とする)への応答をいただいた(森村進「還元主義的人格観とリバタリアニズム」『法哲学年報2014』2015年10月)。
私の書評は自分の問題関心に強く引きつけた批判的内容であったため、森村先生の中心的主張を外したものになっていたのではないかと怖れていた。しかし、今回の応答ではそれも含め、議論を全体として好意的に受け止めてくださっているように思う。いろいろと生意気な批判をしたにも関わらず真摯な応答をいただいたことに、心よりの感謝を申し上げたい。
本稿は再反論というほどのものではないが、私の当初の問題関心をさらに明確化して述べたほうが論点がはっきりするのではないかと感じたため、若干の補足をしてみたいと思う。以下、敬称を略す。
私の書評は、まず方法論的特徴として (1) 森村のリバタリアニズム思想の正当化における多元主義的道具立てを確認し、次に (2) 森村における時間と人格観の関わりについて、(2-1) 自己奴隷化契約と還元主義的人格観、(2-2) 他者としての将来、(2-3) 死と人格、というふうにテーマを分けて論じた。森村の応答もその順番に応じたものになっているため、本稿でも再度、その順に述べていく。
続きを読む左足腓骨骨折記
2015.6.24(1日目:受傷)
- 30代大学教員、男性。腓骨骨折日記です。各種ブログで同様の症状の方の体験記を読んで励まされたので、自分も少し書いておく。もちろん、症状や治癒速度は個人差がすごく大きいので、お医者さんの意見を最優先にしてください。また、お医者さんによって言うことが正反対だったりもするので、不安に思ったら遠慮なくセカンドオピニオンを受けてください。
- 大学内、水曜2限開始前(10時前後)。ふだんはエレベーターを使うが、なんとなく気分で外階段を降りていたところ、雨に濡れた部分で滑って転倒。左足を思いっきり外にひねる。痛みでしばらく動けず。10分ぐらい倒れたまま。なんとか立ち上がって、人のいるところに出たものの、全然歩けなくてへたり込む。これはおかしいということで事務の方に車椅子を持ってきてもらって医務室に移動。しばらく氷水できんきんに冷やして、体育の元先生に固くテーピングしてもらう。この時点ではひどい捻挫だろうと思っていたが、念のため病院へ。仕方ないので授業は緊急で休講。
映画「ハンナ・アーレント」
2012年11月に東京国際映画祭で鑑賞したときのメモ。
700人ぐらいの会場が満杯で、こんなマイナーなニュージャーマ
以下、いくつか気がついた点など。ネタバレあるかもしれませんが